187 セーヌ河岸のパリ・プラージュ (フランス共和国)

187 セーヌ河岸のパリ・プラージュ

187 セーヌ河岸のパリ・プラージュ
187 セーヌ河岸のパリ・プラージュ
187 セーヌ河岸のパリ・プラージュ

187 セーヌ河岸のパリ・プラージュ
187 セーヌ河岸のパリ・プラージュ
187 セーヌ河岸のパリ・プラージュ

ストーリー:

 パリのセーヌ河岸、ルーブル美術館側は多くの自動車が行き来する自動車専用道路であったが、2016年9月、その3.3キロに及ぶ区間から自動車が閉め出され、歩行者専用空間として6ヶ月間、試行的に使われるようになった。
 これまでも、この道路区間は「パリ・ビーチ」という、夏の2ヶ月間、自動車が排除された人工的なビーチが2002年以来つくられていた。このビーチは夏のパリから脱出できない低所得層の人々にも、ちょっとしたバカンス的な体験ができるようにと当時のベラトラン・ドラヌエ市長が企画したものである。この事業は好評を博し、ちょっとしたパリの夏の風物詩となった。
 それが2016年の夏から2ヶ月間ではなく半年間ほど自動車が閉め出されることになり、しかもドラヌエ市長の元、助役を務め、彼の後を引き継いだ社会党のアンヌ・イダルゴ市長はその後、半年だけではなく、永久に自動車をこの道路から追放すると発表した。そして、その言葉通り、半年間の試行期間が過ぎた後も、ここに自動車を走行させないようにしたのである。
 パリの中心部を西から東へと結ぶこの自動車専用道路はジョルジュ・ポンピドー・エクスプレイスウェイと呼ばれるもので、1967年につくられ、一日の通行量は43,000台にも及んだ。そこから自動車を排除し続けるという判断には反対も多く、反対者は結束してパリ市を訴えた。
 イダルゴ市長をはじめとしたこの事業の推進側は、それはパリを「より美しく、より優しく、より近代的に、より緑で、より人間的にする」と主張し、そこに自動車を走らせるという考えは「1960年代には意味があったかもしれないが、よくあるように、過去の解決手段は現在の問題となっている」と述べた。一方、反対者側はこの道路が通れなくなることで、他にしわ寄せがいくだけだと批判した。
 反対者の訴えを受けて行われた裁判の結果、2018年2月、裁判所はイダルゴ市長等が自動車を走行できなくするうえで、正しい手続きを経ていないと判断し、反対者の訴えを支持。自動車の走行禁止措置は無効であるとした。裁判所は環境影響評価調査が不備であったことを問題としたのである。
 しかし、イダルゴ市長は即時、控訴をし、セーヌ川沿いから自動車を追い出すことは、都市の環境と歴史的なものを保護するうえで不可欠であると訴えた。同年10月、裁判所は市長の主張を認め、自動車をセーヌ川沿いの道路から排除することを合法とした。
 2019年夏、ジョルジュ・ポンピドー・エクスプレスウェイから自動車が一切、姿を消したまま、再び恒例のビーチが開催された。ルーブル宮のそばのポン・ヌフ橋からオテル・デ・ヴィルまでの区間、人工の砂浜が整備され、パラソルが立ち、シャワーが設けられ、スポーツができるような空間もつくられている。オープン・カフェやスナック・バーなども開業し、ちょっとしたワインやビールも楽しむことができる。そして、夕方になれば、無料のコンサートなどのイベントが開催される。
 それまで歩行者が一切、入れなかったセーヌ川のウォーターフロントが、今では逆に自動車が一切入れない、素晴らしく公共性の高い人間的空間へと変貌した。

キーワード:

ランドスケープ, ウォーターフロント, 公共空間, 道路

セーヌ河岸のパリ・プラージュ の基本情報:

  • 国/地域:フランス共和国
  • 州/県:イル・ド・フランス地域圏
  • 市町村:パリ市
  • 事業主体:パリ市
  • 事業主体の分類:自治体 
  • デザイナー、プランナー:アンヌ・イダルゴ市長
  • 開業年:2016年

ロケーション:

都市の鍼治療としてのポイント:

