323 バイロイトのリヒャルト・ワグナーを活用したまちづくり(ドイツ連邦共和国)

323 バイロイトのリヒャルト・ワグナーを活用したまちづくり

323 バイロイトのリヒャルト・ワグナーを活用したまちづくり
323 バイロイトのリヒャルト・ワグナーを活用したまちづくり
323 バイロイトのリヒャルト・ワグナーを活用したまちづくり

323 バイロイトのリヒャルト・ワグナーを活用したまちづくり
323 バイロイトのリヒャルト・ワグナーを活用したまちづくり
323 バイロイトのリヒャルト・ワグナーを活用したまちづくり

ストーリー:

 ドイツのバイエルン州北部にあるバイロイトは人口72,000人ほどの地方都市である。その都市の起源は12世紀にまで遡る。この都市の名前を広く世に知らしめているのは19世紀のドイツが誇る大作曲家リヒャルト・ワグナーのオペラを演じるバイロイト・フェスティバルである。
 リヒャルト・ワグナーがバイロイトを訪れたのは1870年4月のことであった。自身のオペラ作品を発表する会場を探していたワグナーはマルグレーブ・オペラハウス(バイロイト辺境伯歌劇場)が適当なのではないかと考えた。しかし、このオペラハウスは「ニーベルングの指輪」などを演奏するための奏者の数を収用するほど大きくなかった。そこで、彼は自分の作品を発表するために新しい劇場をバイロイトに建てるというアイデアを漠然と抱き、市の有職者に話してみたら、市がそれを実現させることを支援すると申し出、郊外の土地まで提供された。
 1872年に劇場の工事が始まり、1876年に完成した。それを設計したのは、既にいくつかの劇場の設計経験のあったライプツィヒの建築家オットー・ブリュックヴァルドだ。ワグナーはその建築の監修にあたり多くの注文を加えた。バイロイト祝祭劇場では、つくられて以来、第二次世界大戦後のアメリカの管理下の時代を除くと、ワグナーのオペラ作品のみが基本、上演されている。しかも、すべてのオペラ作品ではなく、7作品10演目に限定されている。そして、この劇場を舞台としてバイロイト・フェスティバル(音楽祭)が毎年7月下旬から8月いっぱいにかけて開催されることになった。劇場のキャパシティは1,925席。2024年度は7月25日から8月27日までで、上演回数は28日。まず満席となるので延べ6万人弱がこの音楽祭で観劇するという計算になる。2023年は観劇者の3分の1が海外からで、そのほとんどをアメリカ人と日本人が占めていた。チケットの入手は極めて困難であると言われており、長いと10年越しという場合もあったが、最近、インターネットでの販売を始めたことや、関係者へのチケット配付をほぼなくしたために、以前よりは入手しやすくなっている(出所:ドイツテレビ)。
 バイロイト市はこの劇場をつくることでワグナーとの繋がりをより深めていく。リヒャルト・ワグナーは劇場を建設し始めた1872年から、バイロイトに家を建て、そこで亡くなる年の1883年まで居住する。その家はバーバリア王のルードヴィッヒ二世がワグナーに贈ったもので、ヴァーンフリード・ハウスと呼ばれており、第二次世界大戦以後はリヒャルト・ワグナー博物館の一部として一般公開されている。
 リヒャルト・ワグナー博物館は、祝祭劇場とともに、バイロイトとワグナーとの深い関係を周知させる施設である。そこでは主に3つの常設展示が行われている。リヒャルト・ワグナーの作品と人、バイロイト・フェスティバル、そして彼の偉業の歴史的資料である。常設展示に加えて企画展示も行われている。また、この博物館はワグナー関係の資料収集という点では世界一である。この博物館は市の事業として2010年から2015年にかけて改修工事が行われた。その投資額は2,000万ユーロ(約27億円)であった。
 これら以外にも、バイロイト市はワグナーを活用した都市ブランディング的な事業を行っている。それが「ウォーク・オブ・ワグナー」というワグナーゆかりのスポットを結ぶ周遊ルートの整備である。これは2013年のワグナー生誕200周年事業として行われ、ワグナー博物館と祝祭劇場とを結ぶ回廊状にあたる20箇所に、指揮棒を振っているワグナーのプラスティックの人形が載った石碑が設置され、ワグナーに関する物語がその石碑に記載されている。石碑に記載されている物語は、毎年、テーマを変えるようにしており、この説明板の内容もその都度、書き換えられている。このウォーク・オブ・ワグナーに導かれるように都市巡りをすると、自然とバイロイトの主要な観光スポットを巡ることになる。
 そして、このワグナーの人形は、これら以外にも500体ほど市内に設置されている。これらの人形もワグナー生誕200周年を記念してつくられた。この人形は結構の大きさで、街中ではなかなか目立つ。加えて、旧市街地からのリヒャルト・ワグナー博物館へのアクセス通りは「リヒャルト・ワグナー・シュトラッセ」と命名されている。街中にはリヒャルト・ワグナーの銅像も多く設置されており、まさにワグナーの都市である。その都市と関係のある天才をまちづくりに活かした興味深い事例である。

