イタリア現代都市における「みんなの場所」の復活
2022年2月4日|執筆:多木陽介 (ローマ在住)
みんなの場所
この十年ほどの間に、イタリアの都市部、郊外の多様な地域に、従来の図書館、劇場、アートギャラリー、公民館等に近いパブリックな機能をしばしばハイブリッドに兼ね備えた場所が多数生まれるようになっている。既存空間を改修再生して生み出されたものが多く、しかもその大半は、机上でデザインされる行政側の都市計画からではなく、主に地元の民間組織、あるいは住民たち自身の手によって、地域に密着した形で地元の生活の中から生えて来るように生み出され、運営されている所に特徴がある。
行政がつくり管理するパブリックスペース(日本ではこれを「公共空間」と呼ぶ)ではなく、広場や中庭、道路などに代表される、元々住民自らが生活の中で共有し、管理運営して来たパブリックスペースを私は「公共空間」と区別して「みんなの場所」[1]と呼んでいるが、 インフォーマルに共有され、自主管理されていたこうした「みんなの場所」の大半が、近代以降いずれも市民の手を離れ、無数の規則によって国家権力と経済権力に占有(つまり「公共空間」化)されるようになってしまった。日本語で言う「公共空間」とは、その意味では、真のパブリックスペース(本来「パブリック」とは、民衆の、みんなの、と言う意味)ではなく、実は市民の主権が一切認められなくなった空間なのである。
『可能性の空間』(2021年)
イタリアとて、この歴史的傾向は同じなのだが、今世紀に入る頃から何かが変わり、そんな現代都市において、特にこの十年ほど、まさに市民が主役になることを大前提とする「みんなの場所」が意図的につくりだされるようになって来たのである。このことは何を意味するのか。テリトリーごとに名称も定義も多様なこれらの施設を取り上げた『可能性の空間』(2021)[2]の編者であるロベルタ・フランチェスキネッリは、これらの場所とそれを生み出し支える活動やそのための資金確保の手段にも未だに定型がなく、日々の苦心の中で各人が活路を見出しつつあるのが現状で、そこにはまだ統一されたノウハウも理論もないとしているが、この手の場所六十数カ所をつなぎ、こうした実践をさらに奨励しようとする全国的ネットワーク「場所たちの国家」(Lo stato dei luoghi)も昨年7月に創設されているくらいだから、ある共通の認識と体系が生まれつつあることも確かである。
[1] 2013年の建築学会北海道大会の記念行事の一つの討論会「創(つくる)−都市のパブリックスペースの再生」(9月1日)での発表において筆者は、英語のpublic space(普通「公共空間」と訳される)のオータナティブな訳語として「みんなの場所」という言葉と概念を提唱し、現代都市において「公共空間」ではないパブリックスペースの再生の必要を説いた。 [2] Roberta Franceschinelli (a cura di) Spazi del possibile , 2021, ed. Franco Angeli.
「みんなの場所」の系譜
実は、こうした「みんなの場所」的なものは、いまに始まったものではなく、欧州には、百年以上前に良く似た前例があった。それは、「民衆の家」(仏:maison du peuple, 伊:casa del popolo, 英:people’s house, 独:Volkshuis, ecc.)と言うもので、一九世紀後半に登場する。事例としてはブリュッセルにあったもの(1899開館)が有名だが、ロシアが最初で、間もなく欧州全域に広がった。機能としては、労働者のための文化芸術およびレクリエーションのための施設で、イタリアの場合、一九世紀末(1893)にレッジョエミリアの近くにできたものが最初であった。
ブリュッセルの「民衆の家」
興味深いのは、百年少し前に、当時の資本主義が、画一的な労働者住宅政策を通して人と人のつながりでできた共同体社会を解体しようとしていた時流に抵抗するかのように、労働者たちが自分たちの集まる場所を確保しようとして
「みんなの場所」をつくっていたことである。社会的な現象は、ある意味で歴史の無意識に要請されたものだが、同様の要因を最近の「みんなの家」現象の背後にも見ることができるかもしれない。
もう一つの前例は、60年代以降現在に至るもので、学生運動や政治運動(元々は左翼中心だったが現在は右翼系も)と繋がった形で欧州各地にできたソーシャル・センター(英:Social Center伊:Centro Sociale)というものがある。これらは、大抵の場合ある主義を持ったグループによる公共空間の(不法)占拠に始まり(そのため、強制立ち退き処分を受けることもある)、しばしばインフォーマルな形で運営され、主にカウンター・カルチャーの拠点としてコンサートや演劇的パフォーマンスを開催する他、難民その他の社会的弱者を受け入れたり、社会的問題を扱う討論会や政治的な集会が開催される。
ミラノの歴史的なソーシャル・センター「レオンカヴァッロ」における集会風景
イタリアの場合、さらにもう一つの系譜として、宗教系(カトリック他)の慈善団体による貧者、病人、その他の社会的弱者を無償で受け入れる活動や労働者に対する福祉活動を支える共済組合、そしてそのための場所の伝統が、一九世紀頃から存在した。当時は、まだ国家レベルでの福祉政策が十分な形でなかったために、極めて貴重なものであったが、これらの活動の基礎として、イタリア社会における連帯と互助の精神の強さがよく指摘される。トリノ工科大学教授で建築家のアンドレア・ボッコは、北欧と比べると、ルールを守る、と言う意味での公民精神にはしばしば欠けるところのあるイタリア人だが、逆に家族、友人、地域における絆、連帯精神というものが、現在に至るまでしっかりとあることが、こうした互助の精神と文化の基本にあると指摘している[3]。
