大谷さん(仮名)は、現在、35歳。「なんか面白そう」という直感に導かれるまま職を転々としたのち、30歳のとき、「これをやりたい!」と心から思える、場をデザインするワークショップの仕事にたどり着いた。
自分が歩んできた人生は「大学を卒業して就職、結婚、という教科書どおりのものではないかもしれないけれど、普通じゃないほうが面白い」と話す大谷さん。これまでの歩みを伺った。
大谷さん(仮名)は、現在、35歳。「なんか面白そう」という直感に導かれるまま職を転々としたのち、30歳のとき、「これをやりたい!」と心から思える、場をデザインするワークショップの仕事にたどり着いた。
自分が歩んできた人生は「大学を卒業して就職、結婚、という教科書どおりのものではないかもしれないけれど、普通じゃないほうが面白い」と話す大谷さん。これまでの歩みを伺った。
大谷さんが生まれ育ったのは、地方都市の中心部から車で20~30分ほど離れた商店街。隣に住む父方の祖父母が営む布団屋を母親が手伝い、設計士の父親は会社勤めをしていた。兄が2人いる。
小さい頃は商店街もにぎわっていて、「私は近所の人に育ててもらったと言っていいくらい、周りに人がたくさんいました」と大谷さんは話す。けれども、自分が生まれ育った町はあまり好きではなかった。なぜなら、「田舎は環境に変化がなく、面白くないから」。
憧れの電車通学をするため、家から少し離れた場所にある高校を受験し、合格した。高校では吹奏楽を3年間やり切って、地域の大きな大会への出場も果たしたが、「学校と家の往復だけの生活では刺激が足りず、物足りなかった」と振り返る。地元の大学へ進学を希望するクラスメートが多い中、「もっと刺激がほしい」「外に出たい」という気持ちが日に日に強まっていった。
社会学や心理学を学べる大学を探していると、関西の大学で働くいとこが、同大学で新設されたばかりの学科のことを教えてくれた。「授業でシャボン玉を作るらしいよ。きっとあなたに合うんじゃない?」と言われてその気になり、さらに関西地方であれば地元を離れられること、そしてそれ程は遠くない距離なので、家族と離れても寂しくない。
また、新しい学科が掲げる「子どもの目線で社会学を見る」というコンセプトにも興味をそそられた。「『子どもの目線で社会学を見る』という見方は、高校生の自分にはなかったし、社会学や心理学などいろいろ見た中にもありませんでした。面白そうだと思って、ここに決めました」と大谷さんは話す。
関西の大学に行くことに両親は反対しなかった。「実力が伴うのなら、行ったら?」と娘の意思を尊重してくれた。それまでも自分がやりたいことを否定されたことはない。「家族は皆、いい意味でゴーイングマイウェイなんです」と大谷さんは話す。
この学科を選んでよかったと思うのは、自分の研究に誇りを持ち、楽しそうに没頭する先生たちと出会えたことだ。
「自分の好きなことを楽しそうにやっていて、それを授業に取り入れて熱弁してくれるような先生が多かったので、『大人ってこんなに楽しいんだ』『何歳になっても自由でいいんだな』と思わせてくれました。それに、学生の私たちに対して同じ目線で接してくれるので、意見も言いやすかったし、先生の話を聞くのも面白かったんです」
のちに30歳で再会して、大谷さんがワークショップの世界に飛び込むきっかけとなった恩師にも、この学科で出会っている。そして、出会いの記憶はほろ苦い。学びの場づくりを専門とする先生のゼミを希望するも、大谷さんは一人だけ落ちてしまったのだ。
しかし、今振り返れば、「あのとき落ちてよかった」と思っている。
「先生は、今この瞬間のインスピレーションを大切にする方なので、計画はあってないようなもの。学生時代に先生と一緒にいたら、きっと先生に振り回されて、先生のことを嫌いになっていたかもしれません」
大学2年で経験した父親のリストラも、大谷さんの人生観に少なからず影響を与えたという。
