206 クヴェードリンブルクの街並み保全(ドイツ連邦共和国)
ストーリー:
クヴェードリンブルクは旧東ドイツのザクセン・アンハルト州の西部、ハルツ山地の北東にある人口24,000人の地方都市である。ドイツが再統一してあまり時間が経っていない1995年には人口は32,000ほどあり、そこから約25年間で25%ほど減少した。ザール川の支流ボーデ川が町の東を流れており、9世紀頃から人々はここに集住するようになる。90ヘクタールに及ぶ中心市街地はこれまで戦災をほとんど受けることがなかった。それ故に14世紀に始まり500年に及ぶ様々な時代の木組み家屋がこの街に存在する。600年以上も長らえている木造家屋が、同市には1,300戸もあるのだ。しかし、東西ドイツが再統一した1990年には、そのうちの250の家屋は空き家状態であり、今にも朽ち果てそうであった。
これらの木造家屋を保存することの是非は、ドイツ再統一後には市の重要な検討課題となったのだが、1994年にクヴェードリンブルクの歴史地区が世界遺産に指定されることで、これらの議論は終止符を打つことになった。ただ、保全する方向性は決まったが、それをどのように具体化させていくか、その対策は不明であった。
この対策をしっかりと打ち出したのはIBAザクセンアンハルトである。IBAとは国際建築展(Internationale Bau-Ausstellung)というドイツの都市・地域開発手法であり、1901年から開催されている。IBAザクセンアンハルトは、ザクセンアンハルト州の19の都市を対象としたもので2003年から2010年の期間に行われた。それまでのIBAと異なり、IBAザクセンアンハルトは新しい建物をつくるというよりも、既存の建物を保全し再生するという点が重視された。
クヴェードリンブルクでは、このIBAを地主、商店主、一般市民、市役所の協働するプラットフォームとして位置づけ、都市イメージを向上させ、テーマパーク化を回避しつつも観光業を定着させ、そして伝統的な街並みや家屋を保全・維持するための方法論を伝える場としての役割を担わせることとした。
そのために、家屋や街並みの調査を徹底させ、建物に関してはインベントリーをつくり、さらに旧東ドイツでクヴェードリンブルクと同様に歴史的街並みが世界遺産に指定されたストラールズントとヴィスマールの建物管理計画を検証し、地域保全と経済開発との調和がとれたクヴェードリンブルクの管理手法を作成した。また、このような取り組みを広く発信していくためにも学際的な取り組みの実現を図っている。そして、何より歴史的建築物を保全するだけでなく、そこで生活し、働けるようにすることを意図した。建築博物館ではなく、生活の空間として保全させる方針を打ち出したのである。また、市民を積極的に参加させるために毎年9月に、歴史的建築物の居住者が外部の人達に家を開放するというイベントを2007年から開始している。これによって、市民がクヴェードリンブルクの歴史建築物の管理者であり、その価値を広く発信するキューレターのような役割を担うのである。また、これらの市民をネットワーク化するための会議やウェブサイトなども展開している。
クヴェードリンブルクは、IBAでの実績が評価され、欧州連合のヨーロッパ地域開発基金(European Regional Development Fund)を2007年から2013年まで受け取ることになる。クヴェードリンブルクは2000年から2013年までの間に7000万ユーロ(約84億円)ほどを受領する。これは、クヴェードリンブルクの上記の施策を支持し、支援したいという意思をヨーロッパが有していることの証左であろう。
IBAが終了して数年経つが、IBAが構築した市民のネットワーク、そして向上した市民の意識は、人口縮小下の世界遺産都市の価値・アイデンティティを保全し、活力を維持させていくうえでの貴重な資源となるであろう。IBAが終了した現在、クヴェードリンブルクには年間100万人以上の観光客が訪れている。
キーワード:
世界遺産, アイデンティティ, 歴史建築物
クヴェードリンブルクの街並み保全の基本情報:
- 国/地域:ドイツ連邦共和国
- 州/県:ザクセン・アンハルト州
- 市町村:クヴェードリンブルク市
- 事業主体:クヴェードリンブルク市、IBAザクセンアンハルト
- 事業主体の分類:自治体 その他
- デザイナー、プランナー:N/A
- 開業年:1994
ロケーション:
都市の鍼治療としてのポイント:
クヴェードリンブルクに行くのは不便である。最寄りの大都市はマグデブルクになるが、そこから列車で90分ほどかかる。高速道路(アウトバーン)は比較的そばにインターチェンジがあるが、それでも主要な交通ネットワークから取り残されている街と捉えて問題がないであろう。
この地理的な重要性のなさが、クヴェードリンブルクを多くの戦争からの被害を少ないものとし(特に大きかったのは30年戦争であまり被害を受けなかったことであり)開発の波から取り残させ、貴重な歴史的建築物をここに現在まで保全させた大きな要因であろう。唯一、危険だったのは旧東ドイツ時代に旧市街地の歴史的な建物を壊して団地をつくる計画が策定された時だったが、これは幸いにも予算不足で実行されなかった。
旧市街地には、木組みの家だけで1,300棟、さらに産業革命直後に建てられたグリュンダーツァィト時代、アール・ヌーボー(ユーゲンシュティール)時代の邸宅などがあり、加えて11世紀から12世紀にかけて建設されたロマネスク建築の傑作とされる司教座教会の聖セルバテイゥス教会が存在する。それは、あたかも建築博物館のようであり、外部のものからすれば、その魅力は圧倒的なものがある。
しかし、そこで生活する人達にとっては、経済開発が深刻な課題であった。特に人口が大きく減少しており、さらにそれが止まる見通しが立たないような状況ではなおさらである。歴史建築物を保全できても、生活をする基盤がなければどうにもならないと思う人が出てくるのは当然であろう。「クヴェードリンブルク市民にとって、世界遺産は負担かそれとも追い風か」という問いに2001年から2015年までクヴェードリンブルクの市長を務めて、現在は国会議員であるブレヒト氏は、EUの報告書に次のように回答している。
「それは追い風です。もちろん、負担も大きい。ただ、我々がクヴェードリンブルク市の90ヘクタールの歴史地区を世界遺産に申請した時点で、ここが世界遺産に指定されたら、それは市外からの観光客のためだけでなく、将来世代にも大きな便益をもたらすと考えたのです。我々は自らの都市が世界遺産となることの責任を受ける覚悟を決めたのです」。
クヴェードリンブルクが成功したポイントは、このような問題意識を市長や一部の市役所の職員だけでなく、市民全員と共有しようと心がけたことである。もちろん、市民全員が市長の方針に賛成していた訳ではないであろう。しかし、市民にオープン・ハウスをさせるイベントを開催したり、広く、市民のネットワーク化を図るイベントを図ったりしたことは、クヴェードリンブルクという都市のアイデンティティへの共通理解を醸成するうえでは極めて効果的であったのではないだろうか。
IBAという好機を見事につかんだクヴェードリンブルクの街並み保全とまちづくりである。
【参考資料】EUの構造基金に関する公的ホームページ
(https://www.fad.cat/citytocity/2/cat/wp-content/uploads/guanyadora/booklet_quedlinburg.pdf)
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