336 バーミンガムの運河再生(イングランド)

336 バーミンガムの運河再生

336 バーミンガムの運河再生
336 バーミンガムの運河再生
336 バーミンガムの運河再生

336 バーミンガムの運河再生
336 バーミンガムの運河再生
336 バーミンガムの運河再生

ストーリー:

 イギリス第二の都市バーミンガムは、1970年代の2度にわたるオイルショックに加え、新興国の工業の競争力が強化されたことで国際競争力を失い、1970年代から大きく衰退する。そして、1990年代から都市再生事業を本格的に取り組むことになった。当時のバーミンガムが抱えていた課題は、まず、「脱工業化」に対応した都市型サービス産業を育成して雇用と所得をつくりだし、20%台にまで及ぶ失業率を改善させることであった。そして、二つ目は空洞化してしまった都心の再生であった。バーミンガムの都心は70年代に工場等が閉鎖されたのに加え、ショッピングセンターなど商業施設が郊外展開したことによって著しく衰退した。都心部での犯罪も多発し、人々は都心部から足を遠ざけ、衰退は加速化した。
 そのような背景を踏まえて、バーミンガムは都市再生事業を展開することになるのだが、その中でも重要な位置づけが為されたのが運河の再生事業であった。バーミンガムの運河は1768年から建設され、それはバーミンガムとブラック・カウンティ、ウォルバーハンプトンなどを結ぶ運河ネットワークとして機能し、石炭や鉄などを運んでいた。バーミンガム市内だけでも、運河の総延長は56キロメートルにも及び、それはベニスの運河のそれよりも長かった。それは、まさにバーミンガムの都市動脈であり、工業都市バーミンガムの繁栄の象徴であった。しかし、その後の鉄道の発達、さらに自動車の発達は、運河の地位を後退させた。1980年には運河は輸送手段としては使用されなくなり、運河だけでなく、その沿岸の地区にも衰退は及んだ。工業都市としての栄華を誇った時代においては都心部と工場地帯をネットワークし、まさに繁栄の象徴でもあったのだが、これら工場が閉鎖されることで、それはバーミンガムの衰退の象徴となり、恥部として人々に嫌悪される対象となってしまった。
 それを再生させるために具体的にはこの運河の沿岸にあるシティセンターに脱工業時代を牽引させる都市機能を集積させるのと同時に、運河そのものを観光・レジャー産業として活かすことを考えた。そのためにかつて倉庫として使われていた建物を改装して、小売り店舗やレストラン、パブなどがテナントとして入れるようにした。また、運河沿いの空地にオフィス・ビルを建設して新たな業務地区を整備し、コンサート・ホール、国際コンベンションセンター、アリーナ、水族館なども新しく立地させた。資材の運搬船は観光船にリフォームされ、荷物の代わりに人を乗せて運河を行き来するようになった。
 バーミンガムはイギリスの他都市と比べても観光資源が乏しく、その都市イメージも工業都市、そしてそれに付随する環境汚染といったネガティブなものであった。しかし、工業都市の象徴であった運河を産業遺産として認識し、そのネガティブなシンボルをポジティブなシンボルへと転換させ、それを工業都市の象徴ではなく、サービス産業都市の象徴へとシフトさせるようにリフォームしたこと、それと同時に沿岸に商業施設、文化機能の集積を図ったことは、見事な都市再生事業であった。
 衰退した工業の代わりに、新たにサービス産業の集積を図りつつ、産業遺産である運河を見事に現代に活用したことで、まさに運河だけでなく、その周辺地域をも再生させることに成功したのである。

キーワード:

ウォーターフロント

バーミンガムの運河再生の基本情報:

  • 国/地域:イングランド
  • 州/県:ウエスト・ミッドランド州
  • 市町村:バーミンガム市
  • 事業主体:バーミンガム市
  • 事業主体の分類:自治体 
  • デザイナー、プランナー:Peter White
  • 開業年:1980年代後半

ロケーション:

都市の鍼治療としてのポイント:

 イギリスでは1948年に運河が国有化される。そして、イギリスの小さな運河は閉鎖されるべきであるという提案がなされた。しかし、結果的に、多くの小さな運河は閉鎖されずに今日に至っている。それは、運河は産業以外にも船旅のレクリエーションに使えるという考え方が一部の人達の間で広まり、運河を閉鎖することに反対運動を展開したからであった。この反対運動が実を結び、1968年にはバーバラ・キャッスルの交通法が制定される。これによって、国家予算を使い、運河のレクリエーション活用事業が進められることになった。
 そして、衰退した運河の修復事業が進められるようになる。そして、そのような事業の中で最も多くの成果が得られたのがバーミンガムの運河再生事業であった。このバーミンガムの運河再生を強く主張したのが、バーミンガム市役所に所属した建築家、ピーター・ホワイト(Peter White)であった。彼は、バーミンガムの運河を再評価し、その価値を認識することで地域経済に大きく寄与することができると考え、市長を始めとした政策決定者に強く訴えた。産業遺産といった言葉がまだない時代にピーター・ホワイトはその根源的な価値を理解していたのである。
 バーミンガム市役所はピーター・ホワイトの提案を受け入れ、運河をレクリエーションとして活用するだけに留めず、運河沿いの地区を大きく変貌させる都市再生時行を展開させることにした。ピーター・ホワイトは運河に沿って歩道を整備し、古い建物をリフォームして、パブやレストランがそこで開業できるようにした。彼は、運河の歴史的クオリティをしっかりと再生・維持することに注力した。
 イギリスの多くの都市は、バーミンガムの成功に触発されて、運河沿いの再生事業にとりかかることになった。運河を汚いドブではなく、都市再生のツボであると見事に理解したピーター・ホワイトはバーミンガムだけでなく、多くのイギリスの工業都市を蘇生させるトリガーとなったのである。
 イギリスの運河史研究者のマイク・クラークは次のように述べている。
「ピーター・ホワイトはバーミンガムの都市再生の触媒となっただけでなく、他の都市においても産業遺産を活用する意義を理解させたのである。」(Guardian の新聞記事から)
 また、同新聞記事では次のようにも書いている。
「今日のバーミンガムの運河は賑やかで、都市の真の価値であると人々に受け入れられているが、ピーターの情熱的な説得、そして、それを上手く活用することの将来ビジョンの呈示がなければ、まったく違った道を歩んだであろう」
 運河の再生事業の成功は、沿岸の開発を促進させることになり、1987年にはバーミンガム市議会はコンサート・ホールと国際コンベンションセンターの開発コンペを行うことを決断する。1991年にはブランスウィック通り沿いの土地に、巨大なレジャー・エンタテイメント・センターがつくられることが決定する。そして、1993年からは7ヘクタールほどの運河沿いの工場跡地の再開発「ブラインドリープレース」の開発が展開する。最初につくられたのはウォータース・エッジという小売店舗、レストラン、バーが入ったビルであった。ブラインドリー・プレイスには他にもオフィス・ビルなどが立地し、新たなバーンミンガムの都市拠点として位置づけられている。
 このような開発の相乗効果もあり、バーミンガムの運河には毎年100万人以上が訪れるようになっている。

【参考文献】
鈴木茂(2004):『バーミンガムの都市再生政策』、文化経済学第4巻第2号
Canal and River Trust のホームページ
https://canalrivertrust.org.uk/things-to-do/canal-history/history-features-and-articles/the-new-canal-age
The Guardian (2018.6.11): Peter White Obituary

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