築地の街の賞味期限

■食のブランドとしての「築地」
 築地は中央卸売市場の存在によって日本人なら誰でも知っている地名のひとつだろう。築地市場に近い=もっとも鮮度が高く質の高い食材を用いているということで新橋、銀座の高級店は「築地直送」をひとつのウリとしている。食のブランドとして「築地」の未来は安泰と思えど、必ずしも、そうではないらしい。
 資料の数字を見ていると1980年代には約80万tあった年間取引量が不況のせいか最近60万tを割り込み、取引金額も総じて減っている。当然、不況の影響はあるだろうが、もうひとつの原因に流通経路の多様化に基づく鮮度のバロメータの変化が挙げられる。最近では「築地直送」にとって代わって「産地直送」を謳う方が消費者に響くのだろう。沿道大型量販店に客をとられる駅前商店街が如く築地にも徐々にその波がかぶりはじめているといったところか。
 それでも街には「築地○○寿司」などと「築地」を店名に掲げる店も多い。その地にあって地名を冠するのは街そのものが食のブランドとして立っていることを象徴するものといえる。
 市場を離れて歩くと、いわゆる「看板建築」に多く出くわす。道路面を銅板張りとし、それぞれその銅板に装飾を施し職人技を競っている震災後に流行った建築スタイルである。震災後につくられた市場とリンクし、戦災を免れたこのエリアには、そんなノスタルジックな外装の料理屋や食材店が数多く残っている。やはり歴史、伝統とそれを維持する信用が安心できる食のブランドとして街並にも担保されているのだという気がした。

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(写真左)看板建築
(写真右)路地に潜む古い民家を改装した料理店

■市場移転と街のアイデンティティ

 しかしながら、食のブランドを確立した築地から中央卸売市場の移転はもはや決定的であり、あとは受け入れ先の豊洲における「食の安全」を脅かす土壌汚染問題を主軸にカウントダウンを待つ者の感情論へと移行している。
 移転ニュースの鮮度はともかく、実際に訪れてみると現実問題として「狭い、古い、形がおかしい」など現在の市場を使う限界があることは見て取れる。トラックの渋滞も半端でないらしく、現状に問題があることには誰も異論はないであろう。
 江戸時代から魚河岸があったのかと思いきや、関東大震災で消失した日本橋にあった民営の魚市場や京橋の青物市場の収容を目的に築地海軍学校跡に1935年に営業開始し、歴史は約70年である。建物は老朽化し、耐震性やアスベストの問題がある。当時は貨車での搬出入がメインであり、汐留から貨車を引き込んでいたことから楕円のカーブを描く「形がおかしい」建物形状をしている。川に沿った配置も水運への関連であろう。しかし今ではほとんどがトラックによる運送であり、道路環境から見ると築地の分は悪い。
 航空写真で見ると23haの敷地の巨大さが伺える。そんな巨大施設不在の70年前以前はどのようだったのだろうか。地下鉄築地駅を降りると有名な築地本願寺が目に入る。インドの様式を取り入れた伊東忠太の代表作である。江戸時代に浅草にあった西本願寺の別院が大火で消失したが、幕府によって与えられた新敷地はなんと海上だったという。門徒を中心として与えられた海を埋め立て、土を築いたことから「築地」となったのだという。その後築地は寺町として多くの寺社が建てられ、寺町として震災前までは屋敷町となっていた。今や遠くまで埋め立てが進み、元海上であったなどという雰囲気は微塵もない。そういう意味ではるか昔から「移転」によってそのアイデンティティを築いている浮遊の土地といえる。
 市場移転後には、跡地はオリンピックメディアセンターの敷地として計画されているとも言われていたが、実際には頓挫している。いずれにせよ、場外商店街は市場移転後も残るという。故郷を失った施設を第二の故郷として受入れて来ることによってその都度アイデンティティを変質させてきた。次フェーズにおいてどのようなアイデンティティを築くのか。
 街として賞味期限を維持する大変さは東京のどのエリアにも共通する問題である。東京の景観が安定しない理由が今までは大火、震災、戦災といったリセットであり、その中での建築様式の変化であった。しかし今後は都市インフラ的な機能性の変化に基づくアイデンティティの揺さぶりが未来の景観像を不安定にする。築地は、食のブランドの維持に努めるのか、新たなアイデンティティを求めるのか。いずれにせよ、現状ではノスタルジー以上の未来の景観像は見えてこない。

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築地市場航空写真(yahoo地図より)

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(写真左)魚市場(wikipediaより)
(写真右)築地本願寺

(川上正倫)