249 伊根浦の舟屋群の伝建地区指定(日本)
ストーリー:
京都府の北部にある丹後半島の東端に伊根町は位置する。日本海に面しており、そのリアス式海岸線のわずかな平地に漁業集落が展開している。特に伊根浦(伊根湾)沿いに立ち並ぶ民家は、船の収納庫の上階に住居が置かれ、伊根の舟屋として独特の集落景観を形成している。
このような独特な建物がつくられた背景として、伊根浦の湾口が南を向いており、さらに湾口部にある島が天然の防波堤のように位置しているため、年間の緩慢さが50センチ程度という極めて静穏度の高い港であるためだ。これによって、舟屋という建物群がつくられることになる。
山が海に迫ってくるような地形の僅かな隙間に建築された舟屋群は、全国的にも類をみない独特の歴史的風致である。多くの舟屋は江戸時代末期から昭和初期に建てられているが、江戸中期につくられたと推測されるものも少なくない。ただし、現在の街並みの骨格がつくられたのは1931年から1940年にかけて湾に沿って整備された一本の道路(府道伊根港線)を契機としている。この幅4メートルの道路を新設する際、主屋、蔵を山側に移すことにした。これによって道路を挟んで山側に生活の場として用いられる主屋、蔵、海側には船の格納庫、出漁準備の作業場、漁具置き場、住居を兼ねた舟屋という二重構造がつくられる。この際、一部の舟屋は二階建てとなり、さらに当時は伊根町は鰤景気で裕福であったこともあり、茅葺きから瓦葺きへと替わっていくことになる。舟屋の一階部分は海に向かって傾斜しており、満潮のときには家の中ほどまで海水が入ってきて、船を直接、舟屋まで引き込むことができている。居住者の多くは、道を挟んだこれらの双方を所有した生活をしており、この道路は「ニワ」と地元住人の人達には呼ばれている。
この伊根湾の集落は、2005年7月に漁村集落としては最初の国の重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)として選定される。選定区域内には海も含まれ、その面積は約310ヘクタールと非常に大きく、伝建地区では妻籠宿に次ぐ。選定地区の建造物等数でいうと、主屋134件、舟屋113件、土蔵128件、その他83件と合計で458件となり、これは選定地区の中では今井町に次ぐ。
切妻造の「妻」の面が海に向けられている舟屋、そして山側の主屋は平入りにつくられているというコントラストが連続している風景は海側や対岸からみると圧巻であり、見事である。その景観は年間30万人近くの観光客を集客する資源となっていることに加え、映画やドラマ(『男はつらいよ』、『釣りバカ日誌』、NHKの連続テレビ小説『ええにょぼ』など)のロケにも使われている。
伊根町の舟屋群からなる景観は、そのユニークな風土がもたらしたものであり、世界中でここにしかない複製不可能なものだ。重要伝統的建造物群保存地区選定基準には3つほどあるが、伊根町の舟屋群は「伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているもの」により選定される。その独特な風土があって初めてつくりだしたこの景観を次世代に伝えるため、重要伝統的建造物群保存地区の選定は極めて重要な役割を担っていると考えられる。
景観を守る意味として、伊根町教育委員会が出版した「伊根浦伝統的建造物群保存地区:まちづくりの手引き」には次のように記されている。
「この景観が伊根浦の宝であり財産であり、心の拠り所である『自分たちのまち』であるからです」。
2005年から開始された修理修景事業の累計は2019年までで140件を越えている。伝建地区指定によって、伊根町の特別な景観を維持する制度がしっかりと機能していることが理解できる。また、町役場も2008年にはNPO法人「日本で最も美しい村」連合に加盟し、2011年には景観行政団体に移行し、2014年には景観計画策定、さらに2016年には景観条例、屋外広告物条例を制定した。伝建地区の指定によって、景観を保全するという覚悟をしっかりと全うするために町の施策は展開している。
キーワード:
歴史保全, 伝統建築, 観光, 漁村集落
伊根浦の舟屋群の伝建地区指定の基本情報:
- 国/地域:日本
- 州/県:京都府
- 市町村:伊根町
- 事業主体:伊根町
- 事業主体の分類:自治体
- デザイナー、プランナー:不明
- 開業年:2005年(指定年)
ロケーション:
都市の鍼治療としてのポイント:
伊根町の写真を本で初めてみた時は衝撃的であった。家が海に面している。ベネチアやアムステルダム、ジャカルタにも運河に面している家はあるが、海に面しているのとは迫力が違う。フィリピンのスルー諸島には家船という海上に高床式家屋を建てている人達もいる。それは、それで景観的にも美しいものがあるが、伊根町の景観には海、舟宿、道(にわ)、主屋、山といった漁村の豊かなエコシステムが見事に表現されている。それは日本人の原風景といってもいいような郷愁と懐かしさを喚起させる。その景観を構成する個々の建物は特別ではないが、集積することで驚くほど美しい景観をつくりだしている。
伊根町の写真を見た本は1998年に出版された『空間体験』(井上書院)であった。そこには、伊根町の現況として次のように記している。
「漁船の大型化によって舟屋に収容できなくなり、舟屋の必要性が失われつつある。また、交通量の増加に対して道路拡幅などが行われれば、伊根の特色ある景観は一気に失われる」。
しかし、舟屋の実務的な必要性は失われたが、景観保全、町のアイデンティティとして新たな価値を有し始め、それを保全する制度が確立された。また、交通量の増加という課題は解決した訳ではないが、役場跡を駐車場とビジター・センターとすることなどで、道路の拡幅をせずに景観を維持することを優先する対策を進めている。20年間ちょっとで、伝統的景観への意識が飛躍的に進んだことが伊根町の現況からも理解することができる。
一方で、この本で指摘されていなかった問題で深刻化しているのは人口減少である。1998年の伊根町の人口は3,200人ぐらいで、それから12年後の2020年は1,930人まで激減している。この人口減少率は京都府内の自治体でも相当高く、それに呼応するように空き家も増えている。空き家はしっかりと家屋を管理できなくなるため、伊根の伝統的景観を保全するためには大きな課題となっている。
このように、伊根町の伝統的景観を保持するための課題は依然として少なくはないが、それでも重要伝統的建造物群保存地区に指定されてから、それを活用したまちづくりが進展しつつある。その一つとして、伊根町観光交流施設「舟屋日和」の整備がある。これは、舟屋の景観が途切れていた漁協の資材置き場に、周囲と連続性を持つ舟屋の景観を創出する、公設民営の観光交流施設で、レストランやお土産物屋などがテナントとして入っている。これらの建物はもちろん新築であるが、デザイン的に同じコンテキストを踏まえているので、うまく景観に溶け込んでいる。さらに、2018年頃には道路の舗装もこの町にしっくりと合うものに変えている。また、転入人口を促すための「お試し住宅事業」なども実施している。
激しい人口減少、店舗の移転等による買物機会の減少など伊根町を取り巻く社会経済環境は向かい風ではあるが、そのような中、この町がこの土地で育んできた独特の地域景観を維持することで、伊根町はいわゆる『地方消滅』の状況は回避できるのではないだろうか。それは、守るべきもの、次世代に継承するものがあり、その価値を確認したコミュニティは、その存在意義の高さを共有し合うからである。この町で「伊根満開」など伊根の名前を付けたお酒をつくっている向井酒造の社長、そして杜氏(「伊根満開」をつくった女性杜氏)にもお話を聞かせてもらったが、「大好きな伊根という町に恩返しをしたいと思って、伊根という名前をつけた」と述べていた。統計数字だけをみると、「消滅」に向かって衰退が止まらない自治体のように分析されるかもしれないが、そこで生活を営んでいる人々を知ると、この町に未来を展望することができる。そして、その展望は、これまで存在してきた風景を維持するという決断を「伝建地区」指定を受け入れることで共有したことで見えてきた。その決断は、まさに「ツボ」であったと思われる。
【取材協力】
伊根町役場、向井酒造
【参考資料】
伊根町のホームページ
(http://www.town.ine.kyoto.jp/chosei/keikaku/1447128853274.html)
伊根町の伝建地区に関する解説
(https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/pdf/r1392257_059.pdf)
伊根町教育委員会(2018年)「伊根浦伝統的建造物群保存地区:まちづくりの手引き」
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