2009年02月 アーカイブ

都市の音風景

■喧騒のメガシティ
 前号では図像で表された都市の表象を扱ったが、今回は聴覚による都市の印象についてである。2000年の春に訪れたバングラデシュのダッカの喧騒は今も耳に残っている。この混雑した街を移動するのには、小回りの利く「リキシャ(Rickshaw)」を使うのが便利である。その語源は「人力車」だが、車夫は自転車で引っ張る。少し遠くまで行くには、人力を小さなエンジンに置き換えた三輪のベビータクシーを使う。空港に出迎えてくれた現地の学生とホテルまでこのベビータクシーに乗ったが、小一時間後にホテルに着いた時には喉がヒリヒリであった。小さなエンジンがあえぎながら走る時に吐き出す煙と凄まじい騒音の中での会話(叫び合い)のためである。ダッカ滞在中は、どこに行っても騒音の圧力に圧倒されていた。大小さまざまな車の調整不良エンジンが出す音に加えて、いろいろな音色のクラクション。こんなに頻繁に誰もが鳴らしてあちこちから聞こえたのでは警笛にならないのではと思う。実際に、街を行く人はほとんど無反応である。このクラクション騒音は発展途上国の大都市ならどこでも見られる一般的現象である。そういった国から日本に来た留学生が、多数の車が走る日本の都市の静かさに驚く理由がよくわかる。

O_1.jpg
あらゆるタイプの騒音源が街を走るバングラデシュの首都ダッカの中心街

■聴覚的ランドマーク
 昨年のローマではまったく違った街の音を体験した。それは人とトレビの泉で待ち合わせをした時のことである。近くまで来て見通しがきかない曲りくねった道に迷っていたところ、噴水の音が聞こえ、それに導かれてたどり着くことができたのである。このあたりは細い道の両側に石造の建物が並んでいるので、その壁に音が反射してきたのだろうか。それをたどって行くと徐々に音が大きくなり目的地に接近しているのが実感できた。トレビの泉は遠くから見ることができないが、噴水の音が聴覚的なランドマークとしてその場所を特定するのを助けている。こういった聴覚的なメリハリのある音風景が都市の体験を豊かにしてくれるのだろう。

O_2.jpg
(写真左)細く見通しのきかない古いローマの街路 
(写真中・右)トレビの泉

■東京の音風景
 東京はクラクションの騒音は最小限だが、聴覚的なランドマークも思い当たらない。環境庁(現・環境省)が1996年に選定した「日本の音風景100選」には、東京都23区から、「柴又帝釈天界隈と矢切の渡し」が下町ならではの雑踏と江戸川の野鳥の声、朝昼晩の時を告げている上野のお山(寛永寺)の「時の鐘」、石神井公園に近い「三宝寺池の鳥と水と樹々の音」が入っている。しかしこれを日常の中で意識した人はそれほど多くはないだろう。聴覚による情報は、「耳を澄まして」注意を向けて聞こうとしない限り意識に残らない。だから、街の音が場所と結びついて感じられ記憶されるのは、特定のイベントに関連付けられている場合が多い。三社祭りの頃には神輿を担ぐ掛け声や囃子が浅草界隈の街の音になり、また大晦日に近くなると上野のアメ横には売り手の掛け声が連想される。
 こういった伝統的な街の音ではなく、人工的に音風景(サウンドスケープ)をデザインしようとする動きがある。蒲田駅の「蒲田行進曲」などの駅メロ、発メロや、ディズニーランドのアプローチでの音楽など、その場所を印象付けたり、高揚感を演出したりするのはいいとしても、公衆トイレなどでBGS(Back Ground Sound)として鳥のさえずりなどをスピーカーで流しているのはいただけない。「鳥のさえずりが聞こえるほど自然が豊かだ」というように、音風景がそこの環境の質(アメニティ)を捉える一つの大切な指標であるのに、それが狂わされて違和感を覚えるからだろう。アメニティの意味は “the right thing in the right place”つまり「しかるべきものがしかるべき場所にあること」と言われるが、都市の音風景についても、正にそう言えるように思う。

