157 バー・マネコ (ブラジル連邦共和国)
ストーリー:
バー・マネコはクリチバ市の都心部のまさに心臓部ともいえるオソリオ広場のそばにあるバーである。朝の9時から営業しており、昼は定食屋、夕方からはバーとしていつでもお客で溢れている。お酒のつまみのミートボール、鱈のフリッター、モコトという牛のアキレス腱を煮込んだスープなどでも知られる。この店の常連客の職業は政治家、裁判官、ビジネスマン、ジャーナリスト、退職者など幅広い。そして、最も有名なこの店の常連客は元クリチバ市長のジャイメ・レルネル氏であろう。彼は、その著書『都市の鍼治療』において、バー・マネコの新しいオーナーが店を引き継いだ時、それ以前のお店の伝統をそのまま継承したことを「都市への真の思いやり」であると述べている。
このレルネル氏の指摘は、地元の新聞であるガゼットのマネコの記事でも確認することができる。その記事の見出しは「マネコでは、伝統はとても重要なことだ」というもので、記事はマネコが開業してから25年間、ほとんど内装は変わっていないことや、料理は開業以来、オーナーのマノエル氏の実姉がずっとつくっていることなどを紹介している。そして、11人に取材した常連のうち10人がそれがいいのだ、と回答したとも記している。そして、マネコを「クリチバ市内で最もオーセンティックなビストロである」と形容する。
そして、そこはジャイメ・レルネル氏をはじめとして、多くの政治家を含む市民の人達が、酒を介してコミュニケーション(「飲みニュケーション」)をする場所となっている。そこでは、市長も一介の飲兵衛となり、市井の人々の意見を謙虚に聴き、場合によっては政策のヒントを得たりする場となっている。なぜ、筆者の私がそのようなことを知っているのかというと、実際、レルネル氏に連れられて、このマネコに複数回、来たことがあるからだ。レルネル氏とテーブルで一緒に座って、ビールを飲んでいると、次から次へと客が彼に話しかけて、一緒にそのテーブルに座り、飲み始めて議論をしたりするのを何回も目撃した。そして、そのお客さんやお店の人から、レルネル氏は市長をされている時も、ここによく来ては人々の話に耳を傾けていたということを聞かされたからである。よく、日本でも会社や組織の重要な判断はアフター・ファイブで行われると指摘され、それはワーカホリックの日本人の悪癖であると揶揄されたりもするが、コミュニケーションを円滑化させるために「お酒」を使うのは、決して日本人の専売特許ではないことが、このマネコに来るとよく分かる。
多様な人が生活する都市において、お互いにざっくばらんに議論できる場を有していることは、人々のニーズをしっかりと掴んだ都市政策を展開させていくうえでは必要不可欠であろう。クリチバ市の都市政策がなぜ、レルネル氏が市長を務めていた時、あのように上手く遂行されたのか。その理由の一つが、このマネコであるのではないだろうか。
キーワード:
バー,レストラン,アイデンティティ
バー・マネコ の基本情報:
- 国/地域:ブラジル連邦共和国
- 州/県:パラナ州
- 市町村:クリチバ市
- 事業主体:Manoel Alves
- 事業主体の分類:個人
- デザイナー、プランナー:Manoel Alves
- 開業年:1984年
ロケーション:
都市の鍼治療としてのポイント:
ジャイメ・レルネル氏の著書『都市の鍼治療』の39節で、レルネル氏は「都市の鍼治療」としてのバーの働きを述べている。バーは「お互い助け合うこと、安らぎの感覚、明瞭なる心」をもたらすと書いており、「素晴らしいバーのカウンター」があることは都市において大切であると述べている。レルネル氏がお酒好きであることがよく分かるし、彼の「都市の鍼治療」の施術が極めて優れているのは、お酒好きであることと関係があるのではないか、と彼の酒飲み友達の端くれである私は考えている。
この節はそれこそ、世界中の都市におけるバーの効用を説いているのだが、彼が市長をして、またそこで生活をしていたクリチバの優れたバーとして紹介しているのが、このマネコである。ちょっと長いがここに引用する。
「クリチバの特別なバー・カウンターはマネコと呼ばれるバーのそれである。ここは、バーのオーナーが替わる時、大規模な譲渡の儀式が行われたことで、歴史に名を残したバーである。
マネコになる前は、そのバーはマノスと呼ばれていた。それは、私が常連であった床屋の入っていたアーケードの中にあった。そのアーケードは、ギャラリア・ド・コメルシオ(商業アーケード)と呼ばれていたが、もしボリビアの地下鉄の駅にそっくりな場所をクリチバで見つけたならば、それはおそらくこのアーケードである。
このアーケード内では、様々な奇妙奇天烈な商業活動が行われていた。そこには、人形そしておもちゃを修理する親爺や、傘を修理する店や、アーケードの真ん中にはゲーム・アーケードが存在した。しかし、人々がこのアーケードで待ち合わせをする場所はマノス・バーであった。そこからは、座りながらアーケードで展開する様々な出来事や人を観察することができる。
1984年の6月1日にマノスは新しいこの店のオーナーであるマノエル・アルヴェスさんに所有権が移り、その儀式が執り行われた。その儀式には多くの常連と友人達が出席し、彼らの前で、新しいオーナーであるアルヴェスさんは、料理人であるIza、ボーイであるNilson Passarinhoをそのまま雇い続けることを約束し、またその店の名物料理であった鱈のフリッターとモコト(牛の足)を提供し続けることを約束した。
この約束は、多くの政治家の約束とは違い、敬意をもって守られ続けている。またそのバーは1988年には100メートルほど離れたアラミダ・カブラルに移動したが、それでも以前のオーナーのあだ名であるマネコと呼ばれている。
マノエル・アルヴェスの行動は、真の都市への思いやりであり、彼の顧客への親愛の情に溢れている。」
そして、その店の慣習を頑なに守り続け、その慣習が伝統になった時、マネコはクリチバにとって重要なアイデンティティ的個性を纏うことになっているのだ。仕来りを維持し、継続させることによって、その都市の価値を高める「都市の鍼治療」の優れた事例であると考えられる。
【参考資料】
ジャイメ・レルネル著(服部圭郎、中村ひとし訳)『都市の鍼治療』、丸善出版
https://www.gazetadopovo.com.br/blogs/guia-da-baixa-gastronomia/no-manekos-tradicao-e-coisa-seria/
類似事例:
007 直島の和カフェ ぐぅ
1000 中村ひとし氏インタビュー
1003 ジャイメ・レルネル氏インタビュー
228 喫茶ニューMASA
282 コモンカフェ
293 ロックバー『マザー』
315 人々の家アブサロン
・ かとりや、溝口(川崎市、神奈川県)
・ ネヴァーネヴァーランド、下北沢(世田谷区、東京都)
・ ヒューベルス・ブラウエライ、ドルトムント(ドイツ)
・ ウエリゲ・ブラウエライ、デュッセルドルフ(ドイツ)
・ ハモニカ横丁、吉祥寺(武蔵野市、東京都)
・ マザース、下北沢(世田谷区、東京都)
・ レディ・ジェーン、下北沢(世田谷区、東京都)
・ 斉藤酒造、伏見区(京都市、京都府)