第2回

後編:これからの時代に求められる生活保障のあり方とは

雇用が不安定になり、社会保障の役割が増している

 個人の生活を安定させる生活保障を考えるとき、個人の生活を支える「生活費用の担い手」として挙げられるものが大きく分けて3つあります。個人の就業と家族の支援といった「個人保障」、企業の雇用に付随して提供される福利厚生や職業訓練といった「企業保障」。政府による雇用政策、再分配政策や医療・年金制度などの「社会保障」です。
 戦後の生活保障の特徴は、本人あるいは配偶者や親の雇用が長期的に安定し、企業が社会保障のエージェントとして機能してきました。つまり、労使折半で保険料を拠出する社会保険制度によって、国や自治体は企業をバイパスにして福利厚生などの企業福祉の支援体制を作ってきました。そのため、政府による社会保障の機能は小さくてすんだのです。
 ところが、近年はその構造が変化しています。個人の就業は、非正規化が進んで弱まっています。家族は、単身や単独化が進んだり、離婚などもあって支える力が弱まっています。企業は、安定した雇用の維持が難しくなり、社会保障エージェントとしての機能も低下しています。そうなると、公共による社会保障や社会福祉がクローズアップされるのは必然のことと言えます。

社会福祉の主役は国から地域へ

 そして今、企業の代わりに社会保障の媒介役として期待されているのが、地域です。今から30年ほど前、「これから生活高齢化が進めば、在宅医療や在宅福祉も含めて地域福祉が社会福祉の主役になっていく」と予想したのは社会学者の武川正吾さんですが、それが現実になってきました。
 地域主体の社会福祉に舵を切る契機となったのが、従来の福祉関連の法律を統合する形で2000年に施行された社会福祉法(2003年法改正)です。それ以前から、介護保険法(1997年)によって地域ケアサービスが成立していましたが、社会福祉法の施行と同じ2000年には地方分権一括法が施行されたこともあり、地方自治体が社会福祉において主導的役割を果たすことが期待されるようになりました。
 さらに2015年には、生活困窮者自立支援制度が始まりました。これは健康であっても生活が不安定な人たちに対して、それぞれに適した福祉サービスを提供することで自立をサポートするというものです。全国都道府県や市町村に相談窓口が設けられ、そこでさまざまな問題を抱えた人たちの相談に応じ、支援プランを作成して地域の福祉サービスにつなげています。
 こうした流れを見ても、今の日本の制度の方向性は、従来のいわゆる首都圏一極集中の構造から、地域にお金や人、モノが移る構造へと変わっていくのではないかと考えています。

仕事を紹介するだけが自立支援ではない

なるほど。今おっしゃった生活困窮者自立支援のための相談窓口は、就職氷河期世代やそれ以降の世代に多く見られる生活不安定層の支援につながる政策というわけですね。政府広報のホームページを見ると、支援の対象となる人について「離職後、求職の努力を重ねたが再就職できず、自信を失ってひきこもってしまった人」「家族の介護のため、時間に余裕はあるが収入の低い仕事に移った人」「いじめなどのために学校を中退し引きこもりを続けるうち、社会に出るのが怖くなってしまった人」などが挙げられています。

 そうですね。相談窓口にはいろんな状態の人たちが訪れます。我々は相談窓口を訪れた人を対象に支援ニーズを探るアンケート調査を行ったのですが、回答者のうち約6割は、健康面の理由などで仕事を辞めた人たちでした。いろんな悩みや不安を抱えているので、気持ちに余裕がありません。
 そういう人たちも、今までならハローワークに行くように言われて、「さあ、就職活動をしましょう。あなたに合う求人はこれです」と仕事を紹介されて、すぐにでも自立するよう促されていました。でも、複雑な問題を抱えた人の場合、それだけでは自立支援は難しいのです。生活困窮者自立支援の相談窓口ができたことで、その人が抱える複雑な問題を一旦受け止め、その人に寄り添いながら自立に向けて包括的に支援できるようになったことが大きな特徴です。
 とはいえ、厚生労働省としてはどんどん支援プランを作成し、できるだけ早く自立に向けた筋道を立てたいのが本音のようです。でも、実際の現場ではもう少し緩めに対応しているところが多い印象です。

