芸術が切り崩す社会の見えない壁

刑務所をコミュニティに開き、親子をつなぎ、貧窮地区の子供たちの精神を発火させる芸術の力

2022年10月28日|執筆:多木陽介(ローマ在住)

絵本『おやすみなさいの森』(2020)表紙

2020年9月にトリノの小さな出版社スクリットゥーラプーラ(Scritturapura)社から、子供のための絵本『おやすみなさいの森』(Il Bosco Buonanotte)が刊行された。美しいイラストが付き、もちろん普通の書店でも手に入るし、オンラインでも注文出来る一冊だが、この絵本の誕生には特殊な事情があった。この絵本に語られる童話は、北イタリアはピエモンテ(アルプスの裾野と言う意味)州、サルッツォ市のロドルフォ・モランディ刑務所における演劇活動の延長として、囚人たちが参加したクリエイティブ・ライティングのラボで生まれた集団創作の成果だったのだ。さらにこの絵本は、2021年の秋からナポリのある貧窮地区の中学校で教材として取り上げられ、最後は舞台化されるが、かなり重要な教育成果を上げることになった。本稿では、演劇に始まり、童話を生み、また演劇に終わるこの一連の芸術活動が、刑務所や貧窮地区と言う社会の最底辺エリアを閉じ込める「見えない壁」をいかなる形で切り崩していくのかについて語ろうと思う。

1. 刑務所という場所

日本の読者の方々にとって、刑務所と言う場所は本当に縁遠い場所で、普段の会話にはもちろんのこと、刑務所という環境についてメディアが触れることも、まして首長が囚人を慰問することなどもまずあり得ない(イタリアでは定期的に大統領や法王がどこかの刑務所を慰問する)。刑事施設の実態を把握し問題点を指摘するNPO法人監獄人権センター(2002年に法人化)のような団体も存在するが、大半の市民にとって、未だ刑務所は完全に(つまり意図的に)タブー化され、社会的死角に置かれた場所であるから、日本のみなさんには、「囚人が童話を書く」と言われても、この事実をどう捉えていいかも分らないかもしれないので、刑務所という場所の歴史的起源と現状に触れた後で本題に入ろうと思う。

現代社会にある刑務所(監獄)の基本形が生まれたのは、18世紀後半、つまり啓蒙の時代の最中である。中世以来の内蔵抉りや四つ裂きの刑など、公衆の前で行われていた残酷な身体刑をやめて、ある形の人間形成のための収監所としての刑務所が生まれた。ミッシェル・フーコーが名著『監獄の誕生』で詳述したように、権力が民衆を従わせるために、生殺与奪の権を振りかざすことをやめて、むしろ、臣民を自らに都合のいい形で教育し、生かすことを選んだのである。フーコーは、民衆を思った通りの形で生かすことで利益を得ようとするこの権力形態を「生権力」と呼んだが、近現代の監獄とは、まさにこの生権力が司法の領域で見いだした一つの形式であった。

そこでは、パノプティコン(一望監視システム)とともに(学校や工場と同じく)規律・訓練が施行されたが、そこに発展しつつあった資本主義の求める労働者の精神と身体の形成の企図があったことは明らかである。そして、この生権力が統治する技術至上主義の資本主義社会において、周縁にはじき飛ばされた最底辺の人々(文盲、麻薬中毒患者、精神障害者、移民、浮浪者、その他)の多くが犯罪に走り、囚人として監獄という、より粗暴で強度のある「生権力」の檻に放り込まれるのも、この生権力システムの一環だと言えよう。そして、元々出自的にも恵まれていなかった囚人たちの多くは、そこでさらに人間的な要素(感情、言語、思考、愛情その他)を剥ぎ取られ、ある意味で自律した主体としての存在能力すら奪われてしまう。監獄と言う監禁施設の機能は、単に自由を制限するだけではない悪質さをもっているのだが、にもかかわらず、それが表向き「更正施設」と謳われているのが現状である。

現行の監獄システムを大きく分けると以下のような三つのタイプが考えられる。

1. 上記の18世紀に生まれたタイプの流れを汲み、懲罰目的で収監するタイプ。表向きは、労働によって囚人を善に導くことを建前にしながら、自由や権利を奪い、規律訓練を課す「強制労働タイプ」。19世紀初頭以降は、ほとんどの刑務所において犯罪の償いとして、囚人は時間を完全に管理され、一連の労働義務に拘束されていた。日本の刑務所の現状はこれに近いと言える。

2. もう一つは、アメリカでよく見られる産獄複合体とも言われる「収益タイプ」で、民間の企業が経営する工場などで強制労働させるために囚人を利用する。これを維持するには一定数の囚人を常に確保する必要があり、それが市民(特に有色人種)への監視の強化(社会の監獄化)につながっている。

3. 三つ目は、囚人を「監禁・懲罰」するのではなく、その人間性の歪み損なわれた部分を適正なプログラムによって治癒、修復する「修復的司法」の下、被害者との和解と罪を犯した者の本格的な社会復帰を目指す「社会教育タイプ」で、これは、現行の監獄とは全く異なるオータナティブなシステムである。欧州北部ではかなり実験されているが、他地域で実現されている所はまだ少ない。

現行の監獄の大半は、「更正施設」という建前とは裏腹に、実態は1か2の「懲罰タイプ」である。

日本の刑務所の場合、多くが1タイプの典型で、かなりの時間が刑務作業と労働訓練に充てられているが、その際にも刑務官が軍隊式の大声ですべての命令を怒鳴りつけることが多いので、この強圧的な方式の下で、囚人は人間性を剥ぎ取られ、萎縮し、屈辱感に押しつぶされる。その意味ではナチスの強制収容所に近く、驚くかもしれないが、そのようなシステムには「個の人間の尊厳」の認識はかけらもない。一部のPFI刑務所(Private Finance Initiative: 民間組織や企業が運営し、民間ならではの運営工夫のこらされた新タイプの刑務所で「社会復帰促進センター」という名称がついている)のようにTC(アメリカで始まったTherapeutic Community「回復共同体」という対話を重視した刑務所内の教育特化プログラム)[1]が採用されているところもあるが、大抵の刑務所においては、互いに個人的な話をし合うのも禁止され、囚人が自らの犯罪行為やその原因、影響としっかり向き合う再教育プログラムがほとんどないため、囚人に多い、人間性の壊れた部分を修復(つまり更正)できる可能性は低い。

イタリアの場合もファシズム下で厳しくなった[2]「懲罰タイプ」の伝統が拭いきれず、更正施設として十分に機能しない所が多い。日本のような強圧的な刑務官は少ないが、権力乱用の事例は後を絶たない。だが、一番の問題は、収容人数の超過[3]と刑務官の不足[4]、そして積極的に刑務所内での労働や文化プログラムに参加しようとしないと、一日二十二時間を監房で過ごしかねないという点である。このようなシステムは、自主的に何も出来ない環境で「待機」の中に人間を押し込み、責任も奪うことで囚人を幼児化するから、とても社会的に有効な人間を生み出す更生施設とは言い難い。ただ、やる気のある者に対しては、日本の刑務所と違い、外部の専門家が指導者としてやって来て、囚人が自分と向き合う場を提供する文化的、芸術的プログラムが結構あるので、それらを通して、彼らの傷んだ人間性が修復される可能性はかなりある。社会的に有効な人間として復帰するためにこの破損部分を癒し修復するには、職業訓練では不十分で、やはり芸術、文化的要素や特別の教育プログラムを通して、彼らの人格を再構築してあげる必要があるのだ。

生憎、日本でもイタリアでも、多くの監獄空間では、一切の美を剥奪され、愛情からも切離され、日々感覚的に貧困で画一化された空間に閉じ込められた囚人たちは[5]、割ると武器になるため鏡すらないので、自らの姿をまともに見ることが出来ず、「長期滞在者」の場合、アイデンティティの喪失に至ることすらある。このように、身体的、言語的な暴力とともに感覚に対する暴力を日々受け続け、恒常的な監視状況に置かれるために監獄を内面化してしまう(自分で自分の行動を著しく制限してしまう)囚人たちの多くは、自らの壊れた人間性を回復するどころか、刑期中に入所時以上に非社会化してしまう可能性が高い。そのような仕打ちを受けた者は、国家に対しても当然恨みしかなく、まして壁の外の社会は元囚人に対して冷たいので、出所後再び犯罪の道に戻る者も非常に多い。イタリアの再犯率は数年前の数字だが67%と極めて高く、日本の場合も50%近い数字で、いずれの場合も刑務所が更生施設としても犯罪抑止力としても全く機能していないのは明らかで、この制度による「懲罰」自体が、果たしてどこまで正当化されうるものであり、またどこまで社会的に有益な効果をもつのかについては多くの識者が疑義を表明しており、イタリアでは監獄廃止論も盛んである。


[1] 坂上香著『プリズン・サークル』(岩波書店刊)を参照のこと。
[2] 1930−1931年頃。
[3] 2020年2月末(ロックダウン直前)のデータによると、その時点のイタリアの囚人の総数は61,230人だったが、収容許容人数の総数は50,931人。つまり100人入るところに120人詰め込んでいたことになるが、地域によっては、もっと過密している刑務所もある。同じ時期のローマのレジーナ・チェッリ刑務所では、616人収容できるスペースに1.061人が収容されていた。100人入るところに170人詰め込んでいたことになる。欧州刑務所監視機関(European Prison Observatory)が2019年10月に発表した調査によると、欧州ではフランス、イタリア、ハンガリー、ルーマニアの刑務所が最も過密状態にあるという。
[4] 本稿で扱うサルッツォの刑務所の場合、刑務官が必要数に40%足りないという驚くべき数字が出ている。まともな管理運営が極めて困難な数字である。
[5] イタリアの場合、2017年に、こうした収監環境を根本的に改善し、ゆくゆくはオルタナティブなシステムに移行させて行くことを目指す意欲的な「刑務所制度改革案」が約20人の専門家によってまとめられ、提出され、条例まで出来たが、結局政治の側にそれを法律化する強い意志がなく、最終的に何も実現しなかった。演劇を刑務所に導入した元サルッツォ刑務所長で、この改革案の草稿にも参加したマルタ・コスタンティーノ(現法務省勤め)によると、当分この方向の改革の見通しはなさそうだという。

それにも拘らず、現代社会の為政者たちに根本的な改革の意志が見られない所を見ると、彼らにとっては、斯様な刑務所でも十分目的を果たしているというか、斯様な刑務所こそ彼らの求める機能を果たしていることになる。その目標は、生権力自体が生み出した社会の最下層の屑と見なしうる人間たちを社会の表舞台から隠蔽すること(タブー化)にあり、その真意は、犯罪を本当に失くすことでも、犯罪者を有益な社会人として復帰させることでもなく、犯罪を自らの権力下に掌握しながら、差別と階層的社会格差を容認し、いがみ合い、紛争、そして戦争なしにはいられない(暴力の連鎖に基づく)社会の現状をそのまま維持することにあるように思われる。そこで何より大事なのは、個々の人間の生でも尊厳でもなく、秩序、規律、生産性、速度、つまり技術と資本主義のシステムの維持である。それが侵害される時、社会は復讐し、違反者は罰せられる(懲役、死刑)のだ。

このような現代の刑務所制度を前に、大きく分けて二つの改革の道が唱えられている。一つは、現在の刑務所の環境改善策として「監視と懲罰」の原理を少しでも和らげ、何とか囚人たち個々の尊厳を守り、彼らの生活環境の改善を目指すと同時に、彼らの再教育に力を入れる諸々の活動である。先述のTC(回復共同体)や以下に紹介する絵本プロジェクトもこちらに属する。

もう一つは、上記の1や2の司法システムの対極として、三つ目に挙げた「修復的司法」と呼ばれるもので、上の改革案をも単なる対症療法として批判し、直接刑務所廃止論につながるものである。「修復的司法」の目指すところは、現在の刑務所の環境改善策ではなく、司法、加害者、被害者、共同体の四者の関係を根本的に見直そうとするもので、罪を犯した者を排除/監禁する(つまり社会との接点を絶つ)のではなく、彼らを社会に再統合すべき人間として再教育し、被害者の苦痛(現行の司法制度の下ではこの点は看過されている)のケアを徹底し、加害者と被害者の和解を共同体が責任もって仲介し、犯罪者と共同体の間の壊れた関係を修復するというものである。ただ、こちらの方式を実現するには、その基礎として、我々自身が被害を受けた時に「より高次の目標のために自分の復讐したいと思う気持ちを抑え、許す」[6]必要がある(これは人間の本性として非常に難しいところ)上、しかも実現しようとすると、刑務所だけではなく、刑法、その他全てのシステム、つまり社会をその根底から修復することになるので障害は多く、現状での実現は難しいが、アンジェラ・デイヴィス[7]をはじめ、その実現のために力強く運動し続ける人々も多々いる[8]。


[6] サティシュ・クマールも伝える仏教説話『もう殺さない − 仏陀とテロリスト』(原題:The Buddha and the Terrorist)にも語られるこの理想的な司法のあり方を現実世界の中で本当に実現したのはアパルトヘイト廃止後に元抑圧者と元被抑圧者の間に復讐ではなく和解を追求したネルソン・マンデラだけではないだろうか。彼の理念の元に「南アフリカ真実と和解の委員会」が果たした役割は大きいが、それでも完全に目的が達成されたわけではない。
[7] アメリカの社会運動家でフェミニズム、刑務所制度、産獄複合体などの専門的研究者としても知られ、刑務所廃止運動には長年尽力している。
[8] イタリアの場合、著名な判事であったが、現在はイタリア出版会の老舗の一つであるガルザンティ出版の会長を務めるゲラルド・コロンボが「修復的司法」の道を明確に説く『責任ある寛恕』(Il perdono responsabile, ed. Ponte alle Grazie, 2013)という書籍を書いている。

2. 刑務所演劇

以上がイタリアや日本も含め先進国の多くにおける刑務所の実態であり[9]、そこが生権力に統治された資本主義社会の人的「ゴミ捨て場」となっている事実は否めない。しかし、そんな状況の中でも、イタリアの場合、上記の通り、専門家の指導による文化芸術系のプログラムが再教育のツールとして刑務所内で実践されることが多いのだが、これらは単なる気晴らしではない。それらは囚人たちの社会復帰に寄与する大事な活動である。特に芸術の中には、美やハーモニー、変化、バランス等と言う価値が一際輝く形で見いだしうるため、それらの要素による癒しが、刑務所で人間性を奪われた囚人にしっかりと主体性を回復させ再生するために非常に有効だからに他ならない。

中でもイタリアでは、1980年代以来[10]、所内での演劇活動が盛んになり、筆者も会員になっている全国刑務所演劇評議会[11]という組織まであり、2012年からは同評議会の主催で毎年国内のどこかの都市で刑務所演劇のフェスティバル「交わる宿命」[12]が開催されている。現在、全国約50ヶ所で合計1,000人ほど[13]の囚人が定期的に演劇活動に従事しており、当初の純粋に人道的な活動のレベルを卒業して、現在ではかなり芸術的なクオリティの高いグループも増えている。さらに統計を出すと、刑務所内で演劇活動に関わった囚人の再犯率は、先ほどの67%から激減して6%になるという。自分ではない他の人物を演じることで、犯罪者でない人間になる可能性に目覚める者が多いとも聞くが、もちろん、再犯率の低下理由は、演劇をやったからだけではなく、既に素養のいい囚人が演劇ラボに集まるのかもしれないので、一概に演劇の効果を称揚することは出来ないが、いずれにしてもかなりの好影響があることは確かである。

刑務所演劇のフェスティバル「交わる宿命」のポスター(2017)。使われている舞台写真は、イゾアルディの演出した『アムニ』
同じ2017年のフェスティバル「交わる宿命」にも参加したプラートの刑務所の俳優たちによるサミュエル・ベケットの『勝負の終わり』(公演名は『終わりのためのスタディ』だった。演出:リヴィア・ジョンフリーダ)は、稀に見る名演出であった

[9] 西欧では、ノルウェーの刑務所が他に比べ驚くほど人道的に出来ていることが知られている。中でもハルデンの刑務所は、監房の窓に格子がなく、室内も快適である他、図書館、ジム(パーソナルトレーナーがついてくれる)などの設備が完備されており、家族が訪問に来ると監視なしで一緒に泊まる(つまり夫婦の営みが許される)ことの出来る家まで刑務所内にある。また、刑務官は女性が多く、武器は持たず、代わりに一流の教育による対応術を身につけている。
[10] イタリアの場合、一番最初の刑務所演劇(囚人による舞台)の事例は、1982年にローマのレビッビア刑務所で行われたジュネの『死刑囚監視』の舞台だと言われている。
[11] Coordinamento Nazionale Teatro in Carcere.
[12] Destini Incrociati.
[13] これは、全国刑務所演劇評議会の報告による数字だが、同評議会に属さない活動もあるので、正確にはさらに多いと思われる。

筆者が親しくする演出家で劇作家のグラツィア・イゾアルディは、北イタリアはピエモンテ州のサルッツォ市の町外れにあるロドルフォ・モランディ刑務所で既に二十年以上演劇活動を指導しており、その演劇指導と演出の腕前からイタリアの刑務所演劇界では一目を置かれる存在である。筆者も彼らの舞台はもちろん、刑務所内での演劇ラボの稽古やエクササイズにも何度か立ち会ったことがあるが、一番最初に驚いたのは、グループに浸透した規律であった。下手なプロの劇団よりもはるかに良い緊張感があり、全員が一つ一つのエクササイズの意図を正確に理解していた。これは、日頃からの真剣な鍛え方の成果である。ここでの演劇ラボは、いい加減な暇つぶしではなく、身体的、精神的にかなり必死にやらないとついて行けない厳しさを持っており、だからこそ教育効果もあるのである。

グラツィア・イゾアルディ

また、イゾアルディの場合、演劇人がよく使うエクササイズを使いながら、ただ俳優的な身体や神経を鍛えるのではなく、刑務所内で萎縮してしまっている彼らの精神を解放する作業を行う。例えば、演劇のエクササイズでは相手の俳優との間合いやコミュニケーション力を鍛えるために、アイコンタクトのエクササイズが何種類もあるのだが、イゾアルディもその一つをよく使う。円陣になったラボのメンバーが一人ずつ他の誰かの前に行き、まっすぐお互いの目を見合うのだ。そして、十分何かが伝わったと感じたら自分の場所に戻って来る。これを全員が順々に行うのだが、イゾアルディはこの練習を所内で萎縮して下ばかり見るようになっている囚人たちの視線に尊厳を回復させるために行っている。真っすぐ誰かを見る視線を各人が取り戻すことは、人間としての彼らの損なわれた人間性の一端を修復する重要なエクササイズなのだ。このエクササイズの延長で、舞台からしっかり観客を見据えることもまた同じ意味を持っている。また舞台に立って観客の視線の前に立つことは、所内で鏡を見ることが許されず、アイデンティティの感覚に不安を覚えている彼らにとっては、自分たちのアイデンティティを鏡のように送り返してくれる視線に出会う瞬間でもあり、同時に、舞台とは、常に自分のアイデンティティについて嘘をついて来た囚人たちが、もはや欺瞞のマスクに頼れなくなる場所でもある。真の自分に向き合う場所、それが演劇なのである。その時、演劇は、俳優も観客も己の真の存在理由(アイデンティティ)を問い直さざるを得なくなるほどの不可欠な経験となる。よく演劇は虚構だと言う人がいるが、ピーター・ブルック[14]がかつて言っていたように、演劇ほど真実なものはない。監獄の囚人にとっての演劇行為は、虚構どころか、彼らの生が新しい形で蘇るのを助けることになるほどの具体的な効果を彼らに及ぼす可能性を孕んでおり、プロの俳優には想像も出来ないほどの大きな意味を持っている。古代以来演劇に内在していたが、近代以降、演劇が芸術化してしまった中で忘れられていた演劇の「治癒力」が、21世紀になって、刑務所と言う特殊な空間において蘇って来たとも言えるかもしれない。

教育を主題にしたヴォーチ・エッランティの舞台『クラス』(2017)。作、演出グラツィア・イゾアルディ。筆者が観た舞台は、12月初旬の酷寒の中、暖房のないサルッツォの刑務所の多目的ルームでの熱演だった

[14] 20世紀最大の演出家(1925−2022)。イギリス人だが若くして母国で名声を博した後、1970年にパリに拠点を移し、各国から俳優を集めた国際的な実験演劇グループCIRT(Centre International de Recherches Théâtrales、演劇探求の国際センター)を創設。同センターはその後1974年にCICT(Centre International de Créations Théâtrales、演劇創造の国際センター)と改名。一連のシェークスピア劇の舞台はもちろん、『鳥たちの会議』(1979)、『桜の園』(1981)、『カルメンの悲劇』(1983)、『マハーバーラタ』(1985)、『幸せな日々』(1995)、『手に手をとって』(2003)、『魔笛』(2011)、など、最晩年に至るまで歴史に残る名舞台を多数遺した。

イゾアルディが指導するサルッツォの刑務所の劇団は、毎年9月に新作を発表すると、そこで市民を招いて数回上演する(それで数百人が刑務所に入る)他、その後、年末までの2、3ヶ月の間に近隣の高校生を数クラスごと招待し、毎年総勢2,000人近い観客を動員する。これは、現代演劇の劇団ではとても及ばない数字である。その人数のしかも若い観客が大量に刑務所の壁を越えて中に入って来るということ自体が、刑務所をコミュニティに対して開くことになるし、舞台に立つ囚人たちにとって、それは、「まともな世界」の空気を吸えるかけがえのない瞬間でもあるのだ。

こうして長年囚人たちと膨大な時間を共にしてきたイゾアルディは、ラボに参加する囚人の中にいる父親たちが、壁の外にいる自分の子供との関係についていつも悩んでいることに気づいた。その日に家族が面会に来るのに、「今日息子が会いに来るんだけど、不安でしょうがない。何を言えばいいのか分らないんだ」とか、「子供には外国で仕事しているってことにしているから、ここには連れて来るなって女房には言ってるんだけど」などと言う「父親」たちに相談されることが多々あったのだ。みなどうやって親としてあればいいのか分らなかった。不安、恐れ、迷い、いずれもなかなか刑務所内では他人には見せない感情だが、みなイゾアルディのことを「偉大なお母さん」と敬愛していたようで、彼女に個人的な相談を持ちかける囚人は少なくなかった。

また、囚人たちの多くは、ろくな父親をもっていなかった。彼らの父親の多くは、ろくでなしか、(収監他の理由で)ほとんど家に帰って来なかったそうだが、今や自分たちが同じく「不在の父親」になっていた。イゾアルディは、2013年にはそのことを主題にした芝居『アムニ(行こうよ)』[15]の台本を書き、演出している。『アムニ(行こうよ)』は、父親が長年不在の家の十人兄弟の話で、今日こそ父親が帰って来るというので、兄弟一同、その父を迎えるために、みなめかしこみ、プレゼントを用意し、テーブルを設営して待っているのだが、なかなか帰って来ない。そのうち不安がって父の帰宅を疑う者が出て来るが、すぐに「パパは絶対に帰って来る。」と他の兄弟たちに諌められる。そしてみな時間つぶしに歌ったり、踊ったり、お芝居に興じたり、サッカー中継の応援に熱狂して時間を潰すのだが、結局父は帰って来ない。テーマと裏腹に思いっきり賑やかで明るい芝居なのだが、最後にモロッコ人の役者/囚人が一人前に出て、未だ帰って来ない父に向けて、つたないイタリア語で言う「昔みんなを海に連れて行ってくれるって約束したよね。今日はもう冗談じゃなくて、本当に行こうよ。本気だよ!アムニ(行こうよ)!」という短い台詞からは、そこまでで凝縮しきった感情が一気に迸るように流れ出して来て、観客はみな涙をこらえるのに精一杯だった[16]。

グラツィア・イゾアルディ率いる劇団ヴォーチ・エッランティの傑作舞台『アムニ(行こうよ)』(2013)

[15]「アムニ(amunì)」は、シチリア方言で「行こうよ!」の意味。
[16] 筆者はこの芝居を刑務所内ではなく、同じ県内の普通の劇場で観ているが、囚人を含むイゾアルディたちの劇団ヴォーチ・エッランティは、イタイアで唯一、警官の護送なしに刑務所外での芝居に出ることを許されている(もちろん、毎回所長の許可は必要)劇団だった。現在は、サルッツォ刑務所が重犯罪者の収監所になったため、現在の演劇ラボのメンバーは外へは出られない。

3.プロジェクト・リベランディア(自由の国プロジェクト)

この作品を準備する経験を通して囚人たちの親子関係(自分たちの父、そして自分たちの子供との関係)や子供たちの境遇をさらに深く知ったイゾアルディは、服役している父親を家で待つ子供たちのために何かしてやりたいと思うようになった。イタリアには現在親が収監されている子供が約10万人いる(ヨーロッパ全土で200万人、アメリカは170万人)が、親の収監が子供に及ぼす影響は多大で、子が親への信頼を失う他、Eurochips (European Committee for Children of Imprisoned Parents、現COPE(Children of Prisoners Europe)) 協会の報告によると、親が収監された子の30%が道を踏み外す傾向がある。特に子供たちにとって、親に会えなくなることが深刻で、捨てられたと思い込み、鬱になることが多く、学業に支障をきたし、反抗、怒り、絶望と言った感情に苛まれ、人を避けるようになる。たとえそれが刑務所での面会であっても、定期的に親と会えて、それなりの関係を維持することが出来ると、子供が学校で処分を受ける可能性が40%減るという。収監された親をもつ子供にとって、親との関係を持ち続けることが出来ることが、何よりも大きな救いになるのだ。

何れにしても、イタリアの場合(米もほぼ同じ)、親が収監されている子供の約3分の1は、親の不在理由について何も知らされず、他の3分の1は、不在の本当の理由を知らされず、残りの3分の1だけが真実を知らされている。しかし、「パパは外国(船上、山、等々)でお仕事」という嘘も長引くと子供の不安と苦悩を増し、親への信頼感を喪失させるだけである。とは言え、「父親が刑務所にいる」という事実をただそのままリアルに伝えればいいと言うものでもない。児童心理学者のマーゴット・サンダーランドが言うように、通常の言語は、そのような事実を伝えようとすると、きつすぎたり、反対に、つい遠巻きになり、核心を突けないことが多いが、童話などのフィクションは、比喩を通して、子供の心をリスペクトして 「安全な距離」を保ちながら真実を伝えることが出来るので、子供は困難な事実もより上手く消化することが出来る。

イタリアのミラノには、まさにこの理論そのままに、子供にとり精神的に困難な問題(家族内の喪、病、親の離婚、その他)をメタファーに溢れた童話絵本として作り、そのお話の力をもって子供がその問題を理解し、受け入れる助けになるような叢書を作っている児童出版社のカルトゥージア出版(Carthusia Edizioni)があり、同社も刑務所を扱った絵本『コーラの夢』(Il sogno di Cora)を2019年に刊行している[17]。

こうして、イゾアルディは、壁の中にいる父親たちが作者になって、家で父親の帰りを待つ子供たちに語りかけるべく童話の絵本を作るというプロジェクト(プロジェクト・リベランディア)を考案し、ある大手銀行の文化財団[18]の助成金を得て2019年9月にスタートすることになった[19]。当初は、囚人である父親の他に家族や子供たちも加わってのラボラトリーを企画していたが、ちょうどその時期に突然この刑務所が全面的に厳重警備の刑務所(マフィア系の重犯罪者ばかりの収監所)になってしまい、頻繁に家族に参加してもらうことが不可能になったため、同プロジェクトはスタッフと13人の「父親」たち(そのうち2、3人は終身刑を受けていた)で進められることになった。

筆者はプロジェクトの構想時点でイゾアルディに協力を要請され、一緒にクリエイティブ・ライティングのラボを担当することになった。これと同時に、心理学者二人(フランチェスカ・ヴァッラリーノ・ガンチャとモニカ・プラート)、人類学者一人(マルコ・ポッラローロ)からなるトリノのマムレ財団のチームが、「刑務所にいながら親であること」という主題を多様な角度から扱うグループ・カウンセリングを行った。この二つのラボは並行して進められ、それぞれのスタッフは他方のラボにもしばしば顔を出していたが、互いの経験を共有するこの形式は最終的に非常に有益な成果をもたらすことになった。


[17] 『おやすみなさいの森』を製作するにあたって、明らかにカルトゥージア社の本の作り方は参考になった。
[18] Fondazione Compagnia di San Paolo.
[19] スタッフは、責任者のグラツィア・イゾアルディの他、トリノのマムレ財団の三人、イラストレーターのフランチェスカ・レイネーロ、スクリットゥーラプーラ出版、サルッツォの刑務所付きの二人のエデュケーター、研修生の大学生一人、そして筆者。

はじめはゲームから

どちらのラボでもまず参加者と我々の間の見えない障壁を取り払い、また参加者同士の関係も和ませるために[20]、ゲームから入ることにした。マムレ財団チームのカウンセリングもすぐに真剣なテーマに向き合うのではなく、様々なゲームをしながら「父親」たちは、徐々に自らを開いて行った。我々のクリエイティブ・ライティングのラボでも、(何人かは既になかなかの作家だったが)文章を書くのに慣れていない者もいたので、すぐには文章を書かせず、言葉遊びや空間を使った遊びがしばらく続いたが、それらが良いウォーミングアップになった。

例えば、一番最初にやったのは、箱やペン、絵筆、紙、お菓子、帽子、その他のオブジェを使って、「子供と会うのに理想的なシチュエーション」を作り、それが出来たら、他の参加者の前で何を作ろうとしたかを説明するというものだった。各自が子供にあげたいプレゼントやお菓子、その他を用意するのだが、ピクニックの場を用意する人もいたし、家族で過ごした思い出の場面を再現する人も、またそこまでファンタジーが至らず刑務所での面会の場面を作る人もいた。このゲームは各自の想像力を刺激するとともに、特にそれぞれの「父親」が自分の子供たちとどのような関係を持っているのかを知るのにも非常に有効だった。特に、普段刑務所の中で弱みを見せまいと自分のことはひた隠しにして生きている彼らにとって、他の囚人の前で初めてその重い鎧を脱いで胸襟を開いた稀有な瞬間でもあった。こうして刑務所という荒海に散らばった「孤島」であった父親たちが、次第につながりをもつ一つの「列島」になり始めた。


[20] 各人が刑務所内の異なるセクションに収容されているため、参加者たちの間でもラボで初めて会う人も少なくなかった。

クリエイティブ・ライティングのラボの風景

このゲームで強く印象に残っているのは、その頃息子との関係がひどく悪化していた一人の「父親」が、とても辛くてこのゲームは出来ないと言って辞退したことだった。しかし、仲間たちが楽しそうに自分の作ったシチュエーションを解説するのを聞くに連れて、何かメモを取り出し、全員が終わった後に手を挙げて、そのリストを読ませて欲しいと願い出た。それは、自転車に乗るとか、チェスを教えるなど、息子と一緒にしたいことのリストで、彼はそれを読み切るとともに泣き崩れた。普段囚人の誰もが決して弱みを見せないように振る舞っている刑務所内では、全く異例のことだったが、我々のラボで泣いたのは、彼が最後ではなかった。この「父親」の涙とその後の参加者たちの心の開き方は、彼らがリベランディアのラボを偏見なく向きあってもらえる場所として認識してくれた証拠であった。

その後も、このグループの13人(繰り返すが、2、3人の終身刑者を含む重犯罪人だけのグループである)には本当に良い意味で驚かされ続けた。いつも時間前にはラボの会場だった「多目的ルーム」の前で待っている人が2、3人いたし、課題には真剣に取り組むし、何より、嘘の達人であるはずの彼ら全員が自分の心を曝け出して真摯に話してくれる度に、何か尊い授かり物を受け取るような気持ちがするばかりで、彼らが「犯罪者」であることを忘れていた。一般社会においてもあまりないことだ。特に刑務所では、誰かと打ち解けて話せる機会は本当に稀少だから、彼らが心情を吐露することに飢えていたのかもしれないが、それは、何よりも、我々への大きな信頼感の証である。こうした彼らの告白に、我々の方もしばしば同様に心を開いて話をして応えていた。特に一度イゾアルディが自分の家族との非常に辛かった思い出をとうとうと語った時には、13人の目が潤んでいた。そして、その後彼らの態度がはっきり変わった。「この人たち本気で俺たちと向き合ってくれている」という認識をもってくれたようだった。刑務所での文化活動では、まずこのレベルでの信頼感を得ることが必須である。その意味では刑務所での演劇活動の大ベテランで、囚人たちに対してカリスマ性を放つイゾアルディに付き添われていた我々は恵まれていた。マムレ財団チームも含め、個々のプロフェッショナリティは疑いのないところだったが、イゾアルディの存在感なしにこのプロジェクトは成立しなかっただろう。

文章を書く

こうして何度目かのラボでようやく文章を書き始めたが、その最初にやったのが、大量の写真や雑誌の切り抜きのなかから各自一枚図像を選び、実際に自分が経験したものでも空想でもいいので、ある「旅」の物語を書くと言うエクササイズであった。その際に、1.どこに行くか、2.誰と行くか、3.どんな困難に遭遇するか、4.どんな美しさを発見するか、そして、5.どう終わるか、という五つの条件だけは満たしてもらい、あとは自由に書いてもらった。このエクササイズは、彼らの想像(創造)力をかなり刺激したようで、最終的な童話にも多くの興味深いメタファーやイメージを提供することになった。『おやすみなさいの森』の物語の動力を生む「蝶」や「仮面」という比喩もこのエクササイズで登場した。

参加者はこちらの用意した多数の図像から一枚を選び、そこから旅の文章を書いた

「蝶」は、ある父親が書いた、ハンググライダーに乗って空に飛び立つ男の話「雲間を抜けて」に出て来た。まさに収監された人間が自由を渇望する夢その物のような素晴らしい短編で、空から大地の美しさに息を呑みながら飛行する男のハンググライダーの支柱に、ある瞬間に音もなく色彩鮮やかな「蝶」が留るのだ。彼の物語の中で「蝶」の意味はそれ以上に展開されることはなく、作者自身もそこまで意識があったかどうか確認できていないが、西洋では、「蝶」とは転生、再生、変身、希望、そして勇気などの象徴であり[21]、囚人が書く物語の要素としては、極めて興味深いものだった。『おやすみなさいの森』の中でも、台詞こそないが、「蝶」はことあるごとに姿を現し、主人公たちにずっと付き添い導くガイド役になった。

「仮面」は、あるアフリカ人の父親の書いたごく短い物語「仮面」の冒頭のフレーズに出てきた。彼は、外国人の移民で、イタリア語がそう得意ではないのだが、印象的なメタファーを見いだす傑出した才能があった。民俗の仮面の写真を選んだ彼の短いテクストはこう始まる。「わたしは一生、ずっと仮面を被って生きて来ました。」また、口頭で自分の文を解説した時には、「自分の人生はずっと仮面でした」とも言った。これは、メタファーを通しながらの驚くほど誠実な告白だった。つまり、「わたしは一生嘘をついて生きて来ました。家族にも娘にも……」と言っていたのだ。これは、犯罪経験のある他の参加者たち全員の心にもぐさりと刺さるもので、グラツィアと筆者は、その場でこのメタファーを絵本に入れることを決めた。その当時、彼はまだ、他の多くの囚人同様、幼い娘に自分が刑務所にいることを告げておらず、娘が刑務所に来た時も、彼女にとって、そこはお父さんの「仕事場」だったが、帰りにパパも一緒に帰れないと知った娘は「これは悪い仕事よ!」と怒ったと言う。彼は「白い嘘」[22]の支持者だったが、ラボの間に考えを改め、その後間もなく出所すると娘に自分のして来たことを告白した。

こうして、エクササイズをする度に、またマムレ財団チームのカウンセリングの際に飛び出す様々な発言から、印象深いメタファーやイメージが溜まっていったが、それらにはみなある特徴があった。いずれも知的に操作されたたものではなく、すべて彼らの生の中に深々と根を降ろしたメタファーで、どれもが経験と真実に裏打ちされた厚みを持っていた。


[21] 近代以降の精神分析においても同じような象徴として解釈されているが、蝶は各国の文化ごとに異なる意味を象徴しており、例えば、古代ギリシャ、ローマにおいては、魂の象徴とされていたし、日本の南方にある奄美大島では、蝶は死者(先祖)の化身、霊魂の象徴で、生者を守り、魔力を打ち払う力があるとされている。
[22] 人を傷つけないために言う、良心からつかれる嘘を彼らは「白い嘘」と呼んでおり、我々は、ある時点までこの言葉を主題にして童話を書こうかとも考えていたほど、「刑務所内にいながら親であること」の核心を突く言葉の一つだった。

参加者たちがそれぞれ一枚の写真にインスピレーションされて書いた「旅」のテクスト
ある時点で、みんなの印象に残っているキーワードを書き出してみた。これらのほとんどが絵本に残ったが、この時点でまだ「森」(BOSCO)と言う言葉は出てきていなかった

だが、それぞれ、異なる参加者が異なる文脈のなかで書いたり発言した言葉だったので、それらを果たしてどうやったら一つの物語にまとめられるのか、しばらく我々も先が見えないまま、ただ印象に残った言葉をリスト化しながら暗中模索していた。そして、ある日、スタッフと参加者が全員サークルになって座り、一人一人がワンフレーズずつ語り、次の人が即興でそれにつないで、みんなで物語にして行くというエクササイズをしていた時に、誰かが言った「森」という言葉のもとに、すうっと他の言葉が集まり始めた。ただ、始め、我々は「森」を生命力に溢れ、野生でアナーキーな、反制度的、反監獄的な場所とみなしていたのだが、それでは、物語になりきれなかった。その時期にグラツィアから頼まれて、そこまでに蒐集した言葉やイメージを一旦一つの物語に収斂させてみるという作業に掛かった筆者は、ある時点でこの「森」を刑務所の比喩としてみてはどうかと考えた。すると、すべての要素が面白いように一つの筋の中におさまり始めた。確かに苦難の道程としての暗い森は、ダンテやグリムが教えるように文学の伝統でもあった。その後、この下書きは繰り返し参加者による加筆修正を受け、最後に脚韻を付けて子供もリズムよく読めるようにして物語が完成した。物語を概説するとこうなる。

素晴らしい市の出る大きな町があり、一番人気はお面屋さんだった。世界中の多様なお面が全て揃っていたが、裏では、目には見えないが、被ると何でも手に入る神通力のあるお面もこっそり売ってくれる。欲に負けた男(父親)たちはこぞってこの仮面を買うのだが、そのお代として心の半分を渡す必要があった。金も権力も欲しいままにする彼らだったが、やがて道を見失い、深く真っ暗な森、「おやすみなさいの森」[23]に辿り着く。そこではすべてがあべこべで、時間は宙づり。ただ一つあった掟は「自分に出来ることをしてはいけない。」というものだった。途方に暮れた男たちはこの森を忘れようとお話を作ってはそれを夢に見る。ニーノ[24]が夢見るのは、自分の子供たちが野原で蝶々を追いかける姿だった。そのニーノの肩にある日大きな蝶が飛んで来て留る。突然子供のことを思い出したニーノの目からは止めどもなく涙が流れ出し、見えないお面が溶けて流れ去る。この時はじめて、ニーノは森が美しく色彩に溢れた場所であったことに気づく。彼に誘われて仲間たちも森の奥から差して来る美しい光の方に向かうと、そこには大きな古箪笥があった。七つの引き出しの六つからは、笑顔や嬉し涙、夢や家族の思いやり、たっぷりな時間など彼らの渇望していたものが出て来るが、最後の引き出しだけはどうしても開かない。そこで、ニーノが蝶に助けを求めると、蝶は羽ばたき、空中に「隠して来た言葉を/君が口にすれば/閉じられた引き出しが開いて/失くした心の半分を/取り戻せるだろう。」と言う文字が浮き上がる。彼らがその言葉に従うと、最後の引き出しが開き、そこには彼らが失くした心の半分が入っていた。心を取り戻した父親たちは、ようやく家路を見いだすことが出来た。

この物語には一度も「囚人」や「刑務所」と言う言葉は出てこない。だから製作背景を知らない人が読めば、全く異なる解釈も可能であるように出来ているが、刑務所の環境をよく知る人が読むとピンと来る言葉が各頁に多々織り込まれている。

いずれにしても、終身刑を含めた重犯罪のかどで収監された13人の「父親」たちが、子供に自分たちの境遇を理解してもらうための童話を書いたのである。それだけでも素晴らしいことではないだろうか。


[23] この名前は実は南イタリアのカラブリアにある実在の森の名からとられた。参加者の一人が二年ほど潜伏していた森の名前だった。
[24] 一人の参加者の亡くなった弟の名前。彼が運転していた車が事故を起こし、同乗していた弟が亡くなった。こんな個人的で悲しい思い出を共有してくれたことへの感謝の意を込めて、我々はニーノと言う名を主人公の名に選んだ。

素敵な市でも特に人気なのは、世界中のお面を売っているお面屋さん
でも裏ではこっそり神通力のつく見えないお面を売ってくれる
でもこのお面を手に入れようと思うと、心の半分をお代として払わないとならない
そしてとうとう、道を見失った男たちが辿りついた先は、真っ暗な深い森。小さな真四角の空しか見えなかった。(四角い空というのは、典型的な刑務所の比喩)その森の名は「おやすみなさいの森」
夢にも出て来る蝶はこの物語の人物たちの導き手
魔法の箪笥。これもある参加者の書いた「微笑みで一杯の引き出し」と言う言葉から生まれた
最後に救ってくれるのも蝶。蝶が羽ばたくと空中に「隠して来た言葉を/君が口にすれば/閉じられた引き出しが開いて/失くした心の半分を/取り戻せるだろう。」という文字が浮き上がる
その後、「父親」たちが、ずっと黙っていた思いを子供たちにむけて次々と告白するシーンがこの物語のクライマックス。
メタファーの天才であるアフリカ人のパパも、出所後、絵本の主人公たちと同じく、ずっと娘に言わなかった真実(刑務所にいたこと)を語った

比喩が技術に織り込まれたイラスト

プロのイラストレーターであるフランチェスカ・レイネーロによる挿絵は、この絵本にとって非常に大きな役割を持っているが、挿絵の美しさ以上に彼女の作業の興味深いところは、今回の挿絵を製作する際に彼女が使った画法、道具、素材の一つ一つが、このプロジェクト自体の意味と囚人たちの経験を比喩的に反映する形で選択されていた所にあった。その工程自体に文学的比喩が幾重にも織り込まれていたのである。

刑務所演劇のフェスティバル「交わる宿命」で行われた講演(2021年11月20日)で『おやすみなさいの森』の挿絵の作業について語るフランチェスカ・レイネーロ

まず、このイラストは、リノリウム板を彫って作るリノカットという手法で作られている。「彫る」作業は、彫刻刀やナイフ、鑿など、凶器にもなりうる「刃物」を使って、素材であるリノリウムに「傷跡」を遺して行く訳だが、この「傷跡」を刷って裏返すと詩的なイメージが生まれる版画の工程は、「加害行為」と「再生」を含み、まさに犯罪者が詩的な行為を通して更正して行く我々のラボのプロセス自体の比喩となっている。そして、原版を「彫る」作業は、「掘り下げる」作業[25]とも言え、それはまさに童話を書いた「父親」たちが自分たちの心に対して行った作業である。また、彫ると原版に欠損部分を作るわけだが、欠けた部分、即ち「不在」も、我々のラボの「父親」たちにとって、家庭における彼らの不在、そして彼らの監獄生活における家族と子供の不在を示唆する重要な比喩だ。さらにはこの画法の特徴の一つである「(色彩の)ニュアンスの不在」は、優しさや思いやりのない、成か否、内か外、という非情な世界である刑務所を想起させる比喩でもある。そして、紙に刷る時には、当然だが、原版上の図柄がちょうど鏡映しに反転して紙に映る(移る)訳だが、イタリア語では、「自らの姿を鏡に映す」と言う表現が「自らのことをしっかり見直す」と言う意味も持つので、これも囚人の境遇と深く共鳴する比喩となる。さらに、版画を刷る際に彼女は和紙を使うのだが、手漉きの和紙は工業製品である目の揃った紙と違い、一見不揃いであるが、この不完全さを受け入れていくという創造行為自体に、囚人とともに製作する絵本作りの態度が集約されている。このように、レイネーロの挿絵は、その最終的な作品の魅力とともに、作業の技術的な選択の一つ一つの中に、このプロジェクトの意義や姿勢が比喩的に何重にも織り込められているという意味で、プロジェクト・リベランディア全体を体現していたと言えるだろう。


[25] レイネーロが自分の仕事を解説する中で使ったイタリア語の“scavare” と言う動詞には、日本語同様、物理的に「彫る」のと精神的に「掘り下げる」のと両方の意味がある。

リノカットに使う道具はみな凶器にもなる危険な刃物
その刃物で、文字通り原版に「傷跡」を付けて行く
インクは「傷跡」を避けるように彫り残された部分に乗り、それを刷って裏返すと詩的なイメージが生まれる。この「加害」から「再生」へという転換とともに、この「鏡映しになる」工程自体が自分を見直す作業の象徴
彼女は囚人たちの書いた童話を描くのに、質の不揃いな和紙を使い、不完全さを受け入れる態度の比喩を込めた

リオーネ・サニタ(ナポリのサニタ地区)の中学校の教材になる

こうして出来上がった書籍は、2020年9月にスクリットゥーラ・プーラ出版から刊行されたが、ちょうどパンデミックがぶり返し、イタリアでは集客どころか州を越えての移動も制限され、なかなかプレゼン活動もままならなかった。だが翌年の3月にイタリアの児童文学界では最も権威のある雑誌「アンデルセン」に『おやすみなさいの森』の書評が出た。それを読んだ児童演劇教育の専門家(サルヴァトーレ・グアダニョーロ)の提案により、ナポリの中心街から近いにも拘らず、19世紀に作られた橋のせいで都市のコンテクストから切離されて孤立し[26]、経済的貧困度とともに、特に文化的な貧困度が凄まじく、就学率もやっと50%に届くかというリオーネ・サニタ(サニタ地区)のある中学校[27]の一つのクラス(二年生、イタリアでは12歳)が、『おやすみなさいの森』を教材として取り上げることになった。2021年9月のことである。この地域では、親が収監されている子供が多い上、生憎、子供たち自身の多くも、やがて父親たちの後を継いで刑務所という暗い森を知ることになる。このことを学童たちと直接話題にすることは難しいので、童話の絵本の力を借りて、「安全な距離」をとりつつ刑務所の中にいる父親のことを考えようというのがグアダニョーロの意図だったが、情熱的なベテラン教員(イーダ・コミタ)と学童の演劇教育を行う若く優秀な演劇オペレーター(ペッペ・コッポラ)による実際の授業は、グアダニョーロの想定した本書導入の効果をはるかに超えた成果をあげることになる。


[26] ここで紹介する中学校教員のイーダ・コミタは、サニタ地区の住民は、この隔離されたような地区からナポリ市の他の地区へ出ることもなく、まさにサニタという監獄に入っているような状態で、外の世界に対してあまりにも無知、無関心であると証言する。
[27] Scuola secondaria di primo grado Istituto Comprensivo “Russo Montale”.

児童文学の雑誌「アンデルセン」の表紙。『おやすみなさいの森』の書評が載った2021年3月号
サニタ地区は、活気はあるが、確かに貧困層の多い地区で、建造物もかなり傷んでいる
その老朽ぶりを癒すように、サニタ地区には素晴らしい壁画が沢山描かれている
サニタ地区の建物の壁画

就学率が50%という話をしたが、この地域では、学童が学校に来て学習をすること自体が当たり前ではなく、大抵の場合、モチベーションも低く興味すら示さない子ばかりであった。ところが、近年(課外活動としてではなく)学習プログラムの通常の授業の部分に演劇パートを取り込むことで、彼らの態度に大きな変化が現れたという。その時からコンビを組む二人(コミタとコッポラ)は、この絵本が刑務所で生まれたことはすぐには明かさず[28]、それをまるで文学の教材のように扱い、童話と挿絵を構成する諸要素(絵本に使われている色彩やいくつかの言葉など)について子供たちが思索をめぐらせ、掘り下げるための課題と素材を与えて行った。例えば「森」という場所を自分なりの言葉で表現させる。さらに、ある子が森を「迷う場所」と表現したことから、「迷う場所としての森」と言えるものとして他になにがあるかをみんなで考えた。当然、そこで「都市(町)」という言葉も出てくる。そこで迷う場所としての都市という「森」を描写する言葉をみんなで書き出してみた。そうした作業を、子供たちは、フランスのプロヴァンス地方で中世に流行ったプラゼル(plazer)という文学形式[29]にのせて表現したり、新聞や雑誌の切り抜き(言葉と図像)を使ってコラージュしたヴィジュアルなポエジーとして表現したりした。

こうした作業の最大の成果は、そこで生まれた作品以上に、その時間を彼らがどうやって過ごしたかに関係していた。通常は好奇心も薄く、やる気の全く見えなかった子供たちが、この授業の時は全員、毎回二時間、お喋りもせず、喧嘩どころか互いに助け合いながら、集中してやり続けてくれたそうだが、これは、子供たち自身にとって、極めて大きな自信となる時間だった。何かを試みて、そこで何がしかを達成することほど、子供たちの自信を育むものはない。


[28] 学期が始まって3ヶ月後の2021年12月13日に筆者が同中学校を訪れ、『おやすみなさいの森』がサルッツォの刑務所で生まれた経緯を伝えた。
[29] フランス中世(13、14世紀)のプロヴァンスに普及した叙情的な文学形式(詩法)で、心地よいシチュエーションや欲しいものを列挙して行くというもの。時には、反対に不安や憂鬱の対象を列挙するenueg という詩法をコントラストとして混ぜることもあった。

フェスティバル「交わる宿命」での講演(2021年11月20日)で子供たちの作ったヴィジュアルな詩を説明するコッポラ
『おやすみなさいの森』で印象に残った部分を自分なりに一枚の紙にまとめるという課題に対するある学童の作業成果。欲のままに心の半分を売り渡してしまう人間がいることにかなりショックを受けたようだ。(左上)

いきなり絵本を読むのではなく、絵本を構成する要素を一つ一つ思索と実践作業の対象にしていくこの方法を体験した子たちが、今一度絵本に戻ってそれを読む時、彼らの理解力は、通常よりもはるかに深く、また幅の広い根をこの絵本の彼方に広がる人間と言う大地に張り巡らしていた。この絵本が刑務所で生まれたこと、「森」が刑務所のメタファーであることなどを最初に伝えずに読み始めたために、彼らの解釈は「監獄」の中に閉じ込められることなく自由に羽ばたき、深く暗い「おやすみなさいの森」は、彼ら自身の不安や恐れと直接関わる森として彼らの想像力の中に無数の樹木を生やし、そこに生きる動植物のように無数の言葉がそこに棲み始めていた。コミタとコッポラとともに、中学生たちは、「おやすみなさいの森」を架空の場所として楽しむとともに、自分たちにとり具体的で「生きた」場所にとして感じ始めていたのである。

自分を演じる舞台

こうして、ある意味で「絵本を自分たちのものに」した後、子供たちは、コッポラの指導の下に絵本の舞台化に取りかかった。そして2022年の3月21日、ナポリ市の西部フオリグロッタ地区にある子供専用の劇場、テアトロ・デイ・ピッコリ劇場[30](小さい子たちの劇場)で初舞台となった。そこで行われた教員向けの連続講座のその日の主題として、我々(多木とイゾアルディ)が『おやすみなさいの森』の絵本の誕生の経緯を語り、グアダニョーロとコッポラによるこの中学校における授業と演劇ラボの短い紹介のあと、子供たちの舞台は始まった。

彼らの多くにとっては、初めての演技体験でもあり、しっかり台詞を覚えて喋ること自体が自分への挑戦でもあったが、舞台の上で彼らが演じる『おやすみなさいの森』の台詞は、明らかに彼ら自身の境遇にも重なって聴こえて来た。それは、彼らの中の何人かの父親の話でもあり、また彼ら自身の現在(サニタ地区という檻に捕まっている彼ら)であり、また将来の彼らの何人かが辿りうる運命の可能性でもあったが、同時に明るい未来の可能性をも感じさせる非常にポエティックな舞台になっていた。


[30] この劇場の原案(1939年)は、元々イタリアで初めての子供専用の劇場を作ることであったが、戦下で実現が叶わなかったのを1950年代にようやく実現に至るも、1970年代に再び閉鎖の憂き目を見る。その後2008年に再建され、現在に至る。

中学生による『おやすみなさいの森』の舞台。2022年3月21日、於テアトロ・デイ・ピッコリ劇場(ナポリ)
中学生による『おやすみなさいの森』の舞台

未来のために

現代の資本主義社会を見えない監獄と化している「生権力」のテクノロジーは、今や膨大な数の疎外者を社会の周縁にはじき出しているが、現行の監獄システムは、犯罪に走るその多くをタブー(不可視)化するために存在すると言ってもいい。日本ではまず話題にされないが、イタリアを含め、世界には、この資本主義の最底辺を修正すべく日々闘っている人たちがいる。絵本『おやすみなさいの森』はまさにそうしたコンテクストから生まれて来た童話であり、「生権力」の見えない壁を破ろうとするこの童話が、南イタリアの都市の就学率も最悪の貧窮地域の中学校でやる気のない子供たちの創造力に火をつけた。監獄で文化芸術的なプログラムを展開する人たちも、貧窮地の中学校で情熱を捧げて教育にあたる教員もメディアに注目されることなどまずない控えめな黒子のような存在だが、明確な世界観の下、誰にも見えないところで、人間や環境を苛むシステムと闘うことにこそ真の創造力が要求されるのであり、大きな意義がある。まして、ブルーノ・ムナーリの言葉を待つまでもなく、子供とは、我々の社会の未来である。どんな状況にある子供にも未来を切り開く可能性を与えずに、人類の未来はあり得ないのである。

昨年後半から『おやすみなさいの森』の刑務所における製作の経緯、そしてナポリの中学校における同書を使っての教育の実践について語る機会を何度も得たが、世界の最底辺にいる人たちの書いた言葉には、どこか現代の人々の心を動かすものがあるようだ。この写真は、世界的な児童書のフェアである、Bologna Children’s Book Fair 期間中の2022年3月23日、ボローニャの児童専用の劇場、テストーニ劇場にて、筆者とコミタ、コッポラの三名が『おやすみなさいの森』を巡る話をしているところだが、この後もドモドッソラの演劇教育フェスティバルに招聘されるなど、この本を利用した教育の実践例が一つのモデルとして、他の各地からも求められるようになってきた
多木陽介氏

多木陽介:批評家/アーティスト
1988年に渡伊、現在ローマ在住。演劇活動や写真を中心とした展覧会を各地で催す経験を経て、現在は多様な次元の環境(自然環境、社会環境、精神環境)においてエコロジーを進める人々を扱った研究(「優しき生の耕人たち」)を展開。芸術活動、文化的主題の展覧会のキュレーション及びデザイン、また講演、そして執筆と、多様な方法で、生命をすべての中心においた、人間の活動の哲学を探究。著書に『アキッレ・カスティリオーニ:自由の探求としてのデザイン』、『(不)可視の監獄:サミュエル・ベケットの芸術と歴史』、翻訳書にマルコ・ベルポリーティ著『カルヴィーノの眼』、プリーモ・レーヴィ著『プリーモ・レーヴィは語る』(ともに青土社)、アンドレア・ボッコ+ジャンフランコ・カヴァリア著『石造りのように柔軟な』(鹿島出版会)等がある。

企画・構成:紫牟田伸子 (Future Research Institute)