マイナスをプラスに変えること 山野真悟氏インタビュー(1)
山野真悟氏プロフィール
黄金町バザール ディレクター
NPO法人 黄金町エリアマネジメントセンター 事務局長
山野真悟事務所主宰
1950年福岡県生まれ。
1971年美学校銅版画教場卒。1970年代より福岡を拠点に美術作家として活動。
1979年IAF芸術研究室設立。
1990年より街を使った美術展「ミュージアム・シティ・天神」をプロデュース。その後も「まちとアート」をテーマに、アート企画、ワークショップ等を多数手がける。
2004年~(財)福岡市文化芸術振興財団「ギャラリーアートリエ」の企画運営を行う。
2005年「横浜トリエンナーレ2005」ではキュレーターを務めた。
―「アートによるまちづくり」をテーマとして2008年に始まった黄金町バザールも、今年で3年目です。山野さんはこのバザールにいつ頃から関わっていらっしゃるのでしょうか?
◇「まちの中のアート」という仕事
2007年の秋から関わっています。すでにその時はバザール実行員会ができていました。アートによるまちづくりという方向性が決まってから、じゃあ誰にディレクションをさせるか、ということで呼ばれたのだと思います。
僕はもともと福岡で、ミュージアム・シティ・プロジェクトというもののプロデュースに関わっていました。これは、福岡の都心部で、商業施設や公共の場所を使って作品の展示をやろう、ということから始まったプロジェクトで、1990年から10年間くらい続きました。この「黄金町バザール」に呼ばれたのも、それがきっかけと言えばきっかけです。
その後、2005年の横浜トリエンナーレの時に、キュレーターとして呼ばれて、横浜に1年間滞在しました。当初、僕は、トリエンナーレの「市民担当」という役割の予定でした。市民協働、のようなプログラムを考えて、それを担当するという役割です。それが、急きょ、トリエンナーレのアジア担当にもなりました。福岡には、アジアの現代美術を取り上げた最初の美術館があって、その関係で僕も色々なアジアの人と会っていましたから、人脈を買われてアジア担当になったと思います。
◇「アート」という言葉を外したアートイベント
実はそれまでは黄金町のことは全く知らず、行政の人たちから地域についていろいろとレクチャーを受けました。当面、彼らのオーダーは、ともかく1回イベントをやってほしい、ということでした。ですから僕の契約期間も、最初はだいたい1年間でした。
黄金町のイベントには、最初は「アートフェスティバル」という名前が付いていました。僕はイベントの中身を企画したり、コンバージョンというか、場所の改装をしたり、あとは地元の方に説明会をしたりしていました。
1年目の黄金町バザールは2008年の横浜トリエンナーレに合わせて開催しました。トリエンナーレは非常にまじめな、堅い感じの内容だったので、こちらでは違った印象のものをやってはどうかと考えました。そこで、できるだけ楽な、敷居の低い、予備知識なしでも楽しめそうなことを意識していこうと、タイトルから「アート」という言葉を取ってしまいました。それが「黄金町バザール」という名称になるきっかけです。アートイベントですよ、というのを前面に押し出すのはやめよう、ということです。
それによって、選択肢がアートだけではなく、ショップだったりカフェだったり、いろいろな職業のものを並列的に並べられるようになりました。一見お店に見えるけど、実はアーティストがやっていたりとか、本当にお店だったりとか。そういうのを混ぜてしまいました。だから来る人には境目がわからない。それは最初のときに意図的にやりました。
また、見る側がリラックスできるかどうかということが重要だと考えました。
日常的な街で展開するアートイベントというのは、そういうことではないでしょうか。
- 投稿者:東京生活ジャーナル
- 日時:13:15