211 モエレ沼公園(日本)
ストーリー:
モエレ沼公園は、札幌市の北東、豊平川がつくった三日月湖に囲まれた土地につくられた公園である。面積はおよそ100ヘクタール。そのマスタープランを策定したのは、世界的彫刻家であるイサム・ノグチであり、そのコンセプトは「公園を一つの彫刻」とするというもの。ピラミッドのような形状の「プレイマウンテン」、標高62メートルの人工山「モエレ山」、事務所やレストラン、ギャラリーなどを擁する施設「ガラスのピラミッド」、三角錐の造形物「テトラマウンド」、遊具エリアの「サクラの森」、緩やかなすり鉢状の浅いプールがある「モエレビーチ」、コンサートや演劇など多目的に使用できる「野外ステージ」などが公園内に立地する。札幌市の雄大なる自然に触れ、その自然を体感することができる素晴らしいアート公園である。実際、モエレ沼公園には2005年の開業以来、多くの人に受け入れられ、2019年には過去最高の87万8000人が訪れた。
モエレ沼公園がつくられるきっかけとなったのは1970年代に札幌市が「環状グリーンベルト構想」を策定し、モエレ沼公園が今ある場所を拠点公園として位置づけたことに始まる。一方で、当時、札幌市は不燃ごみ処理場の候補地を探していたので、ここを地形造成のためにごみを埋め立て、最終的に公園として整備し、さらには豊平川の洪水時には調整池としても機能できるようにした。すなわち、公園事業、清掃事業、治水事業という三つの目的を位置づけた新しい公園を整備しようと考えたのである。
ごみの搬入と埋め立ては1979年に開始し、満杯になる一年前の1988年に世界的彫刻家であるイサム・ノグチがこの場所を訪れる。イサム・ノグチをモエレ沼公園に繋げたのは、その後、同公園の設計を手がけることになる建築家、川村純一氏と妻の京子さん、そして札幌市の若き起業家であった服部裕之氏であった。
イサム・ノグチは、まだごみの搬入が進むこの土地を一目で気に入り、札幌市が提案した他の候補事業案を差し置いて、ここに公園を整備する仕事に取り組むことになる。彼は現地を視察した際に「ここにはフォルムが必要です。これは僕がやるべき仕事です」と強い意欲を示したというだ。そして、29歳の時に、「大地そのものを彫刻として地球を彫り込むという閃きを得てから55年間抱き続けた思いであり、子どものための遊び場である<プレイマウンテン>」(『建設ドキュメント1988 – イサム・ノグチとモエレ沼公園』川村純一等)をここに実現させることを計画する。
しかし、イサム・ノグチにマスタープランの設計依頼が確定した直後ともいえる1988年末、イサムは急逝してしまう。この大ピンチに際し、札幌市の当時の桂助役はほぼ「独断」(『建設ドキュメント1988 – イサム・ノグチとモエレ沼公園』川村純一等)で、札幌市としてはイサム・ノグチ氏のマスタープランのまま事業を進めることを発表、ニューヨークのノグチ財団もイサム・ノグチの夢であったこのプロジェクトの具体化に協力することとなる。
ノグチの構想を具体化する事業を中核として支えたのは、建築家の川村純一、そしてランドスケープ・アーキテクトの斉藤浩二氏であった。そして、札幌市の担当部署の強力なるバックアップがあった。これらのチームが尽力をすることで、イサム・ノグチが亡くなってから17年後に、彼の描いた「公園全体が彫刻」といったコンセプトのもとに「人々が本当に楽しめる公園」が実現されることになる。
キーワード:
ごみ焼却場, 治水事業, 彫刻, ランドマーク, アイデンティティ
モエレ沼公園の基本情報:
- 国/地域:日本
- 州/県:北海道
- 市町村:札幌市
- 事業主体:札幌市
- 事業主体の分類:自治体
- デザイナー、プランナー:イサム・ノグチ(マスタープラン)、川村純一(設計統括)、斉藤浩二(ランドスケープ・デザイン)、イサム・ノグチ財団(監修)
- 開業年:2005
ロケーション:
都市の鍼治療としてのポイント:
ちょっとした人の縁から、世界的な彫刻家であるイサム・ノグチが札幌市のモエレ沼公園に関心を持つ。そして、そのマスタープランを策定することに協力することにした。1988年にマスタープランは完成する。しかし、その年の暮れにイサム・ノグチが急逝してしまう。通常であれば、そこでプロジェクトは中断されるであろう。残されたのは3,000分の1の設計図だけであったのだから。
