311 ワルシャワのオールド・タウンの復元(ポーランド共和国)
ストーリー:
ワルシャワのオールド・タウンは、歴史的には旧ワルシャワとして知られている地区である。その面積は26ヘクタールであり、これは王宮(「都市の鍼治療」事例312 ワルシャワの王宮の再建)をも含んでいる。それはワルシャワでも最も古く、13世紀頃から発達していたところであり、市壁や砦などに囲まれ、教会や広場、さらには王宮もそこに含まれていた。その旧市街地が大きく変容することになるのは、スウェーデン戦争により徹底的に破壊された後の17世紀である。それを再建するうえで、住宅の近代化が図られ、バロック様式のファサードが加えられた。18世紀以降は都市の発展に伴い、旧市街地の壁を越えて、都市は拡張していく。その結果、旧市街地は徐々に衰退していったのだが、1906年に「歴史的建築物の保全協会」(The Society for the Protection of Historical Monuments)が設立されると、廃墟化しつつあった歴史的建築物の保全活動が展開した。第一次世界大戦と第二次世界大戦の間に同協会が随分と旧市街地のファサードを修繕したことが、後の復元にも非常に重要な役割を果たすことになる。1939年のドイツ軍によるポーランド侵攻では、旧市街地の多くの部分が空爆によって破壊された。その後、一部の旧市街地は再建され始めるが、1944年のワルシャワ蜂起の失敗で、残っていたものもすべてドイツ軍によって破壊され、焦土と化した。
その復元の取り組みは戦後、すぐに開始される。1945年2月に設立された首都復興局がそれを主導し、ワルシャワ工科大学の建築の教授であったヤン・ザフヴァトヴィチが復元事業を率いた。ザフヴァトヴィチは「残された材料を使った復元」というコンセプトを呈示した。このコンセプトは、オリジナルな建材を極力、活用して再建し、必要に応じて新しい建材を加えるというものである。窓枠、扉の欠片など、廃墟から見つかったものは、そのまま復元において使われた。ただし、その復元においては、破壊された直前のものでは必ずしもなく、ワルシャワが最も栄えていた17-8世紀の姿を対象とした。そのため、近代的な建築であったところは、よりオーセンティックなファサードへと変更されて復元された。復元作業をするうえでは、ベルナルド・ベロットの18世紀の絵画、そして、第二次世界大戦直前にドイツ軍の企みを事前に察知したワルシャワ工科大学の建築の学生達のスケッチが資料として使われた。ベルナルド・ベロットはイタリア人の画家で、ポーランド王スタニスワフ・アウグストに招聘を受け、1768年から没する1780年までポーランド宮廷画家を務める。彼はこの期間、大量にワルシャワの風景画を描くが、そのうち57点もの風景画が復元作業をするうえで参照された。
復元事業を行ううえでは、そこを博物館にせず、人々が現代的生活をしっかりと営めることが優先された。復元された建物の多くは住宅であり、可能な限り、現代的な便利な生活ができるように心がけられた(Ciborowski,1964)。また、この事業は何より市民が主人公でなくてはならず、市民の総意としてのオールド・タウンの復元でないといけなかった。そのため、1947年にはワルシャワ再建基金が設立され、再建のための寄金が集められる。20年間で集められた寄付金の総額は4億5000万ズウォティにまで及んだ(田中、2017)。寄付金だけでなく、復元のために使用される破壊された建物の瓦礫は、多くの市民の手によって収集され、それらを組み合わせる作業が行われた。復元事業で最初に取り組んだのは市場広場の北側のファサードであり、事業は1949年に終了する。これらのファサードの中には現在、ワルシャワ歴史博物館として使用されている建物も含まれている。
オールド・タウンの本プロジェクトは、地区レベルで町を復元させる事業であり、人類が記録したことがないような莫大なる事業であった。それは、ナチス・ドイツのポーランドという国、そして文化をすべて抹殺しようとしたアンチ・ポーランド政策へのポーランド人への返答であった(Ciborowski,1964)。
このオールド・タウンは1980年にユネスコの世界遺産に登録される。その理由としては「13世紀から20世紀の歴史にまたがる、ほぼ完全に近い復元事業の極めて優れた事例」とされている。
キーワード:
建築復元,アイデンティティ,世界遺産
ワルシャワのオールド・タウンの復元の基本情報:
- 国/地域:ポーランド共和国