キーワード:

アイデンティティ,イベント,天才

バイロイトのリヒャルト・ワグナーを活用したまちづくりの基本情報:

  • 国/地域:ドイツ連邦共和国
  • 州/県:バイエルン州
  • 市町村:バイロイト市
  • 事業主体:バイロイト市
  • 事業主体の分類:自治体 
  • デザイナー、プランナー:リヒャルト・ワグナー等
  • 開業年:1876年(バイロイト・フェスティバルの初演)

ロケーション:

都市の鍼治療としてのポイント:

 ジャイメ・レルネルは都市には天才が必要だと『都市の鍼治療』で述べている。
「都市を合理的、理論的に分析することは可能であるが、都市には天才が必要であることは揺るぎもない事実である。都市は多くのものを必要とする。しかし、天才が必要であるということを理解することは、都市を解釈するうえでとても重要なことなのである。」
 都市が天才を育てるのか、天才は勝手に育つのか。これは、まず間違いなく前者であると思われる。天才は都市をはじめとした生活した環境によって、その才能が大きく育まれる。ベルンの旧市街地にある時計塔がなくてもアインシュタインは相対性理論を確立できたかもしれないが、あの時計塔がインスピレーションを与えた、というストーリーはベルンという都市に特別な意味合いをもたらせる。ガウディの造形へのインスピレーションはバルセロナ周辺の自然が与えたことは、論を俟たないだろう。これは、周辺の山々を訪れれば明々白々である。ハンブルクが存在しなかったらビートルズがあそこまで大成したかは甚だ疑問である。天才はある意味で、都市の産物でもあるのだ。
 そのように捉えると、レルネル氏が指摘するように、都市は天才が必要であると同時に、多くの天才も都市が必要であると思われる。都市と天才はある意味、共生しているのだ。そして、都市のアイデンティティが求められている時代においては、この天才を上手く、その都市づくりに活用することで、都市のアイデンティティの形が浮き彫りになってくる。そして、そのような都市と天才の関係性を考えるうえでバイロイトは多いに参考になる。
 バイロイトはリヒャルト・ワグナーという天才と関係が深い。この天才はエクセントリックである。過剰なまでの自信家であると同時に、自分の父親がユダヤ人である可能性を自覚しつつも、ナチス以前にユダヤ人を攻撃する論陣を張るなどのコンプレックスも内在させていた。派手な女性関係も、むしろ低身長や決してハンサムではない容貌など自信の無さからではないか、と勝手に思わなくもない。そして、これはワグナーが亡くなった後ではあるが、ヒトラーとワグナー家は極めて親密な関係になり、それはナチスのバイロイトとの関わりも深いものとさせた。これは、第二次世界大戦後においてはワグナー家の立場を危なくしたが、そのような問題を含めて、バイロイトは「リヒャルト・ワグナーの都市」ということを再確認し、バイロイト音楽祭を復活させる。
 さて、しかし前述した天才達が都市や風土によってその天才性を育まれたように、バイロイトがリヒャルト・ワグナーにそのような役割を担ったかというと、そういう訳ではない。ワグナーはバイロイトを訪れた時には既に音楽家としては相当認められていた。バイロイトはワグナーという不遇であった天才にチャンスを与えただけである。しかし、そのチャンスを与えたことで、ワグナーが生まれて200年以上過ぎても、未だに多くの人がバイロイトに集まる大イベントが続けられている。バイロイトによる天才への投資のリターンは大きく、現在に至るまで富をもたらし、また人々にシビック・プライドをもたらしている。
 ワグナーのオペラを上演する劇場がバイロイトにつくられたことは偶然が重なって起きたことである。しかし、それはバイロイトにとっては結果的に幸運であったし、当時は相当な批判もあっただろうが、つくられてから150年経った現在、それが間違っていたと指摘する人はニーチェのような思索家を除けばほとんどいないであろう(当時、無名であったニーチェは、このバイロイト音楽祭の批判論文をきっかけに有名になる)。そもそもワグナーは劇場をミュンヘンにつくりたいと考えていた。しかし、パトロンであったバーバリア王のルードヴィッヒ二世との関係が悪化したことによって、それが適わなくなった。そこで次に狙いを定めたのはニュルンベルクである。しかし、バイロイト出身の指揮者であるハンス・リヒターのアドバイスによってバイロイトを訪れることになる。