O_3.jpg
(写真左)三社祭りの神輿 
(写真中)大晦日のアメ横 
(写真右)ディズニーランドのアプローチ

(大野隆造)

駅から降りたときの気持ち

■ほっとする風景
 私が住んでいる街は、JR東海道線の茅ヶ崎駅を使う。北側は、大型小売店やらディスカウントストアやらが立ち並び、バスやタクシーが時間待ちで並び、市役所もありスターバックスやツタヤもある、比較的にぎやかだけれども、なんの変哲もない郊外駅前ロータリーなのだが、私が住んでいるのは南側。
 やはり何の変哲もないさびれたような駅前で、ぽかっと開けたロータリーにはモニュメント、ミモザのような花をつける(たぶんアカシアの一種だろう)大木と、放射状に広がる地元密着型の商店街がある。
 ところが、これがおもしろいもので、仕事から帰って駅に降り立ち、南側のロータリーに出て、「ミモザのような花をつける木」(長ったらしいが、心のなかでこう呼ぶ習慣がついてしまったのだ)とモニュメントの上にある時計(朝は、この時計をにらみながら駅に駆け込むわけ)を見ると、ほっとするのである。
「帰ってきた」「私のテリトリーだ」という感じ。
                   *
 きっと、どのような駅前であっても、そこに住まう人たちには「ほっ」と目を留めるなにかがあるのだとは思う。それが、「住む」ということであって、自分の生活が根を下ろしている街、買物したり駅まで歩いたり食事をしにいったりするなかで、目に見えないけれど確実なマークをつけてある街だから、駅前に、心のなかでもっとも目立つマークを持つ。駅は、点ではあるけれど、「私の街」と「世間/そと」との境界(線)なのだ。

■駅前のマーク
 さて、ところが、私が住人として住んだ街を思い起こすと、この境界上のマークをもう思い出せないところと、はっきり覚えているところがある。JR阿佐ヶ谷駅の商店街の入り口にある看板と並木道は、いまも懐かしい思いさえするマークだった。
 すぐに駅の名前を思い出せない、京王線沿線のある街では、なぜか踏み切りだった。電車で帰ってくる都合上、駅ではいつも踏み切りの音(なんと言うのだろう、警戒音というかカンカンカンというあの音だ)を耳にしていたことも関係あるかもしれない。
 小田急線沿線のある街、東急田園都市線沿線の街は、どうも思い出せない。いま、茅ヶ崎駅の北口を思い出すときに、イトーヨーカ堂のハトのマーク(いまはセブンイレブンホールディングスになっているが)を思い出すように、東急系のスーパーマーケットのマークが思い浮かぶくらいだ。それも、記憶なのか想像なのか、区別がつかない。
 街の開発が、駅の開発とセットになることが多い以上、駅前の大型ショッピングセンターは必須なのかもしれない。けれど、その圧倒的な存在感というか、圧倒的な広告力によって、そのほかのささやかな、人が眼と心を留めたい物の存在感を失わせてしまう。
 これは単なる思い付きなのだけど、いま各地で問題となっている郊外大型ショッピングセンター建設と、駅前商店街の衰退も、立地だけから言うと「そういう共存もありなんじゃない」とさえ思ってしまう。大型ショッピングセンターは、ある種隔離された空間にあったほうが、ふさわしい気がするのだ。
                    *
 かつて、家路につく、といい、家の明かりをみてほっとすると言った。私がどう感じているか、よくよく考えてみると、家の明かりをみたときよりも、自分の駅に降り立ったときのほうがほっとする。駅の改札を出たときに、オンのモードがオフに切り替わる。
 駅は駅であればいいのだけれど、もう少し、と思う

(辰巳 渚)