- 州/県:マゾフシェ県
- 市町村:ワルシャワ市
- 事業主体:ポーランド共和国
- 事業主体の分類:国
- デザイナー、プランナー:スタニスワフ・ローレンツ (Stanislaw Lorentz)、ヤン・ザフヴァトヴィチ(Jan Zachwatowicz)等
- 開業年:1945
ロケーション:
都市の鍼治療としてのポイント:
ワルシャワのオールド・タウンを廃墟から復元させる、という途方もない事業はどのようにして実現されたのか。戦争から75年以上経った現在から振り返ると、それ以外の解はないとほぼ誰もが納得するだろうが、戦後の茫漠たる焼け跡に立った人々が、それを元の姿に戻そうと考えるのは相当の強い意志がなければ難しかったであろう。そして、その意志を多くの人が共有したのである。それは凄いことだ。
実際、より現実的なアイデアとして、ここを廃墟のままにして戦争の記憶装置とし、首都は移転するという考えも提案されたという(Guardian, 2016)。しかし、その提案は受け入れられなかった。ナチス・ドイツが破壊しようとしたものは単に街ではなかった。それは、ポーランドの国、国民としてのアイデンティティをこの地球上から抹消しようとする試みであった。ポーランドという国、国民という概念をなきものにしようとするその行動への強烈な拒否、それがこの一度は徹底的に破壊されたものを再び地球上につくりだそうという大事業を国民の総意として進めることへと繋げたのである。
オールド・タウンは世界遺産に申請するが一度目は落とされる。それは、一回目は新たに復元された建物はオーセンティシティの概念にそぐわないと捉えられたからである。しかし、二回目に申請された際には、「都市の再生への国民の意思」「最も重要な文化的環境を守ろうとする意思の象徴」に価値があることが認められ、歴史的地区保全の新たな規範の創造、戦争による破壊と国民の意思の記録、という2点を理由として選定された(鈴木、2014)。
ユネスコの世界遺産のホームページにはその理由が下記のように記されている(筆者訳)。
「第二次世界大戦後、市民による5年間の再建事業は、現在の細部まで神経が行き届いたオールドタウンの再生に結実している。それらには教会、王宮、市場広場も含まれる。それは、13世紀から20世紀におよぶ歴史をほぼ完璧に再生させた傑出した事例である」。
この事業は結果的に年間国家予算の約7%を使用することになった。まったく、そういう点からは都市の鍼治療として不適切な事例であるとの誹りを免れないかもしれないが、これはポーランドの歴史という長期的な観点からすれば、まさにここでこのツボを押さなくてはいけないような大英断であったと考えられる。もちろん、それを巨大な原爆ドームのように廃墟として保全し、戦争の記憶を残すという選択肢もあったかもしれない。しかし、ナチス・ドイツのポーランドという概念をも抹消しようとした蛮行に対する強烈な反発、ポーランドという意思が、その復元をもたらしたのである。しかし、それは思いだけで出来る訳ではない。その思いをしっかりと具体化させるように計画をしたヤン・ザフヴァトヴィチらの知性と執念が、今日のオールドタウンの姿をもたらしたと考えられる。
同じ世界遺産であるワルシャワ王宮の再建(「都市の鍼治療」事例312 ワルシャワの王宮の再建)も参照していただければ幸いである。
【参考資料】
鈴木亮平等(2012):『ワルシャワ歴史地区の復元とその継承に関する研究』、日本都市計画学会都市計画論文集 Vol.47, No.3
田中華緒(2017):『復元されたワルシャワ旧市街』学習院女子大学 紀要 第19号
Lozinska, Tamara (2017):”Warsaw”, Bonechi-Galaktyka
Ciborowski, Adolf (1964):”Warsaw - A City Destroyed and Rebuilt”
The Guardian (2016): “The story of cities – Warsaw” 2016.04.22
UNESCO World Heritage Convention のオフィシャル・ホームページ
https://whc.unesco.org/en/list/30/
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312 ワルシャワ王宮の再建
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