「会社に勤めていても一生の保証はないことを身近で感じました。幸いにも手に職を持っていた父は、会社を離れても稼ぐことができています。会社に属しても属さなくても生活できる。父を見ていてそれが分かるので、安定したサラリーマン生活を望む感覚は薄かったかもしれません」
こう話す大谷さんだが、初めから組織に属さない生き方を選んだわけではなかった。学科の卒業生は小学校の教員が選択肢の一つだが、初めから教職を目指すつもりのなかった大谷さんは、企業への就職活動を始めた。その背景には、母親のこんな教えがあった。
「一度は正社員になりなさい。一度正社員を経験したら、あとは何をしてもいい」
母親がなぜそう言ったのか、その真意をたずねたことはない。ただ、「大学を卒業したら正社員になるもの」と思っていた大谷さんは、母親の言葉を素直に受け取り、行動に移した。
転勤は嫌だという理由で、一般職を選んだ。しかし、関西の企業の一般職の初任給は18万円ほどで、生活費を捻出するだけで精一杯だ。遊ぶためのお金を残すには、実家暮らしで働くのがいい。地元で仕事を探すことにした大谷さんは、大学の推薦でメガバンクの地元の支店の面接に臨んだが、銀行の窓口業務にはどうしても興味が持てなかった。
どうしようか、と考えあぐねているときに見つけたのが、地元に本社があるコールセンターの求人だった。面接を受けると、面接官の印象がとてもよかった。大谷さんは、「仕事内容をあまり検討することなく、この会社に就職を決めました」と話す。
しかし、その直後に決心が揺らぐ出来事が起きる。大学4年の夏休み、大谷さんは韓国への短期交換留学プログラムに参加したのだが、仲良くなった韓国人の友達ともっと話がしたいと欲が出て、1年間の韓国留学を真剣に考えるようになったのだ。
就職か留学か――。悩んだ末に選んだのは、すでに決まっていた就職だった。「留学には、行こうと思えばいつでも行ける。お金を貯めてから行けばいい」と思い直した。
就職を機に、実家に戻った。節約のための実家暮らしと割り切ってはいたものの、刺激の少ない地元での生活はやはり退屈だった。会社の新人研修担当者に不満を漏らすと、その年の夏、長期出張の扱いで東京に呼んでくれた。その後、人手不足を理由に地元に呼び戻されるまで、4カ月ほど東京で働いた。
地元に戻ると、東京での働き方との間にギャップを感じ、悶々とするようになる。「東京ではみんな厳しく仕事をしているのに、地元ではのほほんと仕事をしているように見えて、その差がしんどかったんです」と大谷さん。前出の研修担当者が彼女の様子を心配して、今度は東京への転勤を打診してくれた。しかし、「東京に数カ月住んでみて、あの人混みの中では住めないと分かった」ため、転勤話を断った。
職場環境に不満はあったものの、コールセンターの仕事自体は面白かった。
「コールセンターには当然、クレームもたくさんいただきます。そのうち相手の話をきちんと聞くことの大切さや対応のコツが分かってきて、それは今でも普段のコミュニケーションで役立っています。また、クレームの内容は人によっても違うし、日々変わります。その変化に対応していくのが面白かったですね」
ところが、就職して2年半が経つ頃、大谷さんは体を壊してしまう。人手不足のしわ寄せで残業続きの日々が続き、無理がたたったのだ。また同じ頃、叔母の病気が判明し、2カ月半で急逝するというつらい出来事が重なった。
「人はいつ死ぬか分からない。それがリアルに感じられました。健康の大切さが身に染みて、体を壊すくらいなら会社を辞めようと思ったんです」と大谷さん。母親には、「しんどいし、体調も悪いので辞めます」と告げた。
次のことは全く考えていなかった。会社を辞めれば体調は戻ると思っていたが、身近な人を亡くした悲しみからすぐには立ち直れなかった。実家で半年ほどニート状態が続き、母親に「いつ働くの?」と聞かれたこともあった。貯金が底を突き、そろそろ働こうかと腰を上げたときには1年が過ぎていた。