以下、イタリアに増えつつある「みんなの場所」の中でも特に典型的なものとして「地区の家」(イタリア語ではcasa del quartiere ないし casa di quartiere)と呼ばれるタイプの場所を、トリノ、アレッサンドリア、ジェノヴァと言う、列車でそれぞれ一時間という近距離で連なったイタリア北西部の三都市で覗きながら、イタリアにおける「みんなの場所」(とその活動)の登場が全体的に、また歴史的に意味する所を考えてみたいと思う。
[3] 筆者によるボッコのインタビュー(於トリノ工科大学、2021年11月10日) より。
三つの都市の「地区の家」 を訪ねる
「地区の家」と言う用語は、日本語でも近年この主題に関する詳細な研究書が2018年に出たとは言え、多くの方にはまだ聞き慣れない言葉だろう。それは、都市内のあるアイデンティティをもった地区の住民のための文化的社会的な活動を受け入れるパブリックスペースを指す言葉で、英語ではComunity Hubとも呼ばれるが、行政ではなく民間組織が運営している公民館と言えば想像がつくだろう。
日本ではじめて「地区の家」を詳細に扱った書籍『「地区の家」と「屋根のある広場」』 (小篠隆生+小松尚著、鹿島出版会、2018年)
トリノ(サン・サルヴァリオ地区)
この名称をイタリアで最初に使ったのは、2010年にトリノのポルタ・ヌオーヴァ駅(トリノの中央駅)とポー川に挟まれたサン・サルヴァリオ地区(人口約1万9千人)のほぼ中央にオープンした「地区の家」(casa del quartiere)だが[4]、この「地区の家」は、この時期にいきなり生まれた訳ではない。サン・サルヴァリオは、人種的にも宗教的にも多様性に富むマルチエスニックな地区である。90年代にアフリカ系移民の増加を機に風評を悪化させ、移民とイタリア人の住民の間に緊張感の高まっていたこの地域に乗り込んで、建築的な介入よりも、絶えずさまざまな住民のグループ(商店街、移民、父兄の代表等)同士の間の人間関係の構築に留意しながら、多角的な形で文化的、社会的に生活環境全般の改善活動に従事した「サン・サルヴァリオ地区発展事務所」(以下「地区発展事務所」)の長年の活動の当然の帰結のようにして生まれた場所なのである。
[4] 実際にはその二年ほど前にやはりトリノにもう一つ類似した施設「カッシーナ・ロッカフランカ」がトリノ市の中心から南西に6km強の住宅地(昔は農地だった)に生まれている。元々農家の大きな建物だった場所をEUの都市再生プログラムURBAN IIという基金の支援を受けて改装してつくられた。
トリノの中央駅と言えるポルタ・ヌオーヴァ駅とヴァレンティーノ公園、ポー川に挟まれたサン・サルヴァリオ地区
同地区の司教区教会(カトリック)
アフリカ系の住民の背後に移民による経営のエスニック食品店が見えるが、マルチエスニックなこの地域特有の風景
サン・サルヴァリオ地区にある壮麗なシナゴーグ
右下に見える水色の壁の開口部が小さなモスクの入り口。同地区にはこのようなモスクが二か所ある
1999年に市の援助もあって生まれた「地区発展事務所」は、当初懐疑的だった住民の信頼を獲得すべく、すぐに地元の市民団体やアソシエーション、学校など166の団体と関係をとると同時に、市民のありとあらゆる(住宅、自営業のための援助金、治安その他日常の諸問題についての)情報要請に無料で応えるべく、窓口業務を開始した。活動の主軸は、1.地区のイメージの改善と強化、2.建築の老朽化防止等を通しての生活環境の改善、3.エコロジカルな意味も含めた非物質的なレベルでの生活の改善の三つに置かれ、実にさまざまな活動が、建設業中心の乱暴な開発を控え、目に見えにくい作業を基本に生活環境を少しずつ具体的に改善していく「慎重な都市再生」(Behutsame Stadterneuerung)[5]をモットーに十数年に渡って繰り広げられた結果、市内でもちょっと危険視されていた地区が若者も多くいまや一番人気のある地区の一つにまでなった[6]。
[5] これは、ドイツの建築家ハルト・ヴァルター・ヘマーによる都市開発のコンセプトで、暴力的な取り壊しと再建ではなく、既存の建築物の現状を慎重に改善しながら進めるというもの。 [6] 当事者たちは、自分たちだけの手柄ではないと言うが、地区発展事務所の功績が大きかったことは事実である。
2008年当時地区発展事務所の所長だったアンドレア・ボッコ
著名な菓子工房跡に拠点を構えていたサン・サルヴァリオ地区発展事務所(2008年当時)
地区発展事務所内部。非常に明るく色彩に溢れていた
フェスティバル「サン・サルヴァリオ・モナムー2002」の風景。地元の多数の市民団体が主体となり、演し物、マーケット、町の散策と盛りだくさんのイベントであった
人種もさまざまな人々が混じり合い賑やかなこのイベントは三年間続けられ、悪評の立っていた同地区のイメージを一新するとともに、メディアにもはじめて注目される活動となった
「地区発展事務所」の組織は、地元にある20以上の市民団体を会員とする民間組織(アソシエーション)であり、建築、文化、社会、経済など多様な専門分野から来たメンバーが実動部隊として活動し、現在も年間通じて、約200のパートナーとさまざまなプログラムを実現している。
そして長年の作業の後、2005年にボーダフォン財団からのかなりの額の助成金[7]をコンペで勝ち取り、それまで市の所有物件であった[8]昔の公衆浴場跡(屋内約660㎡、屋外約550㎡)を改修して「地区の家」を2010年に開館させた。内部には十ユーロ以下で食事のできる安価で美味しいカフェテリアがある他、多目的ホール、各種講座室、コワーキングスペース、窓口スペースなど沢山スペースがあり、終日多様な活動が行なわれている[9]。広い中庭(約450㎡)もカフェの屋外席の他、夏期の映画上映など多様な形で使われている。