 20世紀初頭の1907年にヘンリー・フォードがモデルT型を開発し、さらに大量生産を可能としたフォード・システムの導入によって、モデルT型は1927年までの20年間で1,500万台以上も生産される。これは、自動車の社会化をもたらし、都市は自動車をいかにスムーズに移動させるかということが最重要な政策課題となる。
 その後、自動車による弊害が指摘されるようになり、1960年代頃から、自動車を都心の一部から排除するような動きなども見え始める。日本でも1969年から大規模な歩行者天国が導入され、これは後に恒久的な歩行者空間「買物公園」(「都市の鍼治療」ファイル091)へと繋がる。この都心部の空間を、自動車から人間へ取り戻すような動きは世界中でみられるが、それを先導したのはヨーロッパの諸国であった。その中でもデンマークを始めとした北欧、ドイツ、スイス、オーストリアのドイツ語諸国、ベネルクス三国といった国々が熱心で、それをスペイン、イギリス、イタリアなどが後を追うという流れで、このトレンドは広まっていく。
 その中で、ほぼ最後尾を走っていたのがフランスであった。特に、ヨーロッパ諸国の都市において、都心部に高速道路が走っているのはパリぐらいであり、パリのへそでもあるコンコルド広場や凱旋門は交通ターミナルのような様相さえ呈していた。すなわち、パリは自動車が未だ我が物顔を振る舞えていた数少ないヨーロッパの都市であったのだ。
 しかし、そのような状況が近年、大きく変わりつつある。それはアンヌ・イダルゴがパリ市長になったからだ。彼女は市長になると、環境負荷を低減させ、大気汚染などを改善させるための施策を次々と展開していく。その一環が、セーヌ川沿いに走っていた自動車専用道路から自動車を排除するこの事業であった。それは、「歩行者」対「自動車」、「都市住民」対「郊外住民」といった対立をもたらしたが、彼女の政治力とさらには諦めの悪さも手伝って、一度は裁判でその施策が無効とされたりもしたが、彼女の構想する「人間中心」であり、「アメニティ」に溢れた都市へとパリは着々と変貌しつつある。この事業は、クリチバのレルネル元市長が、クリチバを大きく転換させていくうえでのきっかけとなった「花通り」(「都市の鍼治療」ファイル069)のように、パリを大きく変貌させる転機となるプロジェクトとなるような予感がする。
 パリ市の交通関係の助役であるクリストフ・ナイドフスキー氏は、この事業について次のように述べている。「ロンドンは混雑税を導入し、マドリッドは都心部から自動車交通を閉め出した。それに対して、自動車で都市を横断するのに都心部を通らなくてはならないパリは時代遅れであり、この事業をすることで、ようやくパリも21世紀の都市の仲間入りができるだろう」。
 裁判所がセーヌ川沿いの自動車専用道路から自動車を排除することを支持した直後、イダルゴ市長はパリ市内の都心部にある4つの区から自動車を閉め出すという、より広大な構想の政策を打ち上げた。脱自動車という観点からは、これまで最後尾を走っていたパリが猛烈な勢いで巻き返しを図っている。
 このパリの脱自動車、人間性を取り戻すような施策を理解するにつけ、東京や大阪といった日本の都市はいつになったら20世紀型都市から脱却できるのだろうとやるせない気持ちにもなる。

【参考資料】
ガーディアン紙のウェブ記事
https://www.theguardian.com/cities/2016/sep/09/paris-divided-highway-car-free-six-months-pedestrianisation

類似事例:

011 ライン・プロムナード
016 チョンゲチョン(清渓川)再生事業
050 マドリッド・リオ
053 ハイライン
069 花通り
091 平和通買物公園
116 ポルト・マラビーリャ
212 トラファルガー広場の歩行者空間化事業
245 大分いこいの道
247 グアナファトのミギュエル・イダルゴ通りの地下化
330 ドレーブリュッケン広場
335 マルセイユ旧港広場の天蓋(オンブリエール)
・ 環状道路1号線地下化事業、オタニエミ市(フィンランド)
・ トム・マッコール・ウォーターフロント・パーク、ポートランド市(アメリカ合衆国)
・ ビッグ・ディッグ、ボストン市(アメリカ合衆国)
・ ギュータ・トンネル、ヨーテボリ市(スウェーデン)