348 レディ・ジェーン(日本)

348 レディ・ジェーン

348 レディ・ジェーン
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348 レディ・ジェーン
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348 レディ・ジェーン

ストーリー:

 下北沢に50年の歴史を有したジャズ・バーがある。駅の南側、茶沢通り沿いの一画にあるレディ・ジェーンだ。レディ・ジェーンは生前の松田優作、原田芳雄、桃井かおり、坂田明、荒木経惟ら多くの文化人が通い、中島みゆきが同名の曲を歌った伝説的なジャズバーである。
 下北沢というとサブカルチャー、音楽・演劇の街というイメージが強い。実際、小さい箱であるがライブハウスの数は駅から800メートル圏で18,さらにライブハウスではないがライブが出来る設備が整ったようなバーも数多くある。その集積度の高さは世界的レベルにあるといえる。カルメン・マキ、金子マリといった日本のロック黎明期をリードしたミュージシャンを輩出し、1975年に開業したロフトからは上田正樹、サザンオールスターズ、大橋純子、泉谷しげる、子どもバンドなどが出演をした。
 そして、ロフトが開業した同じ年に開店したのが、レディ・ジェーンであった。レディ・ジェーンはロックではなくジャズを軸に据え、しっかりとしたお酒と良質な音楽を提供し、下北沢のサブカルチャーに風格をつくりだし、多くの文化人、そして地域住民に慕われた。それは下北沢という街の個性を形成する重要な元素として存在をしてきたのである。 
 このオーナーである大木雄高は1945年生まれの演劇青年であった。74年の秋に「年明けたら30になってしまうな」と将来のことを考え始めたことがレディ・ジェーンの開店のきっかけとなる。当時、劇団の座長であった。劇団を運営していくためのお金を力仕事で稼いでいたのだが、だんだんと限界を感じるようになる。大木は高校時代から広島のジャズ・バーに通っているような早熟なティーネイジャーであった。ジャズを聴いていると集中力が高まった。何をやろうかと考え、好きなことを思い浮かべていた。ジャズ、酒、映画・・・。それなら酒場がいいのではと思い、ジャズ・バーを開業することにした。場所は下北沢しか念頭になかった。演劇人が多く住んでいて、当時は演劇場こそなかったけど練習はしていた。また下北沢は路地が命である。路地を歩けば歩くほど、その街と親しくなってしまう。路面店も圧倒的に多い。加えて大学時代に下北沢のジャズ喫茶のマサコに入って衝撃を受けたということもある。マサコは1951年の開業という、まさに下北沢の音楽シーンをつくる苗床としての役割を担ったようなお店である。下北沢にはすこぶるいい印象を持っていた。
 マサコに次いで、ロック・バーであるマザーが開店するのが1972年(「都市の鍼治療」事例293)、1975年にはレディ・ジェーンが開店、続いてロフトも開店し、下北沢は音楽を専門に聞かせる店が増えてきた。そして、音楽人を掬い取るような街になってきた。1970年代後半、東京にはブルース・ロックのバンドがなかった。ウエスト・ロード・ブルース・バンドが大阪、京都をベースで活動していたが、東京を攻めようぜみたいな感じになって来たのが下北沢。下北沢で彼らはライブ演奏を繰り広げた。彼らがつけた下北沢の渾名が「ダサ格好いい街」。関西弁では「イナタイ」。その後、関西のバンドが下北沢に多く来て、関西ミュージシャンに席巻されるぐらいの勢いで大量にやって来た。そのように関西の音楽シーンを東京に紹介する窓口の役割を果たしたのが下北沢。そして、レディ・ジェーンに代表されるようなお店であった。
 その後、大木は西麻布に姉妹店「ローマニッシェス・カフェ」を1985年に開業し、それは世界のオルタナティブ・シーンの脚光を浴びたが、1998年には閉店した。レディ・ジェーンは、しかし、時代の風雪に耐え忍び、下北沢という街の貴重で価値ある物語の章を紡いできた。 
 そのレディ・ジェーンであるが、入居している建物の賃貸契約が切れることで2025年4月に閉店する。創業50年の節目の年での閉店である。それは下北沢という街が大きな歴史的転換点にいることを示唆するような出来事でもある。
 女優の小泉今日子はその閉店の報に接し、東京新聞に次のように寄稿している(「東京新聞」2025.02.07)ので、ここに引用させてもらいたい。