築地の街の賞味期限

■食のブランドとしての「築地」
 築地は中央卸売市場の存在によって日本人なら誰でも知っている地名のひとつだろう。築地市場に近い=もっとも鮮度が高く質の高い食材を用いているということで新橋、銀座の高級店は「築地直送」をひとつのウリとしている。食のブランドとして「築地」の未来は安泰と思えど、必ずしも、そうではないらしい。
 資料の数字を見ていると1980年代には約80万tあった年間取引量が不況のせいか最近60万tを割り込み、取引金額も総じて減っている。当然、不況の影響はあるだろうが、もうひとつの原因に流通経路の多様化に基づく鮮度のバロメータの変化が挙げられる。最近では「築地直送」にとって代わって「産地直送」を謳う方が消費者に響くのだろう。沿道大型量販店に客をとられる駅前商店街が如く築地にも徐々にその波がかぶりはじめているといったところか。
 それでも街には「築地○○寿司」などと「築地」を店名に掲げる店も多い。その地にあって地名を冠するのは街そのものが食のブランドとして立っていることを象徴するものといえる。
 市場を離れて歩くと、いわゆる「看板建築」に多く出くわす。道路面を銅板張りとし、それぞれその銅板に装飾を施し職人技を競っている震災後に流行った建築スタイルである。震災後につくられた市場とリンクし、戦災を免れたこのエリアには、そんなノスタルジックな外装の料理屋や食材店が数多く残っている。やはり歴史、伝統とそれを維持する信用が安心できる食のブランドとして街並にも担保されているのだという気がした。

K_1.jpg
(写真左)看板建築
(写真右)路地に潜む古い民家を改装した料理店

■市場移転と街のアイデンティティ

 しかしながら、食のブランドを確立した築地から中央卸売市場の移転はもはや決定的であり、あとは受け入れ先の豊洲における「食の安全」を脅かす土壌汚染問題を主軸にカウントダウンを待つ者の感情論へと移行している。
 移転ニュースの鮮度はともかく、実際に訪れてみると現実問題として「狭い、古い、形がおかしい」など現在の市場を使う限界があることは見て取れる。トラックの渋滞も半端でないらしく、現状に問題があることには誰も異論はないであろう。
 江戸時代から魚河岸があったのかと思いきや、関東大震災で消失した日本橋にあった民営の魚市場や京橋の青物市場の収容を目的に築地海軍学校跡に1935年に営業開始し、歴史は約70年である。建物は老朽化し、耐震性やアスベストの問題がある。当時は貨車での搬出入がメインであり、汐留から貨車を引き込んでいたことから楕円のカーブを描く「形がおかしい」建物形状をしている。川に沿った配置も水運への関連であろう。しかし今ではほとんどがトラックによる運送であり、道路環境から見ると築地の分は悪い。
 航空写真で見ると23haの敷地の巨大さが伺える。そんな巨大施設不在の70年前以前はどのようだったのだろうか。地下鉄築地駅を降りると有名な築地本願寺が目に入る。インドの様式を取り入れた伊東忠太の代表作である。江戸時代に浅草にあった西本願寺の別院が大火で消失したが、幕府によって与えられた新敷地はなんと海上だったという。門徒を中心として与えられた海を埋め立て、土を築いたことから「築地」となったのだという。その後築地は寺町として多くの寺社が建てられ、寺町として震災前までは屋敷町となっていた。今や遠くまで埋め立てが進み、元海上であったなどという雰囲気は微塵もない。そういう意味ではるか昔から「移転」によってそのアイデンティティを築いている浮遊の土地といえる。
 市場移転後には、跡地はオリンピックメディアセンターの敷地として計画されているとも言われていたが、実際には頓挫している。いずれにせよ、場外商店街は市場移転後も残るという。故郷を失った施設を第二の故郷として受入れて来ることによってその都度アイデンティティを変質させてきた。次フェーズにおいてどのようなアイデンティティを築くのか。
 街として賞味期限を維持する大変さは東京のどのエリアにも共通する問題である。東京の景観が安定しない理由が今までは大火、震災、戦災といったリセットであり、その中での建築様式の変化であった。しかし今後は都市インフラ的な機能性の変化に基づくアイデンティティの揺さぶりが未来の景観像を不安定にする。築地は、食のブランドの維持に努めるのか、新たