316 エルプフィルハーモニー(ドイツ連邦共和国)
ストーリー:
エルプフィルハーモニーは欧州最大の再開発プロジェクトであるハンブルクのハーフェンシティの最西端に建つコンサート・ホールである。 スイスのバーゼルをベースとするヘルツォーク・アンド・ド・ムーロンの設計によってつくられたエルプフィルハーモニーは、ハンブルクの歴史的文脈を踏まえつつ、新しい時代の到来を知らせる未来的な意匠を見事に調和させたランドマーク的建築である。この建物の周囲に立つ、世界遺産の運河沿いの煉瓦づくりの建築を彷彿させる建物の下部は、1966年に地元出身の建築家ヴェルナー・カールモーゲンが設計した倉庫を再活用したものである。そして、公共空間を介しての上部空間は波打つエルベ川を表現しているのだろうか、個別に加工された曲面のガラス板を1,100枚ほど用いて幻想的な外観を演出している。
このプロジェクトが起動したのは2002年である。ハーフェンシティのマスタープランを市議会が承認したのが2000年であり、このエルプフィルハーモニーはその立地といい、その意匠といい、その公共的なコンセプトいい、その機能といい、まさにこのハーフェンシティの象徴となることが期待された。
エルプフィルハーモニーは大と小のコンサートホール、地上37メートルのレベルに設置された港と市街地を見渡せる展望台的な公共広場(ここは誰でも無料で立ち入ることができる)、音楽教育のために利用できる小ホール、レストラン、カフェ、ギフト・ショップ、ウェステン・ホテル・チェーンのホテル(244室:9階〜22階)、さらに住宅(45戸)、駐車場(433台)から構成される。建物は26階で、その高さは108メートルであり、床面積は12万平方メートル。現時点では住居用の建物としてはハンブルクで最高層である(ただ、工事途上のエルベタワーが完成するとこの高さを上回る)。入り口から8階に相当する「プラザ」と呼ばれる展望広場までは、垂直にカーブしたエスカレーターによって不可思議な空間を上がっていく。プラザは、素晴らしい公共的な空間であり、これが設置されることで、この建物がコンサートを聴きに来る人以外にも広く開くことを可能としている。プラザはホワイエのような役割も有しており、ここから大ホール、小ホールにつながる階段が設置されており、またガラス扉からはテラス空間のような建物の外部空間に出ることができ、建物の外周を一周することができる。ここからの展望は一見の価値がある。
コンサートホールは大ホールが2,100人を収容することができ、そのコンセプトは葡萄畑で、ホールは水平というよりは垂直に広がり、その高さは50メートルに達する。音響を優れたものにするために、壁には1万枚の石膏ファイバープレートが貼られている。音響設計を手がけたのは永田音響設計の豊田泰久である。パイプ・オルガンも設置されている。小ホールは室内楽、ジャズ・コンサート向けで550人を収容することができる。さらに、音楽教育に使えるカイ・スタジオという170人を収容できる小ホールもある。
このプロジェクトは建築家アレキサンダー・ジェラルドが企画した。彼はヘルツォーク・アンド・ド・ムーロンに設計を依頼し、それを市役所にプレゼンする。2006年にハンブルク市役所は、それを自らが主体となって進めていくことを決めた。当初は2010年に2.4億ユーロの費用で完成する筈であったが、2008年にはその費用が4.5億ユーロまで増額し、2012年には5億ユーロまで膨れ上がった。結果、工事費は8.7億ユーロと当初の3倍以上にまで増えてしまった。そして、2017年1月11日に杮落としがされた。
このプロジェクトは、大幅な予算オーバー、そしてスケジュールの遅延によって多くの批判の的となった。しかし、完成をした後は、その唯一無比の意匠の建築は人々に好意を持って迎えられ、ハーフェンシティの象徴となるだけでなく、21世紀のハンブルクの新しいランドマークとして圧倒的な存在感を有することになった。
その集客力も圧倒的で、開業してから2年半で1,000万人のプラザへの訪問客を数えた。これは年間400万人の訪問客ということだ。それらの多くは無料での訪問客であるが、それでも圧倒的な集客力である。参考までにエンパイア・ステート・ビルディングの年間訪問客は410万人、エッフェル塔のそれは690万人である。コンサート・ホールへの訪問客は年間で90万人であるが、これも予測を超えた数字となっている。この数字はヨーロッパでは最大であり、ウィーンのコンサートハウスが60万人、パリのフィルハーモニーが54万人であるのを比較しても、その数字の高さが伺える。ハンブルクはメンデルスゾーンやヘンデルといったクラシックの泰斗を生んだ都市であり、またビートルズがメジャーになる前に活動していた音楽都市である。そのような音楽都市のアイデンティティを建築というメディアで発信すると同時に、ハーフェンシティという新たなハンブルクの都市空間のランドマークとしての役割も見事に果たしている。
