日本の都市の行方を考える
2024年5月31日/執筆:井口勝文(メルカテッロ/イタリア在住)
中部イタリアの小さな町、メルカテッロ・スル・メタウロ(以下メルカテッロ。人口1,300人余)の暮らしを紹介する。そのことを通じて日本の都市の豊かさについて自問自答する。
筆者は1993年にメルカテッロの旧市街に築540年の町家を入手、16年かけて修復した。いまは1年の半分をそこで暮らしている。この間にメルカテッロは町の整備が進み、山間地の魅力的な小都市の連盟である「オレンジフラッグの町」、そして日本でもよく知られている「イタリアの最も美しい村」のひとつにノミネートされた。
メルカテッロの暮らしは豊かだ。
筆者夫婦もその豊かな暮らしを享受させて頂いている。良く町に溶け込んで暮らしているということで2018年、名誉市民の称号を頂いた。町のために特別の貢献をしたからというのではない、市民の一員に加えてあげようという意味の名誉市民だ。イタリアの都市、建築が何故日本とは異なる存在の原理(社会の常識)を持つのか、それを知りたくてメルカテッロで暮らすことを決めた筆者にとっては何よりの励ましになる称号だった。
筆者は1960年代半ばから都市、建築の設計を通じて日本の都市開発、再開発の実務に携わってきた。その間イタリアの都市は筆者にとって学びの対象であり、都市と建築のプロトタイプであり続けた。筆者が初めてイタリアの地を踏んだのは1970年。戦後の復興、高度経済成長、地球環境問題を経てイタリアは大きく変化した。いまも変化し続けている。その変化には学ぶべきところが多い。
60年代末以降イタリアは(西ヨーロッパは、と言っても良い)近代主義(モダニズム)から脱近代主義(ポストモダン)へ、都市政策の方向を大きく転換した。
我々、都市設計の実務に携わる者は常にヨーロッパと同じコースを走りながらも、残念ながらヨーロッパの背中を見ながら走っている感が否めなかった。しかし日本はいま、彼らの背中をすら見ていない。彼らは別のコースに競技の場を移している。
我々はいままで通りのコースを走り続けるべきだろうか。拙著『イタリアの小さな町 暮らしと風景―地方が元気になるまちづくり』(2021年/水曜社)ではそのことを問いかけた。
メルカテッロの豊かな暮らしは美しい風景によって支えられている。美しい風景を彼らはどのように守ってきたのか、風景を守るとはどういうことか。筆者が見続けてきた60年代末以降のイタリアの諸都市の姿と都市政策の変遷、そこにメルカテッロの30年の暮らしで得た知見をまとめて報告する。日本とイタリアには共通する課題が多いが、本質的と思われる違いもある。イタリアを知ることは日本の参考になるのか、あるいは日本には日本の目指すべき別の方向があるのか。半世紀を振り返るイタリアの現実と、筆者の思いを報告する。
メルカテッロの豊かな暮らし
1950~60年代は近代都市計画の理念〈モダニズム〉全盛の時代だ。日本でもイタリアでも旧市街の伝統的町並みを破壊して新しい事務所や商業建築が増えていた(日本はその前に空襲で大部分を失っていた)。そして郊外への市街地の無秩序な拡大がこの時期ダイナミックに進んだ。都市に人口が集中する一方で都市中心部の居住人口はどんどん減っていき、都市の郊外化が進む。日本ではそのことを「ドーナツ化現象」と呼んで危機感を持った。ここまでの流れはイタリアも日本も全く同じだ。が、このあとの対処が日本とイタリアでは大きく異なった。
70年代初めの頃、トスカーナの旧市街を歩きながら考えた。イタリアも日本と同じように、「彼らはこの町を捨てるだろうか?」
町は傷んでいた。空き家も増えていた。郊外に新しい街が拡がっていた。でも、
「いや捨てないだろう」
「彼らは捨てきれないだろう。捨てるにはあまりにも美しすぎる」
その時私は単純にそう思った。
トスカーナの小さな町を訪ね歩いた2年間、歩くにつれてその思いは強くなった。旧市街の中に取り残されたような古い家。その窓から顔を出して話しかけてくるおばあさん。
「ボンジョルノ! 美しい町でしょう!」
赤いジェラニウムの植木鉢の向こうからおばあさんの元気な顔が覗いて声をかけてくる。旧市街のバールに集まってくる男たち。働き盛りの男たちも、まだ働き始めたばかりの若い男たちも、賑やかに華やぐ若い男女も、バールの界隈に集まってくる。この親密感、このぬくもり。嬉しい高揚感と安心感は郊外のバールでは決して得られない。
美味しいレストランはたいてい旧市街にあった。美しい田園や山並みを見晴らすレストランの週末は、いつも満席で、家族連れやカップルで賑わっていた。
イタリア人の一番の楽しみは、見晴らしのいいレストランで家族や友達と食事すること。
客席のざわめきが華やかに部屋に満ちて、カチャカチャとナイフとフォークを使う音がそれに混じって、料理人が台所で忙しく働く空気が伝わってくる。給仕が愛想良く軽口を叩きながら客の間を歩き回る。そんな楽しみが、旧市街の通りの奥で繰り広げられていた。
町で一番大切な教会はどこも旧市街の中にあった。日曜の朝にはミサを伝える鐘の音が、丘の下のほうまで伝わっていく。
市役所は、決して旧市街の外に出ようとはしなかった。事務所のスペースが足りなくなっても旧市街の空いた家に蛸足式に拡張して、市役所は旧市街の中に居続けた。
「町の中心はここなのだ」
それを身をもって言い続けている。そんな風に見えた。
中世以来の歴史が積み重なったイタリアの小さな町の旧市街がこのまま衰退していくことはあり得ないだろう。イタリアの旧市街と周りの自然が織りなす風景を、イタリア人は決して捨てきれないに違いない。それが彼らのアイデンティティだから。
都市の歴史的な積み重ね(ストック)が持つ力に期待を込めて1973年、都市・建築の月刊誌『SD』(鹿島出版会)に1年間、「トスカナのチェントロ―史的都市形態論」を連載した。日本でも街並み保存が意識され始めて、時代の潮目が変わる空気があった。しかしその流れは日本では続かなかった。そのことは後述する。
そしていまイタリアの旧市街は甦っている。新しい市街地は旧市街を囲むようにできる限りコンパクトに建設されており、その外には広々とした田園と自然の山並みが拡がっている。旧市街の家並みは綺麗に、美しく整備されている。敷石が新しくなって町がすっきりと清潔になった。旧市街の人口は50年代の半分になったものの、なんとかそれ以上の減少をくい止めて現状維持を保とうとしている。自動車を締め出した街は楽しい歩行者優先の街になり、観光客も増えた。そして何よりも、町の住民がのびのびと誇らしげに町の広場に集まってくる。広場とそれを囲む旧市街、その周りに拡がる新市街、そしてそれらを包む広大な自然の山と丘。確かなコミュニティの存在がその美しい風景を守っている。メルカテッロもそのような町のひとつだ。
経済成長からポストモダンの都市政策へ
イタリアの都市政策は旧市街を保護する橋渡し法(1967年)、新市街の建設を規制するブカロッシ法(1977年)によって大きく方向転換した。筆者が歩き回っていた頃はまだその影響が目指す方向に現れず、60年代の高度経済成長の勢いがそのまま続いていたのだ。筆者はその最後の荒んだ旧市街と無秩序に拡大する郊外を見て歩いていたことになる。
60年代後半に始まっていた都市政策の転換がオイルショックで大きく弾みがついた。ヨーロッパでは73年、79年のオイルショックを深刻な環境問題として対処した。その結果自動車依存を減らすことを都市政策の基本的な課題とした。旧市街とその周りの中心市街地では歩行者優先のコンパクトな都市を形成することが、都市計画の基本的な方向になった。旧市街を積極的に保護活用し、旧市街で対応しきれない開発は郊外の限られた地区に新市街地を用意した。都市の拡大成長による豊かさを目指すのではなく都市のストックによって豊かな暮らしを守るという、ポストモダンの都市計画への転換である。ヨーロッパはこの時大きく舵を切った。イタリアはその先頭に立っていた。中心市街地の保存と再生が目に見えて進み始めるのが80年代だ。日本もこの時ポストモダンへの転換の可能性があった。でもそうはならなかった。
モダニズムの路線を変えなかった日本の都市政策
我が国の1960年代後半から1970年代前半は革新首長の時代と呼ばれ、都市政策に大きな転換の可能性をもたらした。しかし都市の基本的な在り方の転換をもたらすまでには至らなかった。いまやそのような時代があったことを記憶している人も少ない。*1
伝統的街並み保存が日本の都市の課題になってきたのもこの頃だ。1976年、陣内秀信はイタリアで進行しているポストモダン、「都市の思想の転換点としての保存」を紹介した(『都市住宅』7607)。当時我々もヨーロッパと同じ方向を目指している、目指すべきだとの意識があった。しかしそうはならなかった。オイルショックが日本の都市政策ではヨーロッパとは逆の方向に作用した。
オイルショックに対処する世界一厳しい排気ガス基準や省資源、省エネルギーの技術開発が日本を世界有数のハイテク工業先進国にした。振り返るとこの時、ヨーロッパがオイルショックを深刻な環境問題と意識したのに対して日本は、深刻な公害対策の技術的な課題として対処したのだ。
オイルショックを契機に日本は、急速な経済成長とモータリゼーションの進行にますます拍車がかかって都市の拡大成長、郊外の住宅地とショッピングセンターの開発がなし崩しに進行する。
80年代以降の日本の多くの町で商店街は死滅状態になった。それに代わって郊外のバイパスに沿ってショッピングセンターとロードサイド・ショップが賑わっている。80年代後半になると規制緩和による民間活力導入が都市開発の主流になって、後にバブルと呼ばれる際限の無い拡大志向、新自由主義が都市政策のパラダイムとなり現在に至っている。大都市に投資が集中する一方で地方の町や村、中心市街地が衰退した。21世紀に入ってからの都市再生特別措置法の制定がさらにその傾向を加速して都市のスクラップアンドビルドを続けている。東京に代表される日本の大都市の豊かさはその成果である。同時に、改めて都市の豊かさとは何かを問う深刻な課題を我々に提示している。
[1] この時期、横浜(飛鳥田一雄市長、1963年~) 、東京都(美濃部亮吉知事、1967年~))、大阪(大島靖市長、1971年~)、京都(舟橋求己市長、1971年~)、神戸(宮崎辰雄市長、1973年~)、名古屋(本山政雄市長、1973年~)の6大都市をはじめとして、多くの都市、府県で革新系政党の推薦する首長が誕生している。オイルショックでエネルギーと資源の限界が強く意識されたこともあって、都市の無制限な拡大に歯止めをかけることが都市政策の課題として強く意識された。旭川の買い物公園、東京銀座の歩行者天国、広島の河川敷公園そして横浜、神戸、福岡などの歩行者優先道路の整備が進んで全国の中心市街地整備と都市デザインへの関心が高まった。
豊かな暮らしを守るイタリアの地方分権と風景計画
橋渡し法、ブカロッシ法によって州と基礎自治体(コムーネ)はそれぞれの都市計画を持たない限り厳しく建築行為が制限されることになった。それに対応すべく70年以降国から州への権限委譲が進み、地方自治に関わる立法権が州に、行政権がコムーネに移譲された。自分の町のことは自分で考えて自分で責任を持つという、地方分権の都市政策がこの頃から本格的に始まった。
既に書いたように、80年代からはイタリアの各地で旧市街の整備と商業の活性化が顕著に見られるようになった。グローバリズムに抵抗する地産地消の地域経済の振興が進んだ。中心市街地、特に旧市街の自動車交通を抑制して歩行者優先の整備が進んだ。旧市街の外に大規模な公共の駐車場を整備した。しばしばそれは目立たないように地下に設けられて、丘の上の旧市街とはエスカレーターやエレベーターで結ばれた。
中心市街地の商業立地は都市計画の重要なテーマである。
メルカテッロのような小さな町では家族経営の小売店舗の立地は次第に難しくなっている。それに代わって数家族の小売店協同組合による新業態の小規模店舗が現れている。旧市街では物販店が減る一方でレストラン、バール、エノテーカなど個人経営の魅力的な飲食店が目立つようになって、コミュニティの大事な結び目になっている。
中心市街地の活性化、景観整備が進む一方で農業人口の減少に伴う廃屋、廃集落化、田園地帯の生活と風景の荒廃が問題の焦点になってきた。郊外の建築行為は規制されていたが、農地や山林、河川などの歴史的な自然風景の荒廃はこの頃までほとんど放置されていたのだ。こうした流れを受けて、1985年にガラッソ法が定められた。
州はその全域をカバーする風景計画をつくり、それを受けてコムーネは市街地と山や田園地帯の全域をカバーする総合的な都市基本計画をつくらねばならない、そうしない限り一切の開発行為が認められない。ガラッソ法がそういう状況をつくった。
こうしてイタリアは旧市街~新市街地~田園地帯のすべてにわたる都市基本計画を風景計画として策定するシステムを整えた。その背景にあるのは、いまある美しい風景を守る、暮らしの豊かさを守るという、ストックの思想である。
イタリアに限らずいまやヨーロッパの主要国は景観の〈保存〉、〈管理〉、〈計画〉を国土計画の最優先課題にしている。景観問題に関して協力することを目的に2000年に欧州評議会(Council of Europe)で採択された欧州景観条約には「地域計画、都市計画、文化・環境・農業・社会・経済政策、その他直接・間接に景観に影響を与える可能性のある政策に景観配慮を組み込むことにより、総合的な景観政策を実現しなければならない」とする原則が盛り込まれている。日本の景観法では景観への「考慮を促し」ているのに対してここでは、景観への「配慮を義務付け」ているところに根本的な違いが在る*2。
地方分権と風景計画の推進、メルカテッロはその流れに乗った。
[2] 大久保規子「持続的な発展と欧州景観条約」(『公営企業』2010年2月号)を参照。
眠りを覚ましたメルカテッロ
1985年から95年までがパオロ・チンチッラの町長在任期間だ。パオロがいまのメルカテッロの基本的な社会の仕組みをつくった。「眠っていたメルカテッロを目覚めさせた」とかつての支持者達は言う。
メルカテッロでは新都市建設計画改定(1985)、旧市街の地区詳細計画(1988)、商業計画(1989)、メルカテッロ憲章(1991)、カステッロ・デッラ・ピエヴェの地区詳細計画(1992)、都市基本計画(1995策定、1996発効)を10年で一気につくり上げた。これらは地方分権、景観計画の強化というイタリア全土に課せられた重要な課題に対応するものだった。
彼は新しい貯水場を造って、朝、昼、夕に2時間ずつしか給水できなかった公共水道に24時間いつでも水が出る十分な水量を確保した。着任して2年目に、既に着工していた公共下水道、浄化槽が完成し、都市の生命線が整った。それに加えてスポーツ公園の整備、町営住宅の建設、戦争犠牲者記念碑のある公園の整備、介護老人施設の整備など、矢継ぎ早に遅れていた都市整備に着手した。
さらにコムーネの事務にはコンピュータを導入した。
住む人が居なくなったお屋敷パラッツォ・ガスパリーニを県の助成を引き出して町で買い取って改修した。パラッツォ・ガスパリーニは広場の正面に建っていて、町の重要なシンボルだ。ガスパリーニの館は町の中心広場と旧市街の重要性を誰の目にも明確に印象付けている。文化センターとしての活用はまだ十分ではないが、コムーネがそれを所有していることは将来の都市計画に対する重要な布石だ。
彼は電機、電子部品の組み立て業を起業しようとしていた青年ファウストが新市街地のインダストリアルゾーンに土地を購入するのを積極的に支援した。その工場はいま100人余りの従業員が働くグループ企業に成長した。メルカテッロの暮らしを支える重要な職場になっている。
パオロはこの時代に共に働いた仲間と役所の人材に恵まれたと言う。みんなで力を合わせてメルカテッロを生き返らせた。市民もそれを支持した。
地方分権への転換のタイミングがパオロに活躍の場を与えたのか、パオロが地方分権に光を当てたのか、いずれにしてもメルカテッロにとってこの時期にパオロが居たことは幸運だった。当時の彼のサポーターたちはいまでもその時の働きを誇りにしている。自分たちの町は自分たちでつくり、自分たちで守る。もともと強い郷土愛に加えて、そのような強い改革の意識が町に生まれたのだ。民主主義の要は地方自治にあると言われるが、パオロの時代のメルカテッロにそれを見る思いだ。
パオロの後を継いだ町長はいずれも実行力のある町長だった。
アルフィエロ・マルケッティはパラッツォ・ガスパリーニの修復をやり遂げ、13世紀の修道院を改修して歴史美術館をつくり、大きなピクニック公園をつくり、その一角に介護老人施設「休息の家」を建て、旧市街地の建物のファサードの修復事業を進めた。
ジョヴァンニ・ピストーラは中央広場の舗装を改修し、街の夜間照明を改良、歴史美術館を拡張、パラッツォ・ガスパリーニに現代美術館を新設し、郊外に緊急用のヘリポートを建設した。
2015年に選ばれた初の女性町長フェルナンダ・サッキは町の入口の公園に新しいバールを誘致するなど若い住民を意識したきめ細かな都市政策を進めている。長年使われていなかったベンチベンニ劇場を再利用する資金の目途もつけた。
パオロの跡を継いだ彼らは目覚めたメルカテッロを引っ張って、多くの事業を推進した。その成果が2002年、イタリア観光協会の「オレンジ・フラッグ」指定、2018年の「イタリアの最も美しい村協会」参加認定に結びついた。これらが町の観光客誘致に徐々に効果を上げ始めて、観光が町の主要な産業のひとつになりつつある。
85年のパオロ登場以後の町の活性化がなぜ成功したのか、そのことはイタリア、ヨーロッパの都市が日本に比べると皆小規模であることと関係がある。
メルカテッロで紹介したような自立したまちづくりの動きは80年代以降のイタリアの(西ヨーロッパの、と言っても良い)多くの町で進行した。
小都市モデルのイタリア、大都市モデルの日本
民主主義の要は基礎自治体(市町村、イタリアではコムーネ)であると言われる。その在り方にイタリアと日本では大きな違いがある。
イタリアのコムーネの数は日本の明治維新に相当する1861年の国家統一時からほとんど変わらず2023年現在7,896である。その多くが13世紀の都市国家の成立に起源を持っている。
日本は明治22(1889)年の市町村制の施行で15,859の市町村であったものが、行財政効率化の合併を繰り返して2020年現在1,719である。
人口6,000万人のイタリアの1基礎自治体当たりの人口は7,600人であるのに対して、人口1億2,600万人の日本は73,000人だ。
メルカテッロは日本では限界集落と呼ばれるほどの山奥の小さな村だが、イタリアではよくある小さな町のひとつだ。人口1,000人~2,000人未満の基礎自治体の数がイタリアには全体の19.3%(1,522コムーネ)ある。日本は3.4%(59町村)だ。
人口6万人未満の基礎自治体にイタリアでは全人口の69.7%が住んでおり、日本では11.5%だ。日本に比べるとイタリアが小都市分散の国であることが分かる。(下図参照)
日本は100万人以上の大都市が12あって全人口に占める割合が24.0%だ。日本ではこれらの大都市の経済的、文化的な存在感が圧倒的に高く、それ以外の都市との間に大きな格差がある。そのうち東京都特別区、横浜市、川崎市、さいたま市の4都市で全人口の13%になり、日本が東京一極集中、大都市中心の社会を形成していることが分かる。
イタリアは人口100万人以上の大都市が2つ(ローマ、ミラノ)で、人口30~100万人未満の中都市7つ(ナポリ、トリノ、パレルモ、ジェノヴァ、ボローニャ、フィレンツェ、バーリ)も大都市ローマ、ミラノに並ぶ存在感のある都市だ。イタリアは経済的、文化的に存在感のある都市が各地に分散して立地している。
基礎自治体の人口規模別の数と人口
(日本2020年、イタリア2023年の国勢調査。東京都特別区部は1市として計算)
ハイテクロボットシティを生む日本の大都市
地方の都市はより大きな都市の経済力、文化力に頼り、より大きな都市はさらに大きな都市へと拡大成長を目指す。目を見張る大規模な都市開発が首都圏で進行し、地方の都市はその後を追う。その行きつく先が資本と情報が東京に一極に集中する国の構造だ。首都圏の価値観が日本の価値観であるかのような常識が形成されている。
ガラスで覆われてすべてが機械化され、コンピュータで制御される人工環境都市が日本中に広がっている。自然の雨や風や暑さ寒さに煩わされることのない、快適に空調された住宅、タワーマンション、オフィス、大型店舗、ショッピングモール、アトリウム、フードコート、自動扉とエレベーターとエスカレーターでオートメ化された街。市民のイベント会場は巨大な屋根のドーム空間。温水洗浄便座が並ぶ公衆トイレ、無菌、無臭、清潔でクリーンな街。秒単位で正確に動いている鉄道のネットワーク。歩道には安全柵が張りめぐらされ、高架橋や地下街で繋がる歩車分離の街。大都市の市街地から地方の道の駅まで、すべてが当然のように統一され、管理されている。これはハイテク日本だからこそつくれた人工環境、見事なハイテクロボットシティだ。そしてますます進化している。それを生み出す生活の価値観とライフスタイルを我々は疑うことがない。
あまりにも人工的という意味で非常に不健康な都市だが、それが日本の強みでもある。もしかしたら我々は未来のライフスタイルを世界に提案しているのかもしれない。そのことを自覚してより積極的にこの方向に進むのが日本のとるべき戦略かもしれない。
「足るを知る」 が小都市分散の国イタリアの選択
1998年、欧州都市計画家会議(ECTP)はモダニズムのアテネ憲章(1931)に代わる新アテネ憲章を発表、目指すべき新しい都市の在り方を提言した。そこでは真の住民参加、ヒューマンスケールのコミュニティ、地球環境問題に対処する持続的開発、地域経済の推進、自動車依存の低減、そして混合土地利用の原則等を提言している。大都市になるほどその実現が難しいとの認識がある。
先進工業国G7の一員であるイタリアの暮らしは既に十分に豊かである。それは常に経済成長を目指し、グローバリゼーションに晒される大都市では無視されがちな豊かさだ。比較的小規模な都市が分散して立地しているからこそ実現できる豊かさだ。そのような豊かさを求める価値観がヒューマンスケールの都市を維持しているとも言える。
イタリア、ヨーロッパの都市の主役はいまもオープンスペースだ。屋外のカフェで人々が談笑する道路や広場など、歩行者中心の街の整備が進んでいる。コミュニティの親密な賑わいがある。ローマやミラノのような大都市であっても、その豊かさの認識がイタリアにはある。大規模な新都市の建設でもそのようなライフスタイルが実現している。
当然イタリアのいまの豊かさは安泰ではない。常にその豊かさを脅かす問題が国の内外から迫ってくる。より豊かになろうとする我々の課題とは違って、いまの豊かさを守る課題に彼らは日々直面している。
我々はどのようなライフスタイルが欲しいのか
小都市志向のイタリアと大都市志向の日本。その違いの背景に在るのは両国の歴史、文化の違いであり、都市の存在の原理(社会の常識)の違いになってさまざまな場面で現れる。私たちにとって豊かな生活とは何だろうか?メルカテッロはそのことを問いかける。
田舎の村の懐かしく美しい風景、町内の親密な賑わい。私たちは経済成長と引き換えにそれを失ってしまったけれど、その気になって探せば日本にもまだそのような町や村はある。地方の町や村にしばしば、観光客に媚びない、自尊心の高い生活風景が見られる。そこにはメルカテッロと相通じる豊かな風景がある。コロナ禍を経て地方の暮らしの豊かさがいままで以上に多くの人に意識されるようになっている。400島余りの有人離島をつなぐ専門メディア『ritokei』*3は大都市中心主義の日本に「離島に学べ」と、豊かさの発想の転換を呼びかけている。筆者は日本がイタリアのように、多くの小さな豊かな町や村のある国になる可能性がまだあると思いたい。
豊かさを経済成長に求めると大都市志向になる。私たちはオープンスペースが、親密なコミュニティが、自然の雨や風がそれほど好きではないのだろうか?日本人にはハイテクロボットシティの方が性に合っているのだろうか?
首都圏が牽引する大都市中心主義はこれからもしばらく続くだろう。
その一方、地方では豊かな小都市が確かに育ちつつある。
大都市中心と小都市分散。日本は1国2制度の都市政策を真剣に考える時かもしれない。
[3] NPO法人離島経済新聞社https://ritokei.org(代表理事・統括編集長、鯨本あつこ)発行。
井口勝文
1941年福岡県朝倉市生れ。建築家、博士(工学)。九州大学建築学科卒。フィレンツェ大学建築学部に研究留学(イタリア政府給費留学)。竹中工務店、Giancarlo De Carlo都市建築設計事務所、環境開発研究所を経て京都造形芸術大学教授、INOPLΛS 都市建築デザイン研究所主宰(現職)。メルカテッロ・スル・メタウロ名誉市民、日本都市計画学会功績賞授賞。著書に「フィレンツェの秋」(共著/1995年/中央公論美術出版)、「都市のデザイン」(共著/2002年/学芸出版社)、「イタリアの小さな町 暮らしと風景―地方が元気になるまちづくり」(2021年/水曜社)等。
企画・構成:紫牟田伸子(Future Research Institute)