大谷さんが次の目標にしたのは、「韓国語学留学」だった。大学4年のときに初めて韓国を訪れてから、度々韓国に旅行していたが、「留学してしっかりと語学を学びたい」という思いが強まっていた。
そもそも大谷さんが韓国に興味を持ったのは、高校生の頃、韓流ドラマ『冬のソナタ』に夢中になった叔母の代わりに、韓国語の勉強を始めたのがきっかけ。やがて大学生になると、今度は自分が東方神起のファンになり、「東方神起の歌詞を理解したい」と韓国語の勉強に熱が入るようになったのだ。
語学留学の費用を稼ぐために働こう。その場合、土日はしっかり休めて、かつ、お給料をしっかりもらえる仕事がいい。そう考えて、ハローワークで見つけたのが、国土交通省管轄の地元の空港事務所での契約の仕事だった。1年ごとの更新で最長3年という契約期間も、いずれ語学留学したい大谷さんには好都合だった。「これしかない」と面接を受けたら、合格した。
ここでは2年間働いた。東方神起のメンバーの軍隊入隊が発表され、彼らの最後の活動期間に合わせて韓国へ向かうことにした。最初の3カ月はビザなしで語学学校に通い、その後のことは現地で決めるつもりだった。
が、意外に早く、3カ月後には日本に戻ってきた。関西の大学で働いているいとこから再び連絡があり、母校の学部の事務室に契約スタッフの空きがあることを知らされたからだ。「恩師とも一緒に働けるチャンスだよ」と言われて、テンションの上がった大谷さんはすぐさま帰国。1週間後には同大学の事務員として働き始めた。27歳のときだ。
しかし、このときは恩師と働くチャンスがないまま、3年の契約期間を終えた。すると、タイミングよく、今度は同大学の別の先生から、あるプロジェクトの研究補助員の仕事に誘われた。そのプロジェクトには恩師も参画していた。
「給料はめちゃくちゃ安かったけれど、楽しそうだった。(お金は)どうにかなるだろうと思って引き受けました」と大谷さん。このときの決断が、のちに「やりたい!」と思える仕事との出合いに導いてくれることになる。
研究補助員として参加したプロジェクトで、大谷さんは、高齢者が食を通じて集える場を作るためのワークショップの運営に携わった。何もないスペースにテーブルを置くだけで、参加者の行動が変わるのを目の当たりにして、場の持つ力に興奮したという。
思い立ったらすぐ、動いていた。
「私、こういう仕事をやりたいんです」と恩師に意思を伝えると、「ワークショップで食べていくのは大変だよ。不安定な仕事だよ。それでもやる気あるの?」と否定的な反応が返ってきた。覚悟を問われたことでなおさら、自分の内にやる気がフツフツと湧いてくるのを感じたという。
何をどう始めればいいのか分からなかったが、「自分で生活できるだけの分を稼げば問題ない」とあまり深刻には考えていなかった。そのうち、学内の事務職に空きが出て、大谷さんに声がかかった。仕事内容にそれほど興味があったわけではなかったが、「週3日出勤、任期なし」という条件は、ワークショップの仕事をメインにしていきたい大谷さんには魅力的だった。
恩師のネットワークを頼って、少しずつワークショップの仕事を広げていった。最初は月に1件受注できればいいほうで、単価も安かった。しかし、目の前の仕事を一つずつ、手を抜かずに取り組んできた結果、今では月に2~3件を受注できるまでになった。直接声をかけてもらえる仕事も増えてきた。
「始めた頃は、ここまで軌道に乗るとは思っていませんでした」と大谷さんは感慨深げだ。「気づいたら、自分たちの足で立っていたという感じ。先のことは全く分かりませんが、今が本当に楽しい。これまでもやりたいことは全て叶えてきたし、これからも目の前のことを全部やっていけばいいのかな、という気がしています」
次にやりたいのは、アメリカに行くことだ。
アメリカへは30歳のとき、5日間ほど一人で旅したことがある。片言の英語を駆使してなんとか自分の意思を伝えようと必死だった。言いたいことが表現できずに悔しい思いもした。「そういう崖っぷちでギリギリな感覚が心地よくて、もう一度味わいたいんです」と大谷さんは話す。
また、アメリカでは「自分のありのままでいい」という開放感も味わうことができた。その感覚も大谷さんがアメリカに惹かれる理由だ。
アメリカへ旅行する前、大谷さんは自分のことを「普通じゃない」と感じていた。つまり、大学を卒業して、就職して、結婚して、子どもを生む、という“教科書どおりの人生”ではない、ということだ。友達から「結婚しないの?」「次、就職はどうするの?」と聞かれるたびに違和感を覚えていたという。
「なんで普通に当てはめようとするのだろう、と疑問でした。私の母は、父との結婚で苦労したせいか『別に結婚しなくていい』と私に言ってくれています。叔母の一人は離婚して帰ってきたし、もう一人は未婚だし、我が家はいろんな選択肢がある家庭環境です。だからこそ、いろんな人が自由に暮らすアメリカの空気が私には居心地よく感じられました。ホームレスのおじさんがレディファーストで扉を開けてくれたり、駅前でバケツを叩いている人がみんなの称賛を浴びていたり。『ありのままでいいんだな』と開き直れて、気持ちが楽になりました」
今年中には再びアメリカを訪れて、3カ月ほど滞在するつもりだ。その間のワークショップの仕事は、オンラインで続けられると踏んでいる。
そして、もう一つの夢は、実家の土地に家を建てることだ。2人の兄にできた子どもたちが、里帰りで自由に使えるようなオープンな平屋を建てたいと話す。「私がそこに住むかどうかは分からないけれど、関西と地元の2拠点生活もいいかな」と妄想している。
憧れるのは、フランス人のような働き方だ。
「1カ月ほど休みを取って、温泉に行ったり、海外旅行に行ったりして楽しみたい。それ以外は一生懸命に働く。そういう生活ができるように環境を整えていきたいですね」
先のことは分からないけれど、目の前の面白いことに夢中になるうちに、次の「面白いこと」や「やりたいこと」が見えてくる。そうやって一つひとつのチャンスをつかんできた。「もしかしたら、私は次の『したい』を探したいのかもしれないです」と大谷さん。
将来への不安はない。叔母の死を経験して、「人はいつか死ぬ」ことをリアルに感じた。だったら、今できることをしようと本気で思っている。
大谷さんと接すると、既成の枠組みに身を任せようとする自分の姿とついつい比較してしまう。大谷さんはとにかく主体的に動く、その躍動感というか、自由を選択する姿に差を感じる。例えば「人生100年時代だから…」というフレーズに続くのは、「保守的・安定的であるほうがよい、長い老後を生きるために計画的に今を生きよう」と考えてしまう人が多数派だと思えるのだが、大谷さんは違う。やりたいこと、そして次のやりたいことへと、興味関心が広がっていて、そして実践している。お父様がリストラされたり、自らが影響を受けた叔母様を亡くされたり、様々な経験を受け入れる中で、既成の枠組みや保守的な考えに支配されて自分に我慢を強いることより、前向きに進むことを選んでいる気がする。
「ピーター・パン・シンドローム」(ダン・カイリー)や「モラトリアム人間」(E.エリクソン)といった言葉が意味するところとは真逆で、彼女は現実の中に様々な可能性や自由を感じて、挑戦することを楽しんでいる。その姿は一見すると子供のように元気である。ところが子供っぽくはない。周囲に対しても背中を押すのが上手で、こちらが弱音を吐くと「何を言っているんですか、出来ますよ、やりましょうよ、おもしろいですよ」といった調子である。
インタビューの中で、彼女からはアメリカへの関心が語られた。その先にもきっと何かあるのでは…彼女自身もまだ見ぬ何かがある予感がする。「他人の人生を生きるな」は有名なスティーブ・ジョブズのスピーチの中に出てくるが、大谷さんからは自分自身の生き方というものが問われている気がする。