まちづくりをどのように評価するか -愛着を測ることの可能性と必要性-

編集局 添田昌志

◇時間をかけたことの効果
 今回のインタビューで山口氏、田島氏がともに強調していたことは、まちづくりにおいては住民と意見を交換して集約していくプロセスこそが大切であり、そのプロセスがあるが故に最終的に整備されたものに対して愛着や誇りが生まれるということであった。そして、そのようなプロセスを踏み、お互いに理解し合い、合意形成していくには時間がかかるので、この時間に対する理解を、整備事業を行う行政の側は持つべきだということが述べられていた。
 おそらく、上記のようなことは行政の中でも一部の担当者は分かっていることかもしれないが、時間をかけたことの効果を何かのデータで示すことによって、より多くの人にその重要性を理解させる必要があるのではないかと、私は考える。

◇人の主観によって評価することの意味
 田島氏が最近関わっているまちづくり事例では、補助金を出す側が評価として求めているものは、事業実施前と実施後の人通りの変化なのだそうである。田島氏自身は、それも1つの評価軸かもしれないが、そのような単純な定量的な指標だけで、しかも実施した翌年の1年間の変化だけで、まちづくりの効果が測れる訳がないと憤慨されていた。評価とは、そこに人が新しく愛着を持てるようになったかとか、その街を好きになったかとか、あるいはそれによって何か自分たちの生活が変わったかとか、そういうことでなければならないと。
 私もこの指摘に強く共感する。まちづくりの意味とは、知らない人がどれだけ多くやって来たかということではなく、一義的にはその街に住んでいる人の内面、主観の変化であるべきだと思う。そもそも何事においても人の意識や評価を変えるということは大変難しいことである。まちづくりにおいてその難しいことを成し遂げたのであれば、なぜそのことを評価しようとしないのだろうか。そしてまた、事業のプロセスに時間をかけることの意義は、その効果が持続的に長く維持されることにこそあるかもしれないわけで、なぜ評価も長期的な視点で行わないのだろうか。


◇誰に何を伝えるために研究するのか

 実は私は大学に勤めていた折に、人々の街に対する愛着を測定する研究を行ったことがある。愛着をどのような指標(質問項目)で測るのかということも難しいのだが、当時はそれ以上に、誰を対象に何による愛着の効果を測るのかということ、そもそもの研究の前提に当たる部分なのだが、その設定に一番苦しんだ記憶がある。つまり、当時、大学という井の中に閉じこもっていた私には、街への愛着を変化させうる要因や愛着を測定することの社会的な意義がよく分かっていなかったのである。
 今回のインタビューを通して、野毛商店街のようなプロセスを経て整備された街こそ、そのような愛着の研究対象にふさわしく、そしてその結果を関係者に伝えることが強く求められているのだということに気付かされた。よく、人の主観というのはいいかげんなものなので、だから通行量や経済的指標などの定量的指標を評価に用いるべきだという意見がまことしやかに語られる。上で田島氏が述べられている例はまさに典型であろう。しかし、我々の研究分野では、愛着を測定するいくつかの指標が提案されている。今こそ、それを野毛のようなフィールドに持ち出し、真にまちづくりがもたらす効果を評価して、人々に広く伝えるべきなのではないか。きちんと意図を持って取り組まれていることの効果を正しく評価し、それをより多くの人に伝え理解させることで、取り組みの事例を増やしていくことにこそ、研究の意義があるのではないか。私が関係する分野の研究者の方々にも、そういう意識を持って研究、発信に取り組まれることを強く訴えていきたいと思った。