相談窓口を訪れる人たちへのアンケート調査から、どのようなことが分かったのでしょうか。

 興味深いのは、支援ニーズに男女差が見られたことです。男性は、「すぐにでも就職したい」というニーズが高いことが分かりました。男性の大半は就職を目的に相談窓口を訪れるのですが、60歳近くなるとなかなか就職が決まらず、相談窓口に対する印象も悪くなります。ただし、就職が決まれば、相談窓口への評価も高くなる傾向があります。
 一方、女性の場合、「相談窓口で悩みを親身になって聞いてくれた」「一緒になって考えてくれた」「生活困窮者自立支援制度について詳しく説明してくれた」など、相談できただけでもよかったというコメントが目立ちました。つまり、相談相手がいなくて困っていた、一人で悩んでいたという女性が多いのです。アンケート結果を年代別に分析すると、年齢が上がるに従って相談できずに困っている状況も見えてきました。シングルマザーも同様です。離婚しても親の支援は得にくいことは前編でお話ししたとおりで、シングルマザーも相談できる相手がいなくて困っている人が多く、相談窓口があるだけで救われることが多いのではないかという印象でした。
 こうした男女の違いから感じるのは、男性は厚生労働省が想定する支援ニーズに合った相談窓口の使い方をしている一方で、女性は厚生労働省の想定とは異なるニーズを持ち、異なる支援を望んでいるのではないかということです。

自立が当然の日本は「詰まっている」

これまでのように早く自立させようとする支援では、支えきれない層や支援からこぼれ落ちる層がいるというわけですね。

 そうです。ですが、とかく日本では「早く自立しろ」と言われますよね。自立することが当然だという雰囲気があります。これには歴史的背景があって、源流は明治時代にさかのぼります。イギリスのサミュエル・スマイルズが書いた『Self-Help』(1859)が日本語に翻訳され、『西国立志編』として刊行されたのが1871(明治4)年です。この本は、成功した300人以上のイギリス人へのインタビューから成功と勤勉努力の関係を示したもので、序文の「天は自ら助くる者を助く」という一文が有名です。当時は立身出世を望む旧士族の子弟に広く読まれていましたし、今でも新書版が売れ続けているベストセラーです。そうした背景もあり、日本ではヘルプユアセルフできる「強い個人」がよしとされ、自立を当然とする考え方を前提に社会が成り立っているように思います。
 失業してもすぐに失業手当が支給されないのも、「早く就職しなさい」「早く自立しなさい」というメッセージですよね。日本では、ハローワークで求職の申し込みをして、就職活動をしている人が、半年経っても就職が決まらないときにはじめて失業手当が受け取れます。とにかく忙しく詰めて、休ませないような雰囲気が日本にはあります。
 学校卒業から就職までのスケジュールも詰まっています。3月31日に卒業した学生が、翌4月1日にはもう社会人として働いている。私自身はその辺の意識が割と緩くて、就職せずに大学院に進学し、バブル絶頂期の恩恵を受けてアルバイトで悠々自適な生活を送っていましたけれども。話を戻すと、ぎゅうぎゅうに詰め込んだ社会は効率がいいのですが、そんな社会に閉塞感や息苦しさを感じる人も当然いるわけです。これからは社会としての寛容さや、もう少しゆったりとした制度設計が求められていくのではないかと思っているところです。

「中間的就労」という考え方と、求められる柔軟な給与体系

 「緩さ」という意味では、生活困窮者自立支援制度に盛り込まれた「中間的就労」という概念はとても大事な考え方だと思います。中間的就労は、心身の不調や長期のブランクなどによって一般的な企業では働きにくい人が、本格的に働くための準備の一環として、一定の配慮と支援を受けながら働くことです。公的生活支援の受給を継続しながら、就労体験や軽作業によって賃金を受け取ることができます。一般就労と福祉的就労の中間に位置する働き方です。