 リヒターは、バイロイトにするべきである理由として3つの利点を挙げた。一つ目は、マルグレーブ・オペラハウスという素晴らしい劇場が既にあること。二つ目は、ワグナーは借金のかたとして自分の作品を演奏する権利を売却してしまっていたのだが、バイロイトはその権利が及ぶ地域外に位置していたこと。三つ目は、バイロイトには都市文化が発展しておらず、ワグナーのライバルが不在であるということであった。したがって、バイロイトにて音楽祭をすれば、それは都市にとって、とてつもない大イベントになるだろう、ということでもあった。
 リヒターのアドバイスに従って、ワグナーはバイロイトを訪れる。マルグレーブ・オペラハウスは彼の意図に沿わなかったが、市長はワグナーのために新たに劇場の土地を提供することを申し出た。ただ肝心の建設費はなかなか集まらなかった。ビスマルク宰相にはたびたび懇願するが断られ続けた。最終的に援助をしてくれたのは、ワグナーをミュンヘンから追放したルードヴィッヒ二世であった。
 初演は、これを観劇したチャイコフスキーの手記によれば「芸術的には成功した」ことになっているが、事業的には大赤字の失敗であり、ワグナーは鬱状態にもなる。そして、翌年の開催予定を延期させ、赤字を補塡するためのコンサートをロンドンに行き開催する。このような赤字イベントであるにも関わらず、ルードヴィッヒ二世をはじめとするワグナー・ファンがそれを支えることになった。また、多くのパフォーマーが無給であることを承知したうえで出演した。
 ワグナーが亡くなった後は、妻のコジマがフェスティバルの運営を担った。コジマが退いた後は、息子がそれを引き継ぎ、第二次世界大戦中はヒットラーがその運営に口を出し、また戦後のアメリカの管理下では劇場の利用は制限されていたが、1951年に音楽祭が復活し、1973年まではワグナー家が、それ以降はリヒャルト・ワグナー基金がそのマネジメントをしている。ただし、ワグナー家が基金の代表を務めており、その影響力は依然として大きい。
 2015年に改修されたワグナー博物館は、ワグナーの自宅を展示し、また、ワグナーの反ユダヤ主義的考え方や、ワグナー家とヒトラーとの親しい関係を示す資料なども展示することにした。リヒャルト・ワグナー、そしてワグナー家にまつわるスキャンダルをもしっかりと展示することで、広く人々に受け入れられるように工夫していることが伺える。
 バイロイトは7万人という決して大きくない都市規模、主要な高速鉄道網に接続されていない地理的ハンディなどを踏まえると、その都市ブランディングをするネタを探すことはなかなか難しい。世界遺産登録されているバイロイト辺境伯歌劇場や、それを建設したフリードリヒ大王の姉であるバイロイト辺境伯妃ヴィルヘルミーネといったコンテンツを有してはいるが、それだけではインパクトが弱い。今思うと、150年以上前に、リヒャルト・ワグナーという偏狭な天才を受け入れたことは英断であった。その判断をしてから150年以上経って、それが正しかったことが明瞭になった取り組みである。鍼治療としては効き目が出るのが遅すぎるかもしれないが、天才の使い方という事例としては示唆に富む。

【参考資料】
ドイツ国営テレビのホームページ
https://www.dw.com/en/wagner-for-all-in-bayreuth/a-62711061
グスタフ・マーラーのホームページ
https://mahlerfoundation.org/mahler/locations/germany/bayreuth/bayreuther-festspiele/
リヒャルト・ワグナー博物館の公式ホームページ
https://www.wagnermuseum.de/en/

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