215 眼鏡橋の保全運動(日本)

215 眼鏡橋の保全運動

215 眼鏡橋の保全運動
215 眼鏡橋の保全運動
215 眼鏡橋の保全運動

215 眼鏡橋の保全運動
215 眼鏡橋の保全運動
215 眼鏡橋の保全運動

ストーリー:

 長崎は原爆被害により、北半分は戦後、まっさらな中からつくられたが、南半分は江戸情緒がまだ残っており、古都の風情を有している。そして、その歴史的な中心市街地を中島川が流れている。この中島川には14のアーチ石橋があったが、その中でも日本最古といわれるアーチ式の「眼鏡橋」は、長崎市のランドマークとして強烈な存在感を放っている。1969年度から『みんなのうた』が放送していた「お国めぐりシリーズ」でも、長崎県では歌詞に眼鏡橋を折り込み、その映像では眼鏡橋を撮影したものを放送していた。
 眼鏡橋は1634年、興福寺の唐僧黙子如定禅師(もくしにょじょうぜんじ)の手によって架けられた。橋長22m、幅3.65m、川面までの高さは5.46mで、昔は「日本橋」「錦帯橋」とともに三名橋に数えられた。川面に映った影が双円を描くことから「めがね橋」と呼ばれるようになったそうだ。1882年、正式に「眼鏡橋」と命名され、1960年に国の重要文化財に指定された。本来は車両の通行も可能であるが、石積みに緩みが目立つようになったことから、戦後、車両の通行を禁止し、それ以来、人道橋として使われている。
 1647年の洪水で被害を受け、翌年に平戸の石工と伝えられる平戸好夢(ひらとこうむ)によって最初の大修理が行われた。それ以後、度重なる洪水にも流出はまぬがれてきたが、1982年7月の長崎大水害では、それまでとも一線を画すような甚大なる被害を被る。この水害によって、眼鏡橋ほか2橋が一部崩壊、6橋が流出してしまった。長崎大水害は市内だけで死者・行方不明者299名、被害総額も3000億円ほどに達した未曾有の大水害であった。
 この水害で眼鏡橋も大きく崩壊はしたが、流出は免れた。しかし、その後、橋を復元するかどうかは極めて怪しい状況にあった。というのも、水害時において、これらの橋がダムのような役割を果たし、水害の被害を増大させたからである。
 そもそも、モータリゼーションが進展しつつあった長崎市であり、自動車の通行が1948年以降禁止されていた眼鏡橋に代表される石橋群は、長崎県、旧・建設省とも、撤去したいとかねてから打ち出していた。今回の長崎大水害が、それを推し進める口実にされるのではないかと、当時、長崎造船大学(現在の長崎総合科学大学)の助教授であった片寄俊秀氏は危惧する。大規模災害は、それ自体の被害に加えて、災害復旧、復興工事で町の風情が大きく破壊されていることを知っていたので、被害の翌朝に河川工学の大家であった東京大学の高橋裕先生に連絡し「中島川の眼鏡橋が壊れた。復元に立ち上がるから、すぐ来てくれ」と涙ながらに要請する(高橋裕著『川と国土の危機』岩波新書 2012)。
 大規模災害が発生すると、激甚災害特別補助事業の適用を受けて全額国庫負担で復旧工事ができる。ただ、そのためには災害発生から二週間以内に行政は手続きをしなくてはならず、しっかりと中身を検討する余裕はない。片寄氏は、そこで石橋があったから中島川が溢れた。危険な石橋を撤去して、自動車も通れる橋に架け替える案が出たら、眼鏡橋がなくなってしまうという危機意識を抱いたのである。
 高橋先生は、それほど面識のなかった片寄先生にいくつかの的確なアドバイスをする。そして、片寄先生はまちづくりの正しい方向性をもって復旧復興にあたるべきであると行政に訴え、マスコミにも情報を発信し続けた。そして、「長崎大水害を考える」という見開き2面の投稿を8月1日の長崎新聞に掲載し、住宅の供給、災害の構造、斜面災害、河川氾濫、自動車と災害、中島川の復活、再生・観光長崎―という7項目の総合的な対策を提案した。当初は人命を軽視した考えだとの批判もあったが、徐々に誤解は解けていき、テレビ局が主催する市民討論会が開かれるなど、次第に長崎の町の風情の保存を求める声が上がるようになる。
 一方で、市民活動の「中島川を守る会」と中島川まつり実行委員会は、中島川復興委員会を発足させ、8月1日から延べ120人、680地点にも及ぶ浸水状況被害の調査を開始する。そして、中島川の変流工事が水害の大きな要因であった。つまり天災ではなく人災の要素が大きかったことが明らかとなる。
 国の側でも文化庁が眼鏡橋の現地保存を主張する声が出始め、さらに建設省内部でも橋を撤去するという計画の見直しが検討され始める。そして、12月に長崎県は眼鏡橋のバイパスのトンネルをつくることで、眼鏡橋現地保存の案を出す。
 既に決定していた激甚災害特別補助事業を覆して文化財の現地保存というのは、前代未聞の出来事であった。

キーワード:

アイデンティティ, 土木遺産, 景観保護, 水害

眼鏡橋の保全運動の基本情報:

  • 国/地域:日本
  • 州/県:長崎県
  • 市町村:長崎市
  • 事業主体:長崎市
  • 事業主体の分類:自治体 
  • デザイナー、プランナー:片寄俊秀
  • 開業年:1982

ロケーション:

都市の鍼治療としてのポイント:

 眼鏡橋がなぜ、保全できたのか。そのために奮闘した片寄先生は、それは「被災後以前に、川への市民の意識が甦るような活動を積み重ねていたこと」(下記の参考文献から引用)が最大の要因であると考察する。
 中島川は原爆の直接的な被害を受けなかったので、江戸時代の石橋が14橋も並び、その上を自動車が平気で通っているような状況であった。この驚くべきような都市光景も、地元の人にとっては日常風景で、実際、川に蓋をして、その上に高架道路をつくろうという提案が市議会に出されたりもしていた。しかし、その後、西川端に8メートルの車道を整備する事業が始まったことを契機に、光栄寺の住職などが「車道ではなく遊歩道を」という運動を始める。さらに、汚臭が漂う中島川を清掃しようという「大清掃運動」が1973年頃から始まった。加えて「中島川まつり」を企画し、人々の中島川への見方、そして思いも徐々に変化していくことになる。こうした活動で「中島川を守る会」は1979年(昭和54)第1回サントリー地域文化賞を受賞、日本河川協会賞など数々の賞を獲得する。
 そして、このような積み重ねが、長崎大水害という最大の危機においても、眼鏡橋を始めとした石橋を保全しようと人々が強く願い、そのように行動することに繋がったのである。片寄氏は、眼鏡橋の保全についての追想記で次のように書かれている。

 「川を汚したのも人間ですが、きれいにできるのも人間です。中島川をきれいにして石橋を地域の誇りに思う気持ちを醸成していたから、長崎大水害の後に眼鏡橋が残ったのだと思います。長崎大水害から30年以上が経過した今、あの水害自体を知らない人も増えましたが、眼鏡橋を残せた背景にある、この事実は語り継いでいかなくてはなりません。川への意識がよみがえるような活動の積み重ねが、残そうという合意形成へとつながりました。この長崎市民の経験が、多くの地域の参考になれば幸いです。」

【参考資料】
機関誌『水の文化』47号
http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no47/05.html

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