275 セネート(元老院)広場(フィンランド共和国)

275 セネート(元老院)広場

275 セネート(元老院)広場
275 セネート(元老院)広場
275 セネート(元老院)広場

275 セネート(元老院)広場
275 セネート(元老院)広場
275 セネート(元老院)広場

ストーリー:

 フィンランドの首都であり、最大の都市であるヘルシンキの歴史は浅い。ヘルシンキがスウェーデン王のグスタフ1世によって設立されたのは1550年である。その意図は、ヘルシンキの南にあるハンザ同盟都市タリンによる貿易の独占に横やりを入れるためであった。しかし、ヘルシンキはそれほど発展することはなかった。18世紀になるとロシアがバルト海での存在感を高め、ヘルシンキにはスウェーデンによって砦がつくられるが、1808年にはロシアに占領される。そして、1812年にアレクサンドル一世が、フィンランドの首都をトゥルクからヘルシンキへと移すことを決める。当時フィンランドの唯一の大学であったトゥルク王立学院もこの時ヘルシンキへと移されている(これが後のヘルシンキ大学となる)。これをきっかけに、ヘルシンキは都市として発展をしていく。アレクサンドル一世は、ヨハン・アルブレヒト・エーレンシュトロームを都市再開発委員会の長に任命し、前例のない壮大なる新首都をつくるように命じる。そして、その計画において中核的な空間として位置づけられたのが、ヘルシンキ大聖堂とその前のセネート広場である。
 18世紀まで、そこの土地は墓地であった。1812年にヨハン・アルブレヒト・エーレンシュトロームが作成した都市計画において、ここが新しい首都のヘルシンキの中心広場であると指定される。最初に完成したのは広場の東側に建つ政府宮殿である。ここはフィンランド元老院の建物として1918年まで使われており、現在では大統領と内閣の執務室として使われている。ヘルシンキ大学の建物は1832年に完成した。
 この広場の北に立つ、広場だけでなくヘルシンキをも象徴する建物であるヘルシンキ大聖堂は1818年に工事を始めてから完成するまでに34年かかった。ヘルシンキ大聖堂は聖ニコラス教会ともよばれ、設計者のエンゲルが亡くなった後の1852年に完成する。そのドームの高さは62メートル。この大聖堂は国やヘルシンキ大学のイベントにも使われる。
 西側につくられたのがヘルシンキ大学の建物であり、1832年に完成した。この政府宮殿と向かい合っている建物は双子のように似通っている、それが広場に強烈な磁力のようなものを生じさせている。
 これらセネート広場を囲む新古典主義の荘厳なる4つの建物は、すべてカール・ルードヴィヒ・エンゲルによって設計された。この広場がつくられたことによって、新しい都市ヘルシンキは強烈な都市のアイデンティティを獲得することに成功したのである。
広場の中央に屹立する銅像は、アレクサンドル二世帝王のものである。これは1894年に設置されたものである。この銅像の作者はウォルター・ルーネベルクである。1899年以降のフィンランドのロシア化政策の中で、この銅像は反抗の象徴となった。1917年にフィンランドがロシアから独立した後、これを除ける案もあったが、結局、残されて現在に至っている。
 今日ではセネート広場はヘルシンキの観光地となっており、コンサートや芸術関係のイベントなどがここで開催されてもいる。

キーワード:

アイデンティティ,広場,都市観光

セネート(元老院)広場の基本情報:

  • 国/地域:フィンランド共和国
  • 州/県:ウウシマー
  • 市町村:ヘルシンキ
  • 事業主体:アレキサンダー帝政ロシア皇帝
  • 事業主体の分類:
  • デザイナー、プランナー:カール・ルードヴィッヘ・エンゲル(Carl Ludvig Engel)
  • 開業年:1852

ロケーション:

都市の鍼治療としてのポイント:

 都市において広場とはどのような役割を担うであろうか。それは、都市という概念を象徴化した空間なのではないだろうか。そのような思いがセネート広場に立つとよぎる。セネート広場には都市の重要な機能を担う建物が集まっている。宗教の象徴的建物、政の象徴的建物、学問の象徴的建物である。そして、宗教の象徴をより一段と高いところに立地させることで、神の優位性を示している。さらには、この建物へアプローチするために広大なる階段を上ることで、高揚感を盛り立てる空間的な演出もなされている。セネート広場の周辺の建物が同じ建築家によって構想・設計されたために、広場と建物とが一体となって絶妙な空間をつくりあげている。
 また、エンゲルの建物だけでなく、南東には1757年につくられたヘルシンキの市街地では最古の建物であるセダーホルム・ハウスが立地している。加えて、南にちょっと行くとヘルシンキ市民の台所であるカウパットリ市場と港があり、ヘルシンキ市民の憩いの空間であるエスプラナーデ公園がある。
 ところでスペイン政府は、新世界にて新しい都市をつくる時に「ローズ・オブ・ザ・インディース(Laws of the Indies)」というルールに則った。1680年に編纂された第四巻には、都市やコミュニティについてのルールが多く述べられているが、その中には「中央広場」の項目があり、そこには次のように記されている。

 「都市を計画するうえでは、中央広場から開始すべきである。そして、それは都市の中心に位置づけられるべきである。中央広場は正方形もしくは長方形であるべきだ。その規模は、人口に比例すべきである。ただし、それは将来の人口増加も踏まえたうえで考えるべきことである。広場の幅は67メートル(200フィート)〜117メートル(350フィート)の長さであるべきで、奥行きは100メートル(300フィート)〜267メートル(800フィート)の長さであるべきだ。理想的な大きさは幅が133メートルで奥行きが200メートルである。(中略)主要な教会はそのための特別な敷地が用意されるべきである。広場の位置が決定した後、最初にすべきことは、この教会の用地の選定である。次いでやるべきことは王立議会と税関の建物の建設である。(後略)」

 セネート広場の大理石で敷かれた絨毯のような面積は、幅108メートル、奥行き50メートル。一辺2.5メートルの正方形が縦に16個、横に35個並べられている。ローズ・オブ・ザ・インディーズで指摘された理想のサイズからすると、奥行きが足りない。しかし、広場から階段の部分まで含めると、大聖堂までの奥行きは100メートルとなる。エンゲルがローズ・オブ・ザ・インディースの影響を受けたかどうかは不明だが、広場のスケールとしては相当、理想的な形状をしているのではないかと思われる。
 また、この広場を特別なものとしているのは、セネート広場と大聖堂を結ぶ大階段である。この段差によって、広場からは大聖堂を仰ぐような形になるが、これは実際より大聖堂を大きく見せる効果がある。この階段は横幅64メートルもあり、圧倒的な迫力がある。ニューヨーク・パブリック・ライブラリーの有名な入り口前の階段の幅が25メートル、ローマの有名なスペイン坂の階段も広場のある最も幅があるところでも36メートルぐらいしかないことを考えると、このセネート広場の階段のスケールの大きさが理解できると思う。気候がよい時は常に人がここに座り、この贅沢な空間を愉しんでいるし、広場でイベントが行われる時は客席として使用されている。
 ヘルシンキという都市の物語の主人公のような空間であり、この空間がなければ、ヘルシンキという都市の格は随分と下がっただろうと思われる。この広場はまさにヘルシンキという都市が発展していくうえでの拠り所となり、エンゲルはこの空間をつくることでヘルシンキに都市の魂を注入することに成功したと思われるのである。

類似事例:

115 ミラノ・ガレリア
233 グラン・プラス
259 ゴスラーの市場広場(Marktplatz des Goslar)
・ カンポ広場、シエナ(イタリア)
・ サンマルコ広場、ヴェネツィア(イタリア)
・ ヴェネツィア広場、ローマ(イタリア)
・ スタニラス広場、ナンシー(フランス)
・ バーリントン・アーケード、ロンドン(イギリス)
・ ザ・パサージュ、ザンクト・ペテルスブルク(ロシア)
・ モスクワ広場、モスクワ(ロシア)
・ 市民広場、プラハ(チェコ)
・ 旧市街市場広場、ワルシャワ(ポーランド)