159 聖母教会の再建 (ドイツ連邦共和国)
ストーリー:
旧東ドイツのザクセン州の州都であるドレスデンは、バロック様式の美しい街並みとドレスデン国立絵画館をはじめとした多くの文化財を擁する都市として知られ、「エルベ河畔のフィレンツェ」とも呼ばれていた。しかし、ほぼその終結が決まっていた第二次世界大戦終盤の1945年2月13日から15日にかけて連合国軍によって無差別爆撃がなされ、ドレスデンの街のシンボルでもあった聖母教会をはじめ、その85%が破壊された。
戦争終結後、聖母教会は再建しなくてはならないとドレスデン市民やドイツ国民の多くは考えたが、旧東ドイツ時代は財源不足、さらには再建する技術が不足していたまま、そのまま放置され、その再建が動き始めたのはドイツが再統一されてからである。そして、実際、その優雅なバロック建築が再建されるまでに、そこからさらに15年の月日を要した。
聖母教会再建の具体的活動は、市民グループの手によって展開した。このグループはドイツ再統一直後から動き始め、1990年2月に聖母教会の再建を訴える「ドレスデンへの訴え」という申請書を公表する。この申請書は国内外の共感を広く呼び、1991年3月にはザクセン州福音ルーテル教会会議が聖母教会再建グループと協力して、その再建に向けて活動することを決定し、1992年2月にはドレスデン市も財政支援とその技術的協力をすることを決定した。
そして、その再建においては次の3つの指針が決められた。
1)聖母教会の再建は、オリジナルな図面に沿って、でき得る限り、元の建物の部材を用いて行う。
2)上記を遂行するうえでは、最新の技術を活用する。
3)21世紀において建物に要求される条件を満たすように配慮する。
この中でも最も重要な指針は1)であり、破壊される前の聖母教会を極力、再現させることは戦争の悲惨さを後の世代に伝えることを可能とする。破壊時の残骸である暗い石と、新しい明るい石との対比は、戦争の傷跡を想起させる。この外観で、聖母教会は悲惨な戦争の怨恨を克服させ、将来への望みと和平とを希求するのである。
とはいえ、実際、復元させるうえでは多くの困難が立ちふさがった。まず、オリジナルを復元させるために古い写真などを元に図面が作成された。また、瓦礫を最大限に再利用することにした。その際に、コンピューターの計算に多くを負ったが、いくらコンピューターが進歩しても、聖母教会を設計した建築家や技術者の創意工夫には届かず、それは人が補完することが必要であった。この再建工事は「世界最大のジグソーパズル」とも呼ばれた。
復元事業は、1993年から始まった。それまで放置されていた建物の残骸が集められ、1994年から実際の工事は開始された。2000年にはこの教会を爆破したイギリス空軍兵士らの家族からの寄付金によってつくられた教会の尖塔が、イギリスからドレスデンに手渡される。そして、2005年には工事は完成し、公開される。建物の高さは尖塔を含めると91メートル。再建のために使われた石の45%が爆撃された教会の残骸を使ったものである。
全体の建築管理を行ったのはThe Architekten- und Ingenieurgemeinschaft GmbH IPRO Dresdenで、土木技術的な面はGesellschaft zur F?rderung des Wiederaufbaus der Frauenkirche Dresden e.V.i.L.のDr. J?ger / Prof. Wenzelが担当した。さらに、Prof. J?rg Peterが応力解析を担当した。
再建するための費用は1億8260万ユーロ。この建設費の56%が寄付金であった。
キーワード:
中心市街地,歴史保全,アイデンティティ
聖母教会の再建 の基本情報:
- 国/地域:ドイツ連邦共和国
- 州/県:ザクセン州
- 市町村:ドレスデン市
- 事業主体:ドレスデン市
- 事業主体の分類:自治体