[7] 43万9000ユーロ。(6,000万円弱) [8] 30年契約でシンボリックな額で市から借りることになった。 [9] ただ、その分、開設以降、「地区の家」の運営自体に大半のエネルギーをとられるため、「地区発展事務所」としては、以前ほど地区のテリトリーそのものに積極的に介入しての活動はできていないのも事実である。
改修前の公衆浴場跡
旧公衆浴場を改修した「地区の家」入り口
二階テラス
大きな多目的ホール
地区の家の中庭
開設当初は「地区の家」側がプログラムも考えていたが、いまや「地区発展事務所」は全体のコーディネート側に回り、プログラムの大半は、個人や市民団体(associazioni)、社会的協同組合(cooperative sociali)、NGOなどが提案主催する活動や講座から構成され、大きな部屋は、近隣の住民に自宅ではできないパーティや結婚式等のために賃貸されることもある。市民側が責任を持った主体的、積極的な提案と要請がここでの活動の主体になっているのだ。長年「地区発展事務所」の所長を務めていた、前出のアンドレア・ボッコは、この状況を評して、「周囲の住人たちは「地区の家」を、まさに「自分たち(みんなの)の場所」として認識し、そこを自分の家の延長のように使ってくれており、その意味で、ここでは、パブリックスペースの新しいコンセプトが実現されているのを確認することができる」[10]と指摘する。
なおトリノではトリノ市とコンパニア・ディ・サンパオロ財団の主導により、サン・サルヴァリオの「地区の家」を含む八軒の「地区の家」によるネットワークも2012年に成立している。
[10] 筆者によるボッコのインタビュー(於トリノ工科大学、2021年11月10日) より。
サン・サルヴァリオの「地区の家」は、本当にいつも沢山の人が「自分たちの場所」として利用している
アレッサンドリア(ボルゴ・ロヴェレート地区)
人口約9万3千人の小都市アレッサンドリアの旧市街地ボルゴ・ロヴェレート地区(人口約1万4千人)にある「地区の家」は、トリノのそれとは、全く異なる歴史を持っている。この「地区の家」は、イタリアでは貧窮者の救済活動家として最も尊敬されていたドン・ガッロ神父(1928-2013)によって1970年にジェノヴァに創設されたサン・ベネデット・アル・ポルト・コミュニティという慈善活動組織(アソシエーション)[11]によって2011年に開設された。ベテランも新人も完全に同列に置かれる水平的な同組織の中でも責任者の一人で、現在は「地区の家」のコーディネーターであるファビオ・スカルトゥリッティによると、ドン・ガッロ神父の行動は常にすごく実践的で、机上から始める行政とは反対に、まず、自分たちの間近で生活をし、働いている人々に寄り添い、彼らに手を差し伸べることから始めることを大事にし、彼らと言葉を交わし、語り合い、関係を構築しながら、テリトリーに対して開かれたコミュニティを築くことの意義をいつも説かれていたと言う[12]。
[11] 創設者は神父さんだが、その組織、活動に一切宗教色はない。 [12] 筆者によるスカルトゥリッティへのインタビュー(於アレッサンドリアの地区の家、2021年11月14日)より。
アレッサンドリアの「地区の家」 の入り口
アレッサンドリアの「地区の家」のコーディネーターであるファビオ・スカルトゥリッティ
彼らの組織の創設者ドン・ガッロ神父の大きな肖像
2008年頃からアレッサンドリアでも活動を始めていたスカルトゥリッティらは、地元住民からの要請の声もあったため、ローカルコミュニティの拠点になるような場所を探し始めた。そして、2010年にアレッサンドリア市の旧市街にある、元々一九世紀に鋳物工場として誕生しその後倉庫になっていた巨大なスペースと二つのアパートメントを含む約1600㎡を、膨大に残されたゴミの処理と改修作業の責任を自分たちが負い、同地区の社会的整備目的の事業を営むという約束で、プライベートな家主から破格の家賃[13]で借り受けることに成功し、18ヶ月の時間と45万ユーロ(約6,000万円)の費用[14]をかけて何よりも建物の安全性確保やアクセスに留意して改修した。
[13] 月1ユーロ/1㎡。 [14] 一部は自分たちの資金、一部は支援者たちからの寄付金、そして残りは初期の企画に対する助成金として得た資金を回した。
改修前の広大な地上階スペース
現在の「地区の家」の内部
ここの「地区の家」は、地上階の約1500㎡の空間、その内部にある約150㎡の(スポーツジムとして使われる)階上スペース、そして約90㎡のアパルトマン一つ(二階)からなっている。地上階スペースには巨大な(約1000㎡)多目的空間(そこでは千人が参加したイベントも行なわれた)、約150㎡の暖房付きの部屋、スタッフのオフィスその他(約80㎡)、そしてキッチンのあるバールもある。
この建物の入り口には、先に紹介した「民衆の家」との歴史的連続性を銘記すべく、大きく「地区の家」(CASA DI QUARTIERE)と書かれた下に英語仏語で「民衆の家」(people’s house, maison du peuple)と言う言葉が書かれている
左側のコンテナーのようなボックスは、冷暖房の効く学習や会合のためのスペース
スポーツジムとして使われている階上スペース