いきなり一般企業での働き方に馴染めない人も、これなら自立に向けた一歩を踏み出せそうです。

 そうですね。これまでの働き方の通念に縛られない働き方が求められていくと思います。最低賃金についても、「最低賃金を上げればいい」という考え方がある一方で、最低賃金を上げると「扶養の範囲内で働きたい主婦が働かなくなる」という話も出てきます。ですが、賃金に最低ラインを設けること自体も、我々が自分たちを縛るために作っているものです。中間的就労も含めて言えることですが、もう少し弾力的な給与体系の運用があってもいいのではと思います。
 例えば、通常は1時間で完了する仕事でも、2時間かければできるという人には、2時間でやってもらう。その代わり1時間分のお給料でお願いします、と。同じ仕事をやるにしても、それを短時間でできる人もいれば、人よりも時間がかかる人もいます。ある仕事を「ここまで達成したらお給料を払います」という請負の仕組みなら、仕事の速い人も、仕事がゆっくりな人も、仕事のスピードに関係なく働くことができますよね。
 ある一定の職務やジョブに対してお金が支払われる仕組みの提言は、ずっと前から言われています。日本でそれがなかなか達成できないのは、長期雇用が前提になっているからというのが一般的に指摘されることです。ジョブ型雇用では即戦力が求められるため、能力やスキルが未発達な若手には厳しい環境となります。そのため長期雇用を前提に、現在の能力プラス潜在能力にもお金が払われているのが、今の日本で広く採用されている給与体系というわけです。

対象から外れると支援が切られてしまうのが今の制度

先ほどシングルマザーへの支援に関して話が出ましたが、最近、シングルマザーと貧困に関してこんな記事を読みました。2人の子どもを持つシングルマザーの場合、働いて稼ぐより多くの公的支援をもらえるので、公的支援を選択してしまう人が多いらしいのです。また、それを見て育った子どもたちも公的支援を選択するようになり、いわゆる負の連鎖が起きていると指摘する内容でした。支援を必要とする人に支援を届けることが大事である一方で、必要以上に支援への依存が生じる懸念もあるのではないでしょうか。

 福祉に依存する人が増えるという問題ですね。アメリカでは、「福祉の磁石」という言葉があって、福祉の潤沢な場所を求めて人々が転居する現象を指します。ところが、日本ではなぜか分かりませんが、支援を受けるために転居するケースはそれほど多くありません。ですから、福祉の磁石は今のところ起きていません。しかし、おっしゃるように、将来的に福祉への依存が起きる可能性は確かにありますね。
 ただ、今の制度設計では、必要な支援でさえも途中で切られてしまうことがあるのも事実です。というのも、申請して支援の対象者になれば支援を受けられますが、対象者から外れるとそのまま支援は受けられません。例えば、子育て中のシングルマザーへの支援は、子どもが成人すると終了します。仮に、20代前半でシングルマザーになった人は、子どもが18歳になったとき、つまり本人が40代に差し掛かった頃、急に支援がなくなるのです。これは生活保護や介護支援も同じです。生活の苦しい人がたまたま貯金することができて、それが発覚したら、生活保護は切られてしまことがあります。要介護に認定されなければ、介護支援は受けられません。対象者かいなかを決めるのは常に論争的です。
 支援がなくなれば、就労による自立を模索していくしかありませんが、本人のスキル不足やいろんな問題などですぐには自立できない場合もあります。公的支援が切れたら何のサポートもできなくなるのが今の制度なのですが、そうではなく、職業訓練や中間的就労の機会を提供するなど、本人の自立をサポートする関わりを持ち続けていく必要があると思います。