- デザイナー、プランナー:The Architekten- und Ingenieurgemeinschaft GmbH IPRO Dresden、Gesellschaft zur Förderung des Wiederau
- 開業年:2005年
ロケーション:
都市の鍼治療としてのポイント:
ドレスデンは日本でいえば京都に該当する古都である。「バロックの真珠」、「エルベ川のフィレンツェ」とよばれ、ドイツでも至高のバロック様式の美しい街並みと多くの文化財を保有する、伝統溢れる文化都市であり、ザクセン人はもとよりドイツ人の誇りでもあった。そこが大規模な空襲を受けるとはドイツ人さえも想定外であり、戦災に対しての意識が低かった。その結果、多くの人が亡くなることになった。そして、そのドレスデン爆撃の象徴となったのが、聖母教会であった。
旧東ドイツのドレスデンにおいて、聖母教会と同様にほぼ全壊したゼンパー・オーパーは1975年には再建し、ツヴィンガー宮殿も1988年には再建を始め、ドイツ再統一後の1992年に工事は完成した。聖母教会が後回しになったのは、社会主義政府の東ドイツ政府が宗教施設を重要視しなかったため。ただ、その結果、ドイツ再統一後で、マスコミなどの規制もなく、多くの人々が旧東ドイツという地域の再建を見守ったこともあり、聖母教会の再建工事は広く世界に発信され、多くの観光客が訪れ、それは第二次世界大戦だけでなく、旧東ドイツ時代の呪縛からも解き放たれた、新生ドレスデンのシンボルとしての役割をも担うことになる。
聖母教会は「バロックの真珠」と形容される素晴らしいバロックの建築群の中でも、その優雅で華やかなシルエットは一際目立っている。そして、その優雅さを湛えつつも、オリジナルの瓦礫である暗い石と、新たに使われた明るい砂岩の石との対比は、歴史の傷跡を観る者に強烈に訴えかける圧倒的な存在感を纏っている。
それを再建するには、多大なる時間と費用、そして熱意が必要であったが、それを見事に成し遂げられたのは、そのオリジナルな姿をできる限り忠実に再現させることが、ドレスデンという都市においてどれだけ重要であったのかを市民が理解していたからであろう。
筆者はこの工事が完成する以前の2002年にドレスデンを訪れ、エルベ川から旧市街地のバロック建築群の写真を撮影したことがある。聖母教会がここにあるかどうかで、ドレスデンという都市の印象は大きく変わる。そして、それはそこに建物があるかどうかではなく、まさにドレスデンという都市の象徴としての建物が、最もその象徴性を表現した形で現在に蘇ったこと。それは、単に美しい建物というだけでなく、ドレスデン市民の想い、願い、祈りをも包含した建築としてそこに存在しているのである。
都市にとって何が重要なのか。多くのことを我々に教えてくれる素晴らしいドレスデンの試みであると考えられる。
【参考資料】聖母教会公式ウェブサイト:
https://www.frauenkirche-dresden.de/en/reconstruction/
類似事例:
075 プリンツィパルマルクトの歴史的街並みの再生
158 ベルリン市立ユダヤ博物館
191 ブラジリアの大聖堂
202 デッサウのバウハウス・ビルディングの保全
206 クヴェードリンブルクの街並み保全
221 平和の鐘公園
252 マーガレーテンヘーエのアイデンティティ維持
272 ベットヒャー・シュトラッセ
311 ワルシャワのオールド・タウンの復元
312 ワルシャワ王宮の再建
・ レーマー広場、フランクフルト(ドイツ)
・ 王宮広場、ワルシャワ(ポーランド)
・ ドブロブニク旧市街、ドブロブニク(クロアチア)
・ ローテンブルク・オプ・デア・タウバー旧市街、ローテンブルク・オプ・デア・タウバー(ドイツ)
・ 原爆ドーム、広島(広島県)
・ ニュルンベルクのフラウエンキルフェの再建、ニュルンベルク(ドイツ)