元々貧窮者への支援で知られていた同組織だが、「地区の家」を開設することで、貧窮者だけではなく、地区の住民全体を対象にする実に多様な活動(その大半が無料)を開始した。「地区の家」を会場とした活動としては、以下のようなものがある。 ・民間イタリア語学校(完全に無料。外国人向け) ・放課後無料学校(対象は8歳から16歳。毎日午後15時〜17時半。約30人の生徒が常時通っている) ・イタリア語会話(無料) ・住宅相談所(毎日:立ち退きにあった低所得者、移民らへの住宅の世話) ・移民および外国人窓口(毎日:移民や外国人住民向けに、医療機関その他市民向けのサービスを紹介) ・反差し押さえ窓口(予約制、週二回) ・民衆倫理銀行の窓口業務(毎月二回。民衆倫理銀行の巡回職員が出張で来る) ・職業案内窓口(ピエモンテ州でもお墨付きの職安で、職業習得の講習会も開催) ・SPRAR(亡命申請および難民の保護システムのプロジェクトを市のために代行) ・イタリア語書籍の他6,500冊の外国語書籍の貸し出しをする図書館業務。 ・イベント開催: − 広大なオープンスペースのおかげでかなり大規模なイベントも可能 (数百人から千人入ったこともある) − 2011〜2019年までの間、毎年100以上のイベントを開催して来た(自分たちの主催は五件以下で、その他はすべて外部からの提案を受け入れたもの) − 大規模なものだけでなく、小さなグループ(友人同士の同好会のイベント等)を行なうこともできる ・セネガル、モロッコ、チュニジア等の外国大使館から頼まれて選挙時に投票場を設営することもある ・講座:ヨガ、気功、各種ダンス、木工教室、コンピュータ教室、ロシア語、中国語教室などにスペースを提供し、ここを拠点にしている劇団も二つある ・2014年からは、毎回、アレッサンドリアの90家族(一般市民だけ)が自分の家から不要なものを持寄り、売りに来る、市民にも大人気のマーケット「お隣マーケット」(Mercato del vicinato)を始めた。「地区の家」側は場所と展示器具を提供。(この時、市は「地区の家」の前の通りの自動車の通行封鎖を認めてくれる)
民間イタリア語学校
放課後無料補習校
各種講座
大人数の観客を収容した舞台発表会
地区のクリスマスパーティ
お隣マーケット
上記の業務の中でも、住宅問題の解決や移民の世話など、「地区の家」内に留まらず、地区内のテリトリーに入り込んで直接介入する作業も多く、その量と幅は測り知れない。その点は、トリノの「地区発展事務所」の初期に近いものがあるが、こうすることで、「地区の家」は幅広くまた深々とその根をテリトリーの土壌の中に伸ばしているのだ。
また、アレッサンドリアの「地区の家」がトリノなどのそれと異なる点は、同じテリトリー(かなり小さなエリア)の中に、以下列挙したように、ポリシーを完全に共有し、強い信頼感で繋がった組織や施設がいくつもあり、絶えず共同でプロジェクトを進めている点である。
ソーシャル・レストラン 市の中心部にある公園内にあり、元囚人、障害者などの社会的弱者を就労させている。料金も破格で安く、しかも美味しい
オルト・ゼロ・カフェ 「地区の家」が自営する、2015年開店の地産地消の野菜を使ったビーガンカフェ。夏は、その前の広場でコンサートなども開催される。ここも移民や貧窮者等、社会的弱者の雇用創出が大事なテーマ
キオストロ・ホステル 1500年代の教会付属の廻廊庭園(キオストロ)を ユースホステルにしている。中庭では常に多数のイベントが開催される他、難民の受け入れ等にも協力していた
ポルト・イデー 2015年に「地区の家」の正面にあった900㎡の スペースが空いたので、そこを「地区の家」が借りて 改修し、写真の広い多目的スペースの他、奥には、 プロジェクトやクライアントまで場合によっては共有することをポリシーとするコワーキングスペースや 市営のLAB121と言うファブラブがある
セカンド・ライフ すぐ近くの木工所がつぶれたあとを「地区の家」が借り受け、空間をセンス良く改修して、超安価な(大半が1〜5ユーロ)古着屋をつくった。それまでは、町の人から集めた古着やバッグその他を貧窮者に無料で支給していたが、施し物をするのではなく、1ユーロでも店に入って購入する方がその人の尊厳をリスペクトするという視点からつくられた
カンバラーチェ協会 移民等の受け入れ、そして職業訓練を施して、彼らのイタリア社会へのスムーズな融合を助けることを使命にしている組織。近年は地域の養蜂業と協力して、移民に養蜂技術から製品化までのノウハウを教え、養蜂業者として独立できるようにサポートする Bee My Jobというプロジェクトが注目されている
ジェノヴァ(ラガッチョ地区)
ジェノヴァの港からも旧市街地からもすぐの距離にあるラガッチョ地区(人口約1万3千人)は、誤った都市計画のために集合住宅が密集し(人口密度がかなり高い)、子供の遊ぶ公園も住民が交流する場所も一つもなかったため、同地区住民の間では、この地区のほぼ中央に長年放置された「ガヴォリオ」と言う名の広大な旧軍需工場の跡地(6万㎡)を市民のために解放して欲しいと言う強い思いがかつてからあった。そして2012年に無使用の国有地を市町村に無料で譲渡することを奨励する法律が成立し、2015年に同用地が無料でジェノヴァ市に寄贈された後、ここに市民生活の寄り処となる「地区の家」[15]を開こうとして力を合わせた十三の市民団体が協同したチームが入札に勝って、用地の一部の建物と壁で囲まれた1500㎡の方形の広場を合わせもった「ガヴォリオの家」[16]が2015年12月にオープンされた。
[15] そもそもトリノのサン・サルヴァリオの「地区の家」を見て、こういうものが欲しいと思って2014年に当時の区長に提案したのが、ことの起こりだった。 [16] 「ガヴォリオ」はこの軍用地の名前だった。
ラガッチョ地区。 質の良くない集合住宅が異常に密集しており、 子供の遊ぶための広場も公園もなかった