「下北沢に「LADY JANE」が存在しない。
 なんて淋(さび)しいことでしょう。
 足繁く通うという訳ではなかったけれど、あの道を歩いていて店の前を通る時、車で通り過ぎる時でさえ、それが真っ昼間で営業中でなくても一種の緊張が身体に走りました。
 数々のレジェンドたちが夜のため息を吐いた場所。怒りや悲しみをウイスキーで薄めた場所。文化芸術作品の多くを誕生させた場所でもあったと思う。
 こうしてまた時代がひとつ終わる。何を受け取り、何を残すか。
 私たちの課題は増えるばかりだ。」

 レディ・ジェーンは大きく下北沢という街の個性の形成に寄与し、またその街が平凡化、一般化する傾向への防波堤の役割を担っていたかと考えられる。大木は観光地化している下北沢に対して「怒りを通り越して嗤うしかない」と嘆く。その店が無くなり、大木という下北沢のオーセンティシティの番人が後方に退くことの下北沢の打撃は決して小さくない。

キーワード:

ジャズ・バー,コミュニティ・ハブ,レディ・ジェーン,閉店

レディ・ジェーンの基本情報:

  • 国/地域:日本
  • 州/県:東京都
  • 市町村:世田谷区
  • 事業主体:大木雄高
  • 事業主体の分類:個人
  • デザイナー、プランナー:大木雄高
  • 開業年:1975

ロケーション:

都市の鍼治療としてのポイント:

 東京にある下北沢という街は特別のオーラのようなものを纏っている。このオーラをつくりだしているのは強烈な個性を有する店主が営んでいる個店群である。そして、そのようなお店の象徴ともいえるのが1975年に開業したジャズ・バー「レディ・ジェーン」であろう。
 圧倒的なる個性を有する大木雄高と下北沢という地霊との強烈なる化学反応が具体化されたものが、レディ・ジェーンという空間である。もちろん、レディ・ジェーンは容器にしか過ぎないが、その容器はその空間に特別な価値をもたらす人々を呼び込み、そこでの大木を含めた人々を交歓させることで、この容器から素晴らしい音楽的な価値、演劇的な価値を創造したのである。
 このレディジェーンが、入居している建物の賃貸契約が切れることで2025年4月に閉店する。創業50年の節目の年での閉店であった。この店のオーナーである大木雄高は「再開発の街で、店はこれまでも閉店の危機にさらされてきた。今回は賃貸契約の更新が認められず、無念だが閉店を決めた。交渉したが退去は覆らず、この場所でなければこの店はできないので決断した」と東京新聞の記事(2024年9月17日)の取材で述べている。
 下北沢は駅を中心とした再開発で大きく街並みを変え、その変化はじわじわと周縁部にも及んでいる。大木は、下北沢駅周辺の再開発計画が発表された2004年以降、「シモキタヴォイス」といったシンポジウムを開催するなどして、その是非を議論する機会をつくってきた。その主導者である大木の店がディスプレイスメントされることは、大木が怖れていたことが現実となってしまったことでもあり、下北沢のジェントリフィケーションを示唆する象徴的な事件である。
 下北沢という街の魅力を50年にわたって創造してきたレディ・ジェーン。2025年4月に閉店はするが、その「都市の鍼治療」的功績を記録するために、ここに事例として取り上げる。

【参考文献】
大木雄高(2011): 「下北沢祝祭行」幻戯書房

【取材協力】
大木雄高

類似事例:

293 ロックバー『マザー』
350 アヴィーバ・スタジオ(Aviva Studios)
・ ネヴァーネヴァーランド、下北沢(世田谷区、東京都)
・ ハモニカ横丁、吉祥寺(武蔵野市、東京都)
・ バー・マネコ、クリチバ(パラナ州、ブラジル)
・ カフェ・ぐぅ、直島(香川県)
・ ピンク・キャデラック、蕨市(埼玉県)