2022年5月20日/執筆:森 一貴 (フィンランド・エスポー市在住)
アアルト大学 出典元:virtual campus tour – Aalto University
フィンランドにある「ヨーロッパのイノベーション首都」エスポー市に位置するアアルト大学。年に100社のスタートアップが誕生するその場所には、多様なアクターが支え合う、イノベーションのエコシステムが育まれている。
本記事では、現地アアルト大学でまなぶ大学院生としての実感を交えながら、大学や学生、政府などが参画しあいながら育まれる、地域のイノベーションエコシステムについてレポートする。
イノベーションの苗床、アアルト大学
アアルト大学は、ヘルシンキ市に隣接するエスポー市に位置する、フィンランドを代表する大学のひとつだ。フィンランドの3つの大学、ヘルシンキ工科大学・ヘルシンキ経済大学・ヘルシンキ美術大学が合併して2010年に生まれた大学で、生徒数は約20,000人。特にデザイン&アートの領域で知られ、この分野では世界第6位である。(QS Quacquarelli Symonds, n.d.)。
アアルト大学のキャンパス 筆者:撮影
現在、私はアアルト大学のCollaborative and Industrial Design(CoID)という修士プログラムでデザインを専攻しているが、キャンパスに暮らしていると、イノベーション、アントレプレナー、スタートアップ、といったワードをやたらと目にすることに気づく。
例えば、道を歩けば「Startup Sauna」や「Startup Center」などの建物を見かけるし、壁には起業プログラムの募集ポスターがずらっと並ぶ。友人との会話もこんな調子だ。
「最近仕事が忙しくてさ〜!」 「へえ、どこで働いてるの?」 「スタートアップ始めた先輩に誘われて…」。
壁に貼られた、AVP(Aalto Ventures Programme)の募集ポスター 撮影:筆者
事実、少し調べただけでも、次のようなことがすぐわかる。
・エスポー市は「ヨーロッパで最もイノベーティブな都市」のひとつ(Espoo, 2021) ・アアルト大学のエコシステム内だけで、毎年およそ100社の企業が設立されている(Aalto University, 2021) ・25歳以下のフィンランド人の1/5が「3年以内に会社をはじめよう」と考えている(Turula, 2019)
明らかに、アアルト大学ではイノベーションを生み出すエコシステムが機能している。一体このエコシステムはどのように生まれ、その中で誰がどのように振る舞い、ここから何が生み出されているのだろうか?
エコシステムのなかに育まれたスタートアップたち
そもそも、フィンランドのスタートアップと聞いても、なかなかイメージが湧きにくいかもしれない。そこで、まずアアルト大学のエコシステムから生まれた3つのスタートアップとそのエコシステムとの関わりを紹介したい。
Wolt
フードデリバリーサービス「Wolt」 出典元:Wolt
「Wolt」は2014年に創業した、世界20ヶ国以上に展開するフードデリバリーサービスだ。日本でも広くサービス展開をしているので、使ったことがある人もいるかもしれない。その創業者Miki Kuusiは、フィンランドで開催される世界最大級のスタートアップの祭典「SLUSH」の創設メンバーとしてよく知られている。彼はSLUSH創設当時、アアルト大学の学生だった。現在に至るまでもSLUSHは学生たちを中心に運営され、例年2,000人以上の学生スタッフが集う(Kaufmann, 2018)。
Catchbox
投げられるマイク「Catchbox」 出典元:Catchbox
Catchboxは、世界初の「投げられるマイク」を開発するスタートアップ。創業のきっかけになったのは、授業の講義で質疑応答などをする際、“マイクを運ぶのがめんどくさい”という素朴な実感だった。創設メンバーのPyryTaanila 、Timo Kauppila 、Mikelis Studersは、アアルト大学にあるイノベーションハブ・Design Factoryの「キッチン」で偶然出会ったという(Niemelä, n.d.)。
Aalto Design Factory 撮影:筆者
HAVU Cosmetics
生分解性の化粧品を提供する「HAVU Cosmetics」。 その内容は小林香織さんが日本語でも記事にまとめている 出典元:Lily
HAVU Cosmeticsは、フィンランドの針葉樹などを原料とする、100%生分解性の化粧品を開発するスタートアップだ。
創業者のLumi Maunuvaaraは高校時代からアイディアを温めていたというが、その起業のきっかけになったのが、大学のプログラム「CHEMARTS」だ。CHEMARTSは、化学系(CHEM)とデザイン系(ARTS)の学生が集い素材の新たな使い道を探るプログラムで、学内でも人気の授業のひとつだ。
これらの事例を見るだけでも、イノベーションが、アアルト大学のエコシステム内の「プロジェクト」や「空間」あるいは「授業」などといった、さまざまな場を通じて育まれてきたことがわかるだろう。
イノベーションを育むステークホルダー
このようなアアルト大学のイノベーティブなエコシステムを構成する学生、大学、市、政府、企業らに焦点を当て、それぞれが一体どのような役割を担ってきたのかを見てみたい。
まずは地図をもとに、おおまかにアアルト大学のキャンパスの位置関係を確認しておこう。
アアルト大学キャンパスとその周辺(virtual campus tour – Aalto University をもとに筆者作成)
アアルト大学のキャンパスは、オタニエミと呼ばれる半島に広がる。私たちデザイン系の大学院生が主に学ぶ「Väre」と学部生が集う「Undergraduate Center」の2棟は駅のすぐそばにあり、駅から徒歩10分圏内に、先に述べたDesign Factorをはじめとした複数のスペースが点在している。それをとりまくように、国内外の企業がオフィスを構えている。
大学が育むスタートアップの文化
まずは大学に焦点をあてて見てみよう。実はアアルト大学はそもそも、「一流の研究・芸術・教育を通じて、フィンランドのイノベーション能力を強化するという国家的使命」(Aalto University, 2018, p.2)を背負って設立された大学だ。このようなイノベーションに向けた意志は、学科や授業、空間や機能に広くあらわれている。
おもしろいのは、学科構成がジョイント型で構成されていることだ。例えばIDBM(International Design Business Management 国際デザインビジネスマネジメント)という修士プログラムには、デザイン系・ビジネス系・テクノロジー系の学生が入学できる。異なる専門性を持ち寄り、その共創を通じてイノベーションを起こしていくことが目指されているのだ。
そのIDBMの代表的な授業が「Industry Project」だ。ここでは学生チームが約7ヶ月間にわたり実際のクライアントとタッグを組み、課題解決や製品開発に取り組む。クライアント側にはUNICEFやNOKIA、ヘルシンキ市、日本からもトヨタなど、錚々たる企業が顔を連ねる(IDBM )。
IDBMに所属するある友人はIndustry Projectの一環として、 現在シンガポールへ滞在しているという。 タイガービールの写真が送られてきた 出典元:Aalto University
上記以外にも、学際性を持つ授業は数多い。すでに述べたCHEMARTSに加え、例えばPdP(Product Development Project 製品開発プロジェクト)と呼ばれるコースも同様に、デザイン・テクノロジー・ビジネスの学生が集い、実際に製品開発を行なう人気授業だ。
CHEMARTSのプレコースのような授業。 参加した友人は採取した樹の樹皮を用いたフェイスパックを開発した 撮影:筆者
アアルト大学はイノベーションを誘発するためのコーディネーターのような役割を担い、異なる専門性を持つ学生や企業、行政などが、出会い、絡まりあい、アイディアを生み出す仕組みを、丁寧に構築してきたといえる。
アアルト大学では、イノベーション、アントレプレナーシップ、リーダーシップ等にまつわる授業も数多く提供されている。例えばすべての大学院生は副専攻として「AVP(Aalto Ventures Programme)」というプログラムを選択でき、授業を通じてファイナンスやマーケティングを学べる。
さらに、アアルト大学にはイノベーションを支える数々の施設が用意されている。例えば、Design Factory、A Grid、Aalto Startup Center、Aalto Fab Lab、Urban Millなどである。
Aalto Design Factoryの様子 撮影:筆者
「Design Factory」には年におよそ1,500人の学生が出入りするという。ここはNC旋盤や3Dプリンタなどの機械を備えた学内のイノベーションラボである(Reichert, 2019)。特に製品開発のハブとして、学内のイノベーションを支える場所であり、同時に、昆虫食を推進するENTOCUBEや、先に紹介した“投げられるマイク”Catchboxなど、いくつかのスタートアップの拠点でもある。安価に使えるワークスペースであることはもちろんのこと、製品開発および開発サポートを享受できる重要な施設である。
というのも、ここにはスタッフをはじめ、スペースを利用する学生や教授、スタートアップのメンバーなどが常に往来しているのだ。「スペースは24時間365日開いています。会話したり、プロジェクトに参加したりするハードルは低いはずです。私たちのルールのひとつは、“見知らぬ人がいれば話しかけよう”、というものですから」(Reichert, 2019, p.25)。
このコミュニティ的な空気感が、例えば、Catchbox創業メンバーのような「キッチンでの出会い」をもたらしている。
(上の2画像とも)「A Grid」の様子 出典元:virtual campus tour – Aalto University )
アアルト大学が提供するなかでもイノベーションエコシステムの最大の拠点となる施設が「A Grid」である。ここはイベントスペース、コワーキングスペースおよびプライベートオフィスを備え、150のスタートアップが拠点を構える。
さらにアクセラレータープログラムやメンタリング、投資家の紹介など、手厚いサポートも提供されている。興味深いのは、これらの機能の多くが学外に対しても開かれていて、誰もが使える場となっていることだ。
このように、アアルト大学は学科や授業を通じて出会いやプロトタイピングの機会を生み出している。そこから生まれたアイディアは、学内のさまざまな施設や設備を用いて実際にプロトタイプとして実装される。さらにメンタリングやアクセラレータ、資金調達の支援までもが提供され、雛が自身で飛び立ってゆくまでを、手厚くサポートする体制が整えられているのだ。
Startup Saunaと学生たちの実践
一方、学生たちも自ら活動を起こし自発的に展開している。学生たちの重要な拠点となっているのが、Design Factoryの目の前にある「Startup Sauna」だ。
「Startup Sauna」 撮影:筆者
現在Startup Saunaは、大学の予算を元手にコワーキングスペースとして運営されており、いくつかのスタートアップがここにオフィスを構えている。スタートアップだけでなく、ここはStartup Saunaを立ち上げた「Aaltoes」、アクセラレーター「KIUAS(旧Summer of Startups)」、ハッカソンプログラムを運営する「JUNCTION」といった組織の本拠地でもある。
写真でもわかるように、内部空間にはいくつかの個室があるほかはほとんどオープンだ。スタートアップのメンバーたちが仕事をしているすぐ横で、ハッカソンやアクセラレーターを運営する組織の事務局が活動する。こうした空間で飛び交う情報の豊かさは、想像に難くないだろう。
この空間もまた、アアルト大学外に向けても門戸を開いていることは特筆に値する。ヘルシンキ大学をはじめ、近郊の多くの大学から学生が集う。学生でない人々も利用することが可能で、所属にも年齢にも垣根がない。
「Startup Sauna」 撮影:筆者
これまで、Startup Saunaからは多くのアイディアが育まれてきた。なかでも最もよく知られているのが、スタートアップイベント「SLUSH」である。
コロナ禍の影響を受けた2021年はやや規模が小さかったものの、2019年度の実績では、世界中から25,000人の参加者、4,000のスタートアップ、2,000人の投資家を集める、世界的に有名なイベントだ(Bussiness Finland, n.d.)。学生ボランティアも毎年2,000人以上が参加する(Turula, 2019)。
学生から生まれたこれらの空間や活動は、フィンランド全土のイノベーション文化の発展に大きな影響を与えてきた。
フィンランドで開催されるスタートアップイベント「SLUSH」(Turula, 2019)
注:「Startup Saunaは、2018年まで、上記で述べたコワーキングスペースの名前であるとともに、あるアクセラレーターの名前でもあった。アクセラレーター部門は2018年に閉鎖している。
企業、エスポー、フィンランド政府
こうした大学と学生たちのイノベーティブなエコシステムを支えるのが、企業との連携、エスポー市の行政施策、フィンランドの国家政策である。
先に地図で見たように、大学の周辺にはVTT(フィンランド技術研究所)、Nokia、KONE、Fortum、Rovioなどといった国内の錚々たる企業が軒を連ねる。米Microsoftなど海外企業のオフィスも多い。その結果、Aaltoの講義にNokiaやKONEなどがクライアントとしてテーマ提供を行なったり、VTTとアアルト大学の教授がスタートアップを立ち上げたりといった事例が生まれやすい土壌が形成されている。
また、エスポー市はヨーロッパで最もイノベーティブな都市のひとつに選ばれるなど、市として強力にイノベーション、共創、リビングラボといった概念を推進してきている。このエスポー市が直営で運営するのが、投資家がエスポー市内のエコシステムに参入するための「窓」として機能する「Enter Espoo」だ。同社は「Launchpad」という、フィンランドのスタートアップと海外の大企業や投資家をつなぐマッチングサービスを提供し、海外からエスボー市への投資を促す活動を積極的に推進している。
そして、フィンランド政府はこのようなイノベーションを生む文化そのものを育んできた。
まず、フィンランド政府は、国内スタートアップに投資を行なう一番の投資家である。フィンランドにおいては、国内の投資家の数はまだ決して多いとは言えない。そこで政府が、政府系ベンチャーキャピタル「Business Finland」を設立し、積極的に国内投資を行なっているのである。「Business Finland」は2017年だけで820社に資金提供を実施しており、アーリーステージの企業に対して、およそ200億円(1億5,580万ユーロ)の投資を行なったという(Dhakal, 2020)。
もうひとつ、重要な政府の役割は「失敗できる文化」の構築だと言えるだろう。そもそもフィンランドでは、EU圏内からの学生であれば大学の学費が無料である。さらに学生に対して約7年間にわたり、約250€/月(およそ月々3万円)の研究助成金が支給される(Kela, n.d.)。その上、フィンランドの起業家は、最大12ヶ月間にわたって約700€/月(およそ月々9万円)の「スタートアップ助成金」を受け取ることができる。起業家は自分自身の稼ぎを気にせず、スタートアップの経営に専念できる(Dhakal, 2020)。このような挑戦へのハードルの低さが、フィンランドにおけるイノベーティブな次世代企業の誕生を後押ししているのである。
アアルト大学のエコシステムをとりまくアクター
これまで見てきたように、アアルト大学のエコシステムには、大学内外のさまざまなアクターがそれぞれのやり方で関わり、それぞれの価値を提供してきたことを読み取ることができる。
大学は、授業などを通じて出会いや製品開発のきっかけを提供し、そこに大学側・学生側の双方がアクセラレータや施設等を通じてコミュニティやワークスペース、投資支援などのサービスを提供する。さらにエスポー市やフィンランド政府が、協働や投資、失敗できる文化などを通じてエコシステムを支えてきたのだ。
アアルト大学をとりまくイノベーションエコシステム(筆者作成)
特筆したいのは、エコシステムから生まれた先輩起業家などが、さらにエコシステムに貢献する循環構造が生まれている点だ。彼らは大学の授業に対してテーマ提供を行なったり、あるいは学生側のプロジェクトのメンタリング・コーチングなどで関わったりといったアクションを通じて、エコシステムを強化・再生産し続けている。
結果的にアアルト大学のエコシステムは、出会い・製品開発・資金調達と、それぞれの段階にあわせた支援を抜け目なく提供している。さらに、互いに支え合うコミュニティ、製品開発のための機材器具、メンタリングなどを行なってくれる先輩起業家の存在、生活を補填する資金など、イノベーションが生まれていくために必要な要素が、これでもかと詰めこまれていることがわかる。
エコシステムはいかにして生まれたのか
しかし私自身も驚いたのは、このようなエコシステムが、なんとたった10年ほどのあいだに立ち上がってきたということだ。
事実、2008年以前は、学生は「誰もが行政か大企業でしか働きたいと思っていなかった」(Graham, 2014, p.50)という。あるヘルシンキの投資家の次のような言葉がそれを表している。
「(当時)もしあなたがトップの学生で、世界中に選択肢があるとしたら、起業する、スタートアップに入社するなんて選択は、リストの最後だったでしょう。もし『起業したいんだ』なんて言おうものなら、反応はこうです。『どうした、仕事が見つからないのか?』」(Graham, 2014, p.59)
そうであるならば、この変化はどう生まれてきたのだろうか?
そのきっかけは2007年以降のNokiaの没落だった。結論を先に言えば、そこからスタートアップ文化が生まれたこと、アアルト大学の設立、学生の草の根運動という3つの要素が重なって大きく変化したと結論づけることができる。
Nokiaの没落
Nokiaはいわずもがな、フィンランドが誇る世界的に名を知られた携帯メーカー“だった”。1998年には、Nokiaは世界で最も売れている携帯電話ブランドであり(BRAND MINDS, 2018)、その売上は、2000年にはフィンランドのGDP全体の4%を占めていた(Dhakal, 2020)。これは、現在の日本のGDPに対し、トヨタの売上が占める割合とほぼ同じだ。
しかし2007年、Apple社がiPhoneを発売。その後たった6年でNokiaの市場価値は90%下落し、2013年には、携帯電話事業はMicrosoftに買収されてしまった(BRAND MINDS, 2018)。
携帯メーカーの利益シェアの推移(Slivka, 2012)
その壮絶な転落劇を想像してほしい。それはいわば日本人にとって、たった6年の間にトヨタの自動車が全く売れなくなっていき、アメリカの企業に買収されてしまうような悲劇だった。この結果、約10,000人の従業員がNokiaから解雇され、多くの若い学生が就職先を失った(Dhakal, 2020)。
しかし、これがもたらしたのは悪い影響ばかりではなかった。高度なスキルを持つNokia出身者らは、国内で新たな道を模索し始めたのだ。Nokiaが退職社員向けに提供したインキュベータプログラムを通じて、国内だけでなんと400社のスタートアップが誕生。さらにゲーム産業を牽引するSupercellの創業者Niko Deromeや、Angry Birdsを生んだRovioの元CEO、Pekka RantalaなどもNokia出身者だ。Nokiaの出身者たちが、Nokia以外の可能性、すなわちスタートアップ文化の可能性をフィンランドに示したのである(Graham, 2014)。
立ち上がる学生とAaltoesの創設
Nokiaの没落と時を重ねるように2008年、Kristo Ovaska、Krista Kauppinen、Andrew Heiniluomaという3人の学生がアメリカへ渡り、MITやスタンフォードをはじめとする米国のトップ大学のスタートアップシーンを視察して回った。
「大学は、大企業への単なる製造ラインでした」。彼らのうちの一人は、当時のことを思い返してこうインタビューに答えている。「私たちは怒っていました。…当時の私たちはまるで、スタートアップみたいだったと思います」(Graham, 2014, p.53)。
こうして生まれたのが、学生起業家協会「Aaltoes」だ。彼らは帰国直後に初のスタートアップイベントを開催。そのうねりは急速に広がり、2009年末には5,000人を超えるメンバーが集った。さらに学生の起業家協会の設立はフィンランド全土に広がり、Boost Turkをはじめ、ほぼすべての主要な大学に起業家協会が設立されたという(Kaufmann, 2018)。
「Startup Sauna」の前身となった「Aalto Venture Garage」の当時の様子 出典元:AALTO VENTURE GARAGE AND STARTUP SAUNA – OneMinStory
さらに2010年頃にはAaltoesの主導でアクセラレーター「Summer
of Startups」(現在のKIUAS)などが生まれたほか、学生たちは大学にも強力に働きかけを行ない、これらの動きは「ACE(アアルト起業センター( Aalto Center for Entrepreneurship)」の立ち上げにもつながっていった。
変容するアアルト大学
こうして社会が激変するさなかの2010年、多くの期待を背負って設立されたのがアアルト大学だった。
しかしながら大学側は、当時はアアルト大学で何をすべきなのか、まだわかっていなかったという。ある人はこうインタビューに答えている。「一番はじめにそれを“わかった”のは、大学の顧客の側でした(Graham, 2014, p.52)」。
すなわちアアルト大学は、当初からトップダウン的に戦略を構築してきたというよりも、学生らの動きに即応し、相互に影響しあいながら、現在のような体制を構築してきたといえる。とはいえ、当然そこには、新たな変化を前のめりに率いた初代学長Tuula Teeriの強力なリーダーシップがあった。当時の彼女の(大学の)意志は、次の言葉に明確にあらわれている。
「既にあるものを再確認するだけなら、それは失敗である」(Lappalainen & Lappalainen, 2015, p.122)。
こうして相互変容し続けるイノベーションへの態度は、アアルト大学の内部にも変容をもたらしてきた。例えば大学設立以降、教員たち自身がアントレプレナーシップのコースに参加し始めており(Graham, 2014)、また大学側も「実務家教員(PoP:Professor of Practice)」という制度を整え、これを通じて実務家や元CEOなどが教授として大学に参画できるようになった(Hamalainen, 2015)。こうして、大学の内側からも、イノベーションが生まれはじめているのだ。
Nokiaの凋落からおよそ15年経過した現在、フィンランド社会がどう変化したかを改めて確認しておこう(Turula, 2019)。
フィンランドへのインバウンドVC投資は、2014年から2018年までの5年間でほぼ5倍の1億8,800万ユーロに拡大し、GDP比ではヨーロッパで最も高いインバウンドVC投資を獲得している。また、過去10年で、フィンランドのスタートアップの数は約10倍に増加した。そして、フィンランドの高校生の47%は、アントレプレナーシップでのキャリアを検討しているのだという(Turula, 2019)。
起業はいまやフィンランドにおいて、”クールなもの”になったのだ(Graham, 2014, p.59)。
終わりに:めぐりめぐる、都市のイノベーションエコシステム
小さな半島に育まれてきた、アアルト大学のイノベーションエコシステム。そこでは、学生、大学、政府などのステークホルダーがそれぞれの役割を実践しあうことで、イノベーションがさらに次のイノベーションを生む好循環を生み出し続けている。
[ 再掲 ] キャンパス周辺の地図(virtual campus tour – Aalto University をもとに筆者作成)
このエコシステムについて、全体を振り返って大きく三つの特徴を指摘できる。
ひとつめの特徴は、多様なフェーズ・多様な方面における支援体制が構築されているということだ。イノベーションの誕生までには「人と出会い、なにかを始める」というささやかなはじめの部分から、バリデーションや資金調達といったレベルまで、多様なステップがある。またそれを支えてくれるコミュニティやネットワークなどの要素も欠かせない。アアルト大学をとりまくイノベーションエコシステムでは、このような各要素に対する支援が緻密に整備されている。そこには、フィンランドらしいHCD(Human-Centred
Design 人間中心設計)に基づく、極めてシステム的なアプローチが反映されているといえるだろう。
二つ目の特徴は、ある支配的なアクターだけがすべての機能をもたらしているのではなく、エコシステムに参画するステークホルダーが、それぞれの方法で、異なる機能を提供しているということだ。例えば、エスポー市や大学が「コミュニティ」を提供しようとしても、なかなか形式的なものに留まり、うまくいかないかもしれない。このような役割分担が、歴史的に、自然に生まれてきたことも興味深い点だといえそうだ。
最後に、エコシステムに参画するステークホルダーが、互いに影響しあいながら、自身の実践を継続的に変容させつづけてきたことを指摘できるだろう。当初は大学も何をすればいいかわかっていなかったし、Aaltoesが生み出されたのも想定外の出来事だったはずだ。しかしながらそれぞれのアクターは互いの実践を否定したり阻害したりすることなく、それぞれの意志と営みを受け取り、反応し、すりあわせながら、その実践を常に変え続けてきた。
このイノベーションエコシステムの発展に重要だったのは、この、互いのあり方に影響を受けあいながら、常に変容を続けてきたことだと言えるのではないだろうか。もちろんいまもなお、その変容は続く。
森一貴 Mori Kazuki プロジェクトマネージャー 山形県出身。東京大学卒業後、アビームコンサルティングでの勤務および福井県鯖江市での活動を経て、現在フィンランド・アアルト大学Collaborative and Industrial Design修士プログラム在籍。Design for Social Innovation論に立脚しつつ、人々が関係しあいながら、まちに変容が生まれていくためのデザインを探究する。鯖江市にてシェアハウスを運営。職人に出会い、ものづくりを知る、福井のものづくりの祭典「RENEW」元事務局長。半年間家賃無料でゆるく住んでみる「ゆるい移住全国版」プロデューサー。
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企画・構成:紫牟田伸子(Future Research Institute)