世帯の生活保障から、個人の生活保障へ

なるほど。では、そのような関りを持ち続けていくにはどうしたらいいのでしょうか。

 そうですね。この問題の前提として、この国の生活保障制度が世帯単位で設計されていて、単独の個人として生活を保障する仕組みが作られていないところに問題の根幹があると思っています。シングルマザーなどは顕著な例ですが、個人としてではなく、「子どもがいる母親」として子どもとセットで扱われているため、子どもが成人したら支援が切られてしまうのです。もし、シングルマザー個人が国の支援対象者として存在していたら、児童手当の受給終了後は自立のための就労支援プログラムに移行してもらうなど、自分たちの生活を保障できるような支援体制を継続的に提供することができるはずです。
 103万円の壁も問題の根っこは同じで、妻の生活を夫と組み合わせて補助する仕組みになっているからです。ですから、先ほどの「最低賃金が上がるとパートの主婦が働かなくなる」という話は、笑い話ですませる話ではないと思うのです。つまり、パートの人たちも普通に課税されて、一般市民としての役割をしっかりと果たして、お給料をもらって自立して生きていけるようにしたうえで、家族というものを考えていかなくてはならない。個人としての生活を保障する仕組みを前提にした社会設計が必要なのではないかと思っています。

個人が個人として扱われていない。なぜ現状ではそうなっているのでしょうか。

 日本は伝統的に家族単位の社会でしたが、農業社会から雇用社会に移行したときに、家族単位から個人単位の社会へと移行できなかったのが理由でしょうね。農業で生計を立てていた時代は、男性(夫)は主に農業に従事し、女性(妻)は農業に加えて家事育児を担ってきたわけです。雇用社会になり、男性が外に働きに出て、女性が専業主婦になると、家事育児の役割がそのまま女性に継承されていった。本来ならこのとき個々の人間として成立しなければならなかったのに、世帯単位でセットアップされてしまったのです。これによって、女性が仕事を持つようになってからも「家事育児は妻の仕事」のような構造ができあがりました。
 こうした性役割分業は海外にもありますが、日本の場合はより純化した形で行われたため、女性は家庭に縛られるようになりました。国も世帯単位で対応してきました。欧米で1970年代80年代に女性の問題が問われるようになったとき、日本も一緒に個人と国との関係を構築できていればよかったのですが、それができずに、かなり遅れた状態になっています。

個人の違いを認め、活かす社会を作る

そのように男女の賃金格差が大きいと、女性が家庭内暴力を受けても自立して生活する方向に動けないので、結局子どもが犠牲になってしまうんですよね。

 そうなんです。生活保障の仕組みが個人ではなく誰かとセットで考えられていることが根本的な問題だと思いますね。

そうした議論はなかなか表立ってできません。

 そうなんですよ。そういう話をすると、「女性の一部はそれを望んでいる」と主張する人が必ず出てきます。

それ、ありますね。「力のある女性ならいいけれど、そうじゃない女性もいるんだ」と。今はもう、そんなことを言っている状況ではないのに。

 同感です。日本の場合、例えば知的能力や教育歴で見ると、どう考えても男性より女性のほうが能力が高いんです。にもかかわらず、それを活かせるだけの仕組みを作ることができていません。日本は戦前からテイラー主義と言われる科学的管理を行ってきて、作業の標準化やノルマの設定などで生産性を高めることは得意です。一方で、個人の能力を活かしたやり方は苦手です。そのためには仕事を分析して、個人の能力に合わせて分割していく管理的能力の必要があるからです。未だにテイラー主義の本が売られているのを見ても、管理者が不在で日本人は標準化が好きなんだなと思います。

日本の制度を昭和のモデルから令和のモデルに変えていかなければなりませんね。このインタビューの前編で、「団塊ジュニアは団塊世代と補完的な関係にあって、安定した生活が望める人もいるけれど、それ以降の若い世代はそれも望めない」という話が出ました。団塊ジュニア以降の若い世代が自立した生活を送るためにも、世帯単位から個人単位の制度が必要になってくるでしょうね。また、今は少子化が問題になっていますが、男性と女性が対等な関係を作り、家庭を安定させられれば、出生率も維持できるはずです。ジェンダー平等も大事ですが、違いを認めながら男女が公正な機会を得られるジェンダーエクイティをベースに社会のルールを作り、夫婦で家族を支えていくことが大事になってくるのではないでしょうか。これが新しい時代の少子化対策の一つにもなりますね。