しかし、札幌市、そして彼を札幌市に紹介した建築家達は、この遺志を具体化させるために奮闘する。モエレ沼公園の素晴らしさは、イサム・ノグチの極めて創造的で傑出したランドスケープ・デザインだけでなく、この世界的な芸術家の構想をしっかりと継承し、それを具体化へと繋げた建築家、ランドスケープ・アーキテクトの強い思い、さらにはその事業を完遂させた札幌市のぶれない政策的指針に依るところが大きい。これらが統合されることで、この世界的にも傑出した公共空間を札幌市にて実現させることを可能とした。
それを具体化させるうえでは様々なハードルを乗り越える必要があったが、個人的に印象に残っているエピソードは札幌市の担当部署職員の柔軟なる立ち回りである。公共事業の設計者や工事業者は、一般的には競争入札をし、最も安い金額を提示した会社が選ばれる中、札幌市は、川村氏の設計事務所であるアーキテクト・ファイブ、斉藤氏の事務所であるキタバ・ランドスケープ・プラニングが公園完成時まで設計の担当を行うという「方針決済」の書類を当時の担当係長が作成している。これは、この担当係長が異動した後もしっかりと、この体制を維持して公園を完成させられるようにするための工夫であった。
日本の公共事業がなぜ、魅力あるものが少ないのか。それは日本の公共事業の入札制度がもたらす「悪」平等や設計理念の継続性の困難さが大きな理由として掲げられる。逆にいえば、その問題を克服したために、モエレ沼公園が日本の中では突出して素晴らしい公共空間を具体化させることに成功したのであろう。
『建設ドキュメント1988 – イサム・ノグチとモエレ沼公園』という本で、著者はこの奇跡的ともいえる公共事業が実現したキーマンとして、イサム・ノグチがここを訪れた時に筆頭助役を務めていて、そのあと三期12年市長を務めた桂信雄氏を挙げている。彼は、この著書の取材に対して「イサムさんが亡くなった時も消極的になることはなかった。札幌には世界に誇れるちゃんとしたものがない。それを頑張ってつくらなければならないと、強く思っていた」と述べている。
どんなに優れたデザイナーが関わっても、公共事業ではそのクライアントである市役所等がしっかりとぶれないでそのプロジェクトを推進させる覚悟を決めなくてはならない。これは言うは易く行うは難しで、異動も多く、また首長もちょくちょく替わる役所では遂行することは相当、難しい。実際、札幌市役所内でも、このモエレ沼公園をそのような体制で進めていくことには反対や抵抗が少なくなかったようである。しかし、そのようなバリアを超克できたからこそ、札幌市役所はこの希有な公共空間をつくることに成功した。
そして、その理念は現在にも引き継がれている。モエレ沼公園は、それがイサム・ノグチの芸術作品であるという認識のもと、看板類は一切禁止している。多くの人に楽しんでもらいつつ、芸術作品をしっかりと次代に継承していくという、両立が難しい二つのバランスを取って維持管理をしている。
そして、札幌市だけでなく、日本でもこんなにも素晴らしい公共空間がつくられるのだ、ということを知らしめたという点でも大きな肯定的な影響を日本全国に及ぼしたプロジェクトである。そして、それは札幌市という日本においては極めて歴史の浅い都市に、アイデンティティを醸成させるようなランドマークを具体化させることにもなった。
【参考資料】
DVD『モエレ沼公園』札幌市環境局みどりの推進部
『建設ドキュメント1988 – イサム・ノグチとモエレ沼公園』川村純一等
類似事例:
004 エンジェル・オブ・ザ・ノース
043 ラベット・パーク
098 あさひかわ北彩都ガーデン
105 エスプラナーデ公園
・ フィリップス・A・ハートプラザ、デトロイト市(ミシガン州、アメリカ合衆国)
・ ベイフロント・パーク、マイアミ市(フロリダ州、アメリカ合衆国)
・ イサム・ノグチ・ミュージアム、ニューヨーク市(ニューヨーク州、アメリカ合衆国)
・ ハイミュージアム公園、アトランタ市(ジョージア州、アメリカ合衆国)
・ ブラック・スライド・マントラ、札幌市(北海道)
・ カリフォルニア・シナリオ、コスタメサ市(カリフォルニア州、アメリカ合衆国)
・ タイムアンドスペース、高松市(香川県)
・ 養老天命反転地、養老町(岐阜県)