アメリカの雑誌『タイム・マガジン』は、エルプフィルハーモニーが開業した翌年の2018年にここを「世界の100の偉大な場所」に選定している。
キーワード:
文化施設,公共空間,アイデンティティ,ランドマーク
エルプフィルハーモニーの基本情報:
- 国/地域:ドイツ連邦共和国
- 州/県:ハンブルク州
- 市町村:ハンブルク市
- 事業主体:ハンブルク市
- 事業主体の分類:自治体
- デザイナー、プランナー:ヘルツォーク・アンド・ド・ムーロン
- 開業年:2017
ロケーション:
都市の鍼治療としてのポイント:
エルベ川を下流から上流へとあがっていくとハンブルク都心部に入る前に緩やかに左へ蛇行する。そして、再び右に川の流れが変わるとハンブルク市街が広がり、その目の前に幽霊船のような幻想的な建物が出現する。エルプフィルハーモニーの建物の強烈な存在感は、船の乗員にハンブルクに来たことを強く実感させる。つくられたと同時にその都市のイコンとなるような建築はなかなか多くない。そのような建築は、都市のアイデンティティ構築、都市観光における目的地づくり、人々のシビック・プライドの醸成などいろいろなプラスの側面が考えられるが、エルプフィルハーモニーはそれらに加えて、新たに見事な公共空間を創出したこと、市民が音楽に親しむ機会を大幅に増やしたこと、などからその効果は極めて大きなものがあると考えられる。
ハンブルク市役所の職員の方との取材でも、それがつくられている最中は、工事費がどんどんと高くなっていき、市民の不満も高まったが、結果的に開業した後は経済的には大成功を収めており、現在、市民でこの施設に対しての不満はほとんど聞かなくなったようである。経済的な点では、ハンブルクの観光産業を大きく後押しした。ハンブルクは2023年で年間の宿泊観光客数は159万人ほどであった。これは、コロナ禍以前の2019年と比べても3.3%の増加であり、21世紀になってからコロナ禍の影響を受けた3年間を除くと、一貫して増加傾向にある。実際、エルプフィルハーモニーのコンサートをメニューに入れた旅行パッケージで多くの観光客が来ているようだ。観光の目的地としてのプロモーションといった点でも、エルプフィルハーモニーがハンブルクの観光産業にもたらした影響は大きいと考えられ、都市経済政策といった観点からは大成功である。
実際、その見事な外観だけでなく、ホール自体も一見・一聴する価値がある。筆者もこの記事執筆のために大ホールで、ここに所属する北ドイツ放送エルプフィルハーモニー管弦楽団の演奏を聴いたが、最も遠い席でも指揮者から30メートルは離れないという空間設計、そして室内の空間意匠の質の高さが、その鑑賞体験を特別なものとしている。
エルプフィルハーモニーはまさにハーフェンシティといった再開発地区だけでなく、ハンブルク市全体にとっても素晴らしい「都市の鍼治療」事例であると考えられるが、最大の効果を発揮しているのはプラザであろう。それは空中庭園のような広場であり、コンサートに興味がない人達も、ここに来ることができる。そして、そこからのハンブルク市街地とエルベ川、港湾地区の展望は見事である。このようなパブリックに開いた空間を、高いクオリティでつくったことが、このエルプフィルハーモニーをすべての人の資産へと高めている。そして、その経験はここを訪れた人に音楽への興味を喚起させるような効果もあるのではと推測するのである。音楽都市ハンブルクの素晴らしい「都市の鍼治療」事例である。
【参考文献】
ハンブルク市のオフィシャル・ホームページ
https://www.hamburg-travel.com/see-explore/sightseeing/elbphilharmonie/
https://marketing.hamburg.de/aktuelle-pressemeldungen-detailansicht-221/elbphilharmonie-hamburg-welcomes-10-millionth-visitor.html
https://www.hamburg-news.hamburg/en/location/must-see-hamburg-proving-real-tourist-magnet
【取材協力】
Julia Dettmer氏 (ハンブルク市役所)
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・ オペラ・バスティーユ、パリ(フランス)
・ ガルニエ宮、パリ(フランス)
・ アマゾナス劇場、マナウス(ブラジル)
・ ウィーン国立歌劇場、ウィーン(オーストリア)
・ オペラハウス、シドニー(オーストラリア)
・ メトロポリタン歌劇場、ニューヨーク(ニューヨーク州、アメリカ合衆国)
・ ディズニー・コンサートホール、ロスアンジェルス(カリフォルニア州、アメリカ合衆国)