「ガヴォリオ」には、地区の家(下の灰色の四角の部分)と同時に、その裏に広がる市民公園プロジェクト(赤線で囲われた緑色の部分)が計画されており、現在工事が進行中。「ガヴォリオの家」の運営者たちの大きな功績としては、政治的に廃止されかねなかったこのプランを死守したことも挙げられる
ラガッチョ地区の密集する集合住宅街に囲まれた旧軍用地「ガヴォリオ」。 一番下の方形のエリアが遊び場になった広場部分
このジェノヴァの「地区の家」を運営する人たちは、トリノのサン・サルヴァリオ地区で長年町づくりの実践を積んだ「地区発展事務所」や50年の慈善活動の歴史をもつ「サン・ベネデット・アル・ポルト・コミュニティ協会」のような歴史と経験こそないものの、「ガヴォリオの家」を支える情熱溢れる多数の市民団体やボランティアの存在は、先の二つの例とも大いに共通する部分であり、イタリア市民の地域社会生活への積極的な参加意識の強さこそがこうした「みんなの場所」を生み出す母胎であることを実感させてくれる。
「ガヴォリオの家」の魂と言える二人。
ルチア・トリンガーリ(左)とグイド・バーニ(右)
「ガヴォリオの家」の四方を壁に囲われた広場は、この地区に初の子供の遊び場をもたらした
開館当時、十三あった母胎の市民団体だが、2019年に陣容を一新した際に大きく入れ替えを図り、地元だけでなくジェノヴァ市の境界を越えて、全国、さらには欧州レベルの知名度を持つアソシエーションの参加もあり、29の市民団体がパートナーとなって、「ガヴォリオの家」の運営組織は再編成された。そして、2015年の開館当初から参加していた教育学の専門家のルチア・トリンガーリ(会長)と彼女の夫で指圧師でもあるグイド・バーニの他、イタリアの最も重要なLGBTの擁護団体Arci Gay協会、イタリアの重要な環境擁護団体Lega Ambiente、さらに子を持つ地元の母親たちが自分たちでつくった市民団体などからの代表ら合わせて五人が中心となり、資金を集め、行政との関係を調整し、以下の四つの柱を目標として、地域の学校、教会などともコラボレーションしながら、「ガヴォリオの家」で開催すべきプロジェクトをつくり、実践しているが、かつての「サン・サルヴァリオ地区発展事務所」や現在のアレッサンドリアの「地区の家」のように、地域そのものに活発に乗り込んでいきながら、住民とともに、住民の生活を文化、社会の多様な側面から改善していくような活動はいまのところまだできていない。 「ガヴォリオの家」の活動の四つの柱 1.環境意識の高揚(コンクリートばかりだったこの地区に初めてまとまった緑が市民公園と言う形でもたらされるので、それに合わせて環境意識の教育に尽力する) 2.教育レベルの貧しさと闘うこと(学校、子供のいる家庭とのコラボレーション) 3.人権のプロモーション(Arci Gay協会とも協同して、差別行為を撤廃しようとする) 4.社会的正義と公平さ(地区に多い貧窮者やお年寄りなどに対する社会的格差の是正を修正しようとする)
新体制になってから早々、コロナ禍が訪れ、ロックダウン下で新パートナーたちとの準備は難航したが、2021年の春からようやくペースに乗り、この「地区の家」の認知度もどんどん高まっている。以前の体制に比べ、運営のスキルと透明感が増し、周囲からの信頼度も高まったため、行政や外部組織との交流、協力関係も増えており、この地区に限らず、フェミニズムの音楽イベント「リリト・フェスティバル」、国際レベルのサーカス芸人を集めるフェスティバル「チルクムナヴィガンド」、多様な文化の演劇や音楽、またそれらのラボを通して現代社会の活性を図ろうとする「スーク・フェスティバル」等、ジェノヴァでも特に重要で知名度もある文化的なイベントが次々に「ガヴォリオの家」とのコラボレーションを求めるようになり、昨年は地域外からも大量の観客を集めるイベントも多数行なわれることになった。
2021年7月「ガヴォリオの家」の広場で行なわれたリリト・フェスティバルのポスター
チルクムナヴィガンド・フェスティバルの間、子供たちのためのサーカス芸のワークショップが「ガヴォリオの家」の広場で行なわれた
「ガヴォリオの家」自体も室内の改修が進み、かつてはただの物置だった所が、いまはヨガその他の講習会に使える奇麗な部屋に変身したし、新たにライブラリーとなるスペースも間もなく整備が終わる。開館して六年が経ち、いよいよこの「地区の家」が大きく成長していく感触がありありと伝わって来る今日この頃である。
「ガヴォリオの家」図面 ピンク色の部分が子供の遊び場の広場(1500㎡)。地区の家の室内部分は、緑色の部分(計222㎡)。「5」と「6」がこれからライブラリーになる部屋
子供が喧嘩をした時に、その状態を上手く
解消する術を習うコーナー
(図面内「4」の一角)
「ガヴォリオ」の入り口を入ると、すぐに子供の図書室(上図面内「4」)が
目に入る。絵本の表紙が見えるように並べている
改装され、ヨガその他の講座のために使われている部屋(上図面内「3」)
旧くて新しい創造力
ここで見た三つの「地区の家」は、それぞれ規模も歴史も環境も異なるが、イタリアで増えている「みんなの場所」の数々とも通ずるいくつかの共通点を持っている。それを一言で言うと、彼らが皆備えている従来の枠組みに拘らない柔軟な創造力である。
トリノのサン・サルヴァリオ地区発展事務所の場合、「地区の家」ができる前もいま現在も、彼らのやり方の基本が、建設による「目に見える」都市開発ではなく、「フォトジェニックではないかもしれないが」[17]、地域住民同志の間に日々人と人のつながりとしての社会性を構築する「透明な建築行為」[18]であるように、「みんなの場所」づくりに関わる人々は、物理的な建物より非物質的な人間関係や社会性や文化、ハードではなくソフトの部分を地道に構築することこそが市民生活の向上につながることを知っている。
[17] 筆者によるボッコのインタビュー(於:トリノ工科大学、2021年11月10日)より。 [18] 拙著の連載「優しき生の耕人たち」第二回、AXIS vol. 138, April 2009, p. 143。
サン・サルヴァリオの地区発展事務所では、地域の多様な立場の代表を定期的に招き、テーブルディスカッションをさせることで、日々地道に人間関係を構築していく作業を基本にしていた
また、ハードは二の次とは言え、建物に関しても大事なポイントがある。新しく建物が建設されることはまずないのだ[19]。サン・サルヴァリオの場合は旧公衆浴場、アレッサンドリアの場合は元倉庫(工場)、ジェノヴァの場合は軍用施設の一部であったように、近年生まれた「みんなの場所」のほとんどが空き家、不使用建築物を改修再生して使っているが、それは、まず、イタリアに膨大な数の空き家や不使用建築物があるからである。中には文化財と言えるほど重要な建築物もある。既存建築を安易に破壊処分して新たにつくるのではなく、必要なだけの手を加えて、新しい生命を吹き込む、そのソフトで「控えめな」アプローチも特徴である。それによって、地域の歴史的な連続性も保持されるし、逆に歴史の汚点と言える建物を優れた目的の施設に再生させること[20]は、優れた意義と強いメッセージを持つ。こうしたプロセスに関わる建築家は、自分たちの最大の使命が、作家として自分の「作品」を残すことではなく、社会や歴史や地域、そして人々の間に慎ましい形で入り込み、そこに正当なエネルギーが流れるための黒子的なお手伝いをすることであることを知るだろう。そう言う仕事に出会う時、我々は、一つの「作品」と言う閉じた表象に収斂することなく、より開かれてダイナミックに生に輝きを与える新形式のポエジーのあり方を知ることにもなる。相変わらず芸術と言うと美術館や劇場しかないと思っている人が多いが、実は、二〇世紀の末から、ポエジーは輝きの場所を移し始めている。新しいポエジーは、歴史の瓦礫に埋もれそうな現実の生に直接関わる形でどんどん輝き始めているのだ。
そして、プロジェクトの実践のプロセスにおいて地域住民が何らかの形で参加することが多くなり、トップダウンではなく、ボトムアップで物事が決定される形が見えて来て、「場所」をつくる人々のスキルに大きな変化が見られるようになった。従来都市づくりを担って来た建築家や都市計画家のそれとは異なるスキルが求められているのだ。図面ではなく、生身の人間を相手に対応する能力や、生活を多様な角度からアプローチできる能力が必要になる。サン・サルヴァリオ地区発展事務所でも、始めから、ボッコのような建築家だけではなく、社会、教育、文化、経済、その他多様な知識とスキルをもった人々が集まって、極めてハイブリッドなスタッフを構成していたし、アレッサンドリア、ジェノヴァの「地区の家」に関しても同様のことが言える。しかも、ボッコによると、その一人一人が、ある専門的スキルに長けると同時に、すべての側面を理解する知識と理解力をもった、いわゆる「Tパーソン」(横の広がりと縦の深さを同時に持つTの字に象徴される能力をもった人の意味)であることが望ましいと言う。
[19] 例えば、トリノの「地区の家」のネットワークに加盟する八軒のうち建物を新築したのは一ヶ所だけだし、その一ヶ所もその地域に再利用できる建物がなかったために建設された。 [20] 昔の刑務所や精神病院と言う監禁施設が文化センター等に生まれ変わった例も少なくない。
もう一つの特徴は、プロジェクトの経済的な持続性は重視するものの、誰もお金のためにやっていないということである。上記の三つの「地区の家」を運営する人々の収入はいずれも日本の方々にとっては、驚くほどの薄給であるが、トリノでも、アレッサンドリアでもジェノヴァでも、どうしてこんな苦労してまで「地区の家」をやっているのかと尋ねると、どこでも「好きな仕事を好きな仲間とできている。これ以上何が望めるだろう」という答えが返って来る。自分の目の前で、どんどん新しい人々の交流が生まれ、地域の生活のいろいろな側面に具体的な変化が生まれていくのを目にすることほど充実感を与えてくれることはないと言うのだ。
だが、彼らを深い所から動かしている原動力を見極めたい我々にとっては、ただ好きだ、では説明にならない。例えば、アレッサンドリアの「地区の家」の場合、中心にいる人々の多くは、過去に何らかの形でドン・ガッロ神父に救われている。だから、「どん底」を知った人々ならではの、他者への思いやりと強さがあって、それが彼らの信じられないような幅の広い活動を支えているのだ。また、どこの「地区の家」を見ても、曖昧な言い方だが、そこで働く人々の人間性の豊かさにまず気づく。資本主義社会の押し付けるモデルには当てはまらない人ばかりなのだ。それは、この国の国民の精神を培っている歴史と文化の豊かさだと言っても良いだろう。ボッコの言う「Tパーソン」にしても、特に知識人でもないのに、かなり広い教養と人間性への理解、倫理観、他者への共感力というものを備えているが、どれもひたすら受験勉強で進学を目指し、就職すると資本主義の企業戦士を目指す日本式のエリートには想像もつかない素養である。
また、「地区の家」を生み出し、運営する人たちの職能に注目すると、職種を定義のしようのない人が多い。何かの専門能力ももつが、上記のように豊かな素養があるから、何にでも対応できるし、実際いろいろ掛け持ちして必要な作業をこなしている。それを単に素人仕事と批判してはいけない。彼らの職能の特性は日本語の「百姓」の本来の意味に近い所がある。「百姓」と言う言葉は、百の「姓」と書くが、「姓」とは、そもそも社会的地位や職業に結びついた概念で、つまり「百姓」とは、百の職業、職能を持った人、という意味であった。実際彼らは、現代の名工のような洗練さはもたなかったが、農業だけでなく、自分で陶器を焼き、料理をつくり、衣服を縫い、家を建てていた人々であり、彼らの中では、現代ではそれぞれ専門分化したこれらの知と技術の体系が緊密に繋がっていた。本来、「生」を巡る創造力とは、そういうあり方をしていたはずである。現代の「みんなの場所」のつくり手たちも、一種テリトリーに深く根を下ろした「百姓」的な能力(創造力)の持ち主が多いのである。しかもそう言う人たちが多数集まると、さらにハイブリッドで即興性に満ちた集団的な創造力が見えて来る。活動資金の調達にも同様な創造性は要求される。近年は行政からこの手の活動への助成金がほとんど削られ、決まった資金ルートが絶たれた分、プロジェクトごとに助成金を行政や財団から確保したり、その他の新しい収入源、新しい形のパートナーの発見のためにかなりクリエイティブに動く必要があるからだ。(サン・サルヴァリオの地区の家、アレッサンドリアの地区の家は、年間それぞれ20万ユーロ(二千数百万円)超、30万ユーロ(四千万円弱)超ほどの支出がある。)
そして、いま「地区の家」の当事者たちを百姓に喩えたが、彼らの創造力には、多分にエコロジカルな所がある。かつて、フランスの哲学者で精神分析医のフェリックス・ガタリ(1930−1992)は、自然環境、社会環境、精神環境におけるエコロジーは互いに緊密に関連したもので、これら三つを同時に推し進めることが重要だと説いていたが[21]、資本主義が市民から奪った「みんなの場所」を復活させながら、一九世紀以来徐々に解体された共同体を再生し、より人間的な生活の場を取り戻そうとする「地区の家」の運営者たちの作業は、ある地域に新しい社会生活の形式を具体的に実現する(自然環境+社会環境のエコロジー)と同時に、その成果自体が、そういう社会のあり方が可能であることをさらに多くの人々に想像させることにもなる(精神環境のエコロジー)と言う意味で、まさに三つのエコロジーを兼ね備えた優れた実践であり、その意味で、「地区の家」づくりの仕事は、今後、まちづくりに限らず、あらゆる分野の仕事にとって、貴重な示唆を多く含んでいるはずだ。
[21] フェリックス・ガタリ著『三つのエコロジー』平凡社ライブラリー、2008年。
コロナ禍を超えて次世代につながる
コロナウィルスの到来は、人々が集まる場所を運営する「地区の家」にとっては、致命的な出来事であった。一昨年のロックダウン中、新体制をスタートさせようとしていたジェノヴァの「ガヴォリオの家」を始め、すべての「地区の家」は、室内で行なわれていた従来の業務の大半を中止せざるをえなかった。そして、ロックダウン解除後も「人が集まる」ことへの無意識の恐怖が後遺症として未だに拭えず、利用者は完全には戻っていない。衛生的な設備も整えながら、如何に人々が再び、安心して交流し合えるようになるか、これは、今後各「地区の家」が向き合うべき最も難しい課題である。
だが、コロナ禍がもたらしたものは、ネガティブなものだけではなかった。慈善団体として経験も長く、元々施設外での活動も活発であったアレッサンドリアの「地区の家」の運営者たちは、ロックダウン中にも市民に必要とされる新たなサービスを大量に発案、実践したため、彼らの「地区の家」は、もはや一地区のための拠点ではなく、アレッサンドリア市全体が頼りにする拠点として認識されるようになった。ロックダウン中人っ子一人いなくなった町を巡回しながら、外にいるのが路上生活者たちだけであるのに気づいた彼らは、保健所と市役所と協議の上、毎日(昼夜)路上生活者の健康のモニタリングを開始し、キリスト教系の慈善団体カリタスとともに、市内の社会的弱者を助けるネットワークを創設し、ホームページも開設した。昼夜のモニタリングのおかげで、アレッサンドリアの路上生活者でコロナに感染した者は一人もいなくなり、また最終的に路上生活者がいなくなった。この成果を見たアレッサンドリアの保健所から依頼され、近隣地域の保健所にもこのノウハウを伝える業務を行なっている。
路上生活者の 健康モニタリング作業(1)
路上生活者の
健康モニタリング作業(2)
路上生活者の健康モニタリング作業(3)
さらに広大な「地区の家」のスペースは、慈善団体や食糧銀行、イタリア市民保護局[22]などから寄せられる大量な食糧(総計42t)の集散の拠点となり、うち10%が先出のソーシャル・レストランで調理され、貧窮者やお年寄りのもとに届けられた。
それだけではない。コロナ禍で国や地方行政が発給したさまざまな援助金を一般市民が申請するのに、市役所の手が回らず、しかもお年寄りや移民等デジタルアイデンティティもメールも持たない市民も多かったため、「地区の家」がボランティアの申請ヘルパーを集め、2020年中だけで一万人近くの市民がここで申請を済ませている。
[22] 首相の管轄下にあり、災害その他の非常事態の予測、防止、管理を担う機関。
ロックダウン中、「地区の家」の中は食糧の集散拠点となった
コロナ対策の援助金の給付申請を「地区の家」で受け付ける
アレッサンドリアの「地区の家」の人たちがすごい所は、平時だけでなく、緊急事態においても地域住民のケアをできる柔軟な能力を備えているという点である。それも元々準備をしていた訳ではないのだが臨機応変にいま必要なことを見いだして、できてしまうのだ。それもいつも助けの必要な人たちの方を向いた視線があるからだろう。東日本大震災の際にも、外部からの援助が現地の状況を把握できずなかなか機能しなかったが、彼らのように、平時から地区住民の状態を把握し、しかも緊急時の対応能力も備えた「地区の家」のような施設こそ、これから災害の多い日本各地につくられるべきではないだろうか。
