まちの価値を維持していくこと 金沢シーサイドタウン概要
横浜市の最南部、金沢区の海沿いを南北にのびる集合住宅群が金沢シーサイドタウンです。計画戸数1万戸、計画人口3万人のニュータウンとして、昭和53年に入居が開始されました。三浦半島の付け根に位置し、横浜市中心部に比べて温暖な気候に恵まれています。近隣に横浜市唯一の海水浴場である海の公園や八景島などの人気リゾートを抱える地域でもあります。シーサイドライン(モノレール)がまちを南北に走っており、京浜急行線の駅からも徒歩圏で、品川駅までの所要時間は35分ほどです。
写真:八景島周辺の眺め
写真:金沢シーサイドタウンの様子
◇金沢シーサイドタウン開発の経緯
鎌倉時代からのリゾート地であった金沢区の海岸線も、高度成長・人口増加の余波を受け、昭和40年代から埋め立てが計画されることになりました。それまでは埋立地=工場用地というのが常識でしたが、この金沢の埋立地は当初から工業地帯と住宅地を共に開発する「都市再開発」に用いるものと位置づけられています。これは当時としては画期的な発想でした。港北ニュータウンなどと共に、横浜市の都市整備戦略6大事業のひとつとして、市の情熱的ともいえる注力のもと、埋め立て事業が開始されたのです。
写真:金沢シーサイドタウン沿いに走る首都高速湾岸線と工場地帯
埋立地のうち住宅地となる約180haは、従来のように自治体が街路とインフラを整備した後は事業体に丸ごと売り渡してしまうのではなく、人間的な優れた都市景観を作り出す「アーバン・デザイン付きの開発」として設計されました。横浜市が建築家の槇文彦氏と組んで行政内部に「アーバン・デザイン・チーム」を作り、埋立地という人口造成地上に快適な住環境を生み出すべく、昭和42年に「金沢シーサイドタウン」計画がスタートしました。
◇シーサイドタウンの生活
タウン内では横浜市や住宅公団を含む複数の事業体が住宅を作り、昭和53年から58年にかけて住民が次々と入居しました。平成元年には新杉田と金沢八景を結ぶシーサイドラインが開通し、利便性が向上しています。当初は1つだけだったスーパーも現在大小合わせて3つになり、日常的なものの買い物には事欠かないと言えます。銀行や郵便局、体育館や公園などの施設も揃い、通勤通学などを除けば「徒歩数分の範囲内で生活できる」状況です。まちの開発と同時に植えられたさまざまな樹木は大きく成長して四季折々の美しさを見せ、埋立地であることを忘れさせるほどです。
写真:シーサイドタウン内の様子
住民の満足度はおおむね高く、タウン内での住み替えも頻繁に行われています。最初に賃貸エリアや分譲の高層棟に入居した人が、占有面積の広い中低層や専用庭付きの住宅に移るパターンがほとんどです。
◇シーサイドタウンの現状とこれから
シーサイドタウンの住宅群は開発時から環境を整え、集合住宅ながら「仮住まい」ではなく「終の棲家」となることを視野に入れて設計されました。最初の入居からほぼ30年が経った現在、ずっと住み続けている住民も数多く、定住化は計画通り進んだように見えます。しかし定住化するということは、入居者が固定し高齢化するということでもあります。
シーサイドタウン・並木1~3丁目の2010年9月の人口は20,005人。ここ10年で3500人ほど減っています。年齢別にみると最も多いのは60歳代で、10代と20代で著しく減少していることがわかります。30代でこのまちに移ってきた人々が60代になり、その子どもたちが成人して外へ出ていっている様子がうかがえます。
かつてタウン内には小学校が4つあり、1990年代頃にはどの学校も1000人ほどの児童を抱えていました。今世紀に入り児童数は急減し、今から5年前にそのうち2校が統合され、現在では小学校3校・中学校2校となっています。統合により廃校になった小学校用地は民間に売却され、目下、主に高齢者を対象とする大規模リハビリ病院の建設が進められています。
写真:現在の小学校跡地と周辺の様子
タウン内にはエレベーターのない4、5階建の住宅や、エレベーターがあっても各階停止ではない高層住宅も数多く、高齢化の進むまちの今後の大きな課題となると思われます。
ただ、10歳未満の小さい子どもの数はそれほど減っておらず、子育て世代である30代は逆に2割ほど増えています。住民によると、タウンで育った子どもが結婚して家庭を持つと、またこのまちに帰ってくるケースが少なからずあるそうです。親と子それぞれが近距離別居をし、「子どもが小さいうちは親に子育ての手助けをしてもらい、親が高齢化したら面倒をみる」という生活スタイルがタウン内で広がっているのかもしれません。
参考文献:
・「都市住宅」1981年10月号
・横浜市統計ポータルサイト
・北沢猛氏ホームページ
- 投稿者:東京生活ジャーナル
- 日時:03:09