そして、もう一つアレッサンドリアでコロナ禍に生まれた素晴らしい活動は、十数人の大学生(18〜26歳)が中心になって、「地区の家」の向かいにある施設ポルト・イデーの中で始めた「自営学習室」である。始まりは、コロナ禍で大学も図書館も閉鎖され、学習する場を奪われた大学生たち五、六人が当時誰も使わず空いていたポルト・イデーに大きなテーブルをいくつか持ち込んで勉強を始めたことであった。さらに勉強だけでなく、若者たちが出会う場も完全になくなっていたので、SNSを使ってコミュニケーションを始めると、一ヶ月で参加者は50人になった。夏期には入り口はずっと開け放たれ、外の路上にもテーブルが並べられた。
2020年の初夏より「ポルト・イデー」内に
学生たちが「自営学習室」を開設
次回のイベントの企画を練るためにミーティングする中心メンバーたち
同時に、勉強だけでなく、ここで何をするかについて毎週十数人のメンバーが集まり議論を始め、この小さな町に欠けた(現在市立劇場も数年前から閉鎖のまま)若者のための社会文化センターを開設しようということになった。そこでまず行なったのが、映画上映会、トーク、そして、トランセクシュアルの人が新たなアイデンティティを獲得するまでに通過しなければならない経験を実際に関連の役所や病院に行きながら学ぶと言うワークショップなどであった。
この後、このグループの活動は本格化し、プロジェクトを各種財団に提案しては、助成金を獲得し、ただのオープンスペースであった所に冷暖房装置を備え、光熱費を払い、 毎月トークや展覧会、コンサートを企画するなど、若者が学び、議論し、交流する場を若者たちが自分自身で管理運営する仕組みと彼らのための「みんなの場所」をつくりあげるに至っている。数年前には若手不足が嘆かれていたが、いまや確実に次世代が育って来ている。
至近距離でつかむ社会のヴィジョン
「地区の家」を運営するということは、社会学者よりもずっと至近距離で、日々社会のさまざまな問題にリアルに触れつつ、そこから社会学者以上に精確なヴィジョンを見定める仕事でもある。スカルトゥリッティと話しているとそのことが、如実に感じられる。彼は、これから近い将来にかけて、イタリア社会(そして市民)が直面する大きな問題を三つ挙げてくれた。
1.一つは、移民問題。コロナが全く止めなかった数少ない社会現象の一つが、アフリカからのボートピープルの上陸だと言う。シチリアや周囲の島で難民が上陸する所の受け入れも大変だが、最終的に落ち着く先としてアレッサンドリアのような都市は、常にその準備が要ると言うのだ。彼らはもう何年も前からこのテーマには力を入れて受け入れに尽力している。
難民受け入れ活動の横断幕
2.労働関係の問題も大きなテーマだ。一つは失業。現在、仕事を探している人の数が二年前に比べると10倍(「地区の家」には求職者のリストがあるが、二年前は60人だったこのリストが現在は数百人になっている)にもなると言う。資本主義社会の終焉にあって、すべての人が仕事を持つこと自体があり得ない状況が迫っており、どうやって最低限尊厳ある生活を営むことができるかという問題に多くの人が日々直面しているのだ。また、その中ではありとあらゆる労働搾取が拡大しており、特に移民の労働者の場合、しばしば搾取されているという認識すらないことが多く、彼らの人権を守るための教育も必要になると言う。
3.そして最後の重要なテーマは住居。ロックダウンを機会に、どこに住むかと言うベクトルが大きく動いたらしい。はじめは、都市を逃れて田舎に行きたがる人が増えたが、いままた都市への再流入が急激に加速していると言う。コロナ禍で、やはり人々は病院その他の医療サービスの整った都市の方に安心感を覚えるようだ。だが、コロナ禍で失業し、家を失った人も多く、アレッサンドリアの「地区の家」では、そのための助成金を得て、家を差し押さえられ追い出された住民のために、なるべくすぐに新しい住居を最低限の家具を揃えて提供するための窓口を開いている。この事業は評価され、アスティやトリノなど近隣の諸都市からも同様の窓口をやってくれないかと依頼が来ている。
非常にリアルでクリティカルな社会の状況が見えて来る。それをしっかり見つめ、次々と解決策を紡ぎ出し、地元だけではなく、自分たちが見いだしたノウハウを他の都市にも教えていく。果てしない仕事だが、その中にどっぷりつかりながら、スカルトゥリッティは言う。「本音を言うとね、この歳になって、僕を動かしているのは、何と言うか、健全なエゴイスムだね。この仕事やっていると、幸せなんだよ。毎日起きて、好きな仕事ができる。しかも毎日、前の日には知らなかった人から何かを学べるんだ。素晴らしいことだよ。自分は本当に恵まれていると思うよ。」[23]
[23] 筆者によるスカルトゥリッティへのインタビュー(於アレッサンドリアの地区の家、2021年11月14日)より。
ファビオ・スカルトゥリッティ(於:ポルト・イデーの図書エリア)
多木陽介:批評家/アーティスト 1988年に渡伊、現在ローマ在住。演劇活動や写真を中心とした展覧会を各地で催す経験を経て、現在は多様な次元の環境(自然環境、社会環境、精神環境)においてエコロジーを進める人々を扱った研究(「優しき生の耕人たち」)を展開。芸術活動、文化的主題の展覧会のキュレーション及びデザイン、また講演、そして執筆と、多様な方法で、生命をすべての中心においた、人間の活動の哲学を探究。著書に『アキッレ・カスティリオーニ:自由の探求としてのデザイン』、『(不)可視の監獄:サミュエル・ベケットの芸術と歴史』、翻訳書にマルコ・ベルポリーティ著『カルヴィーノの眼』、プリーモ・レーヴィ著『プリーモ・レーヴィは語る』(ともに青土社)、アンドレア・ボッコ+ジャンフランコ・カヴァリア著『石造りのように柔軟な』(鹿島出版会)等がある。
企画・構成:紫牟田伸子 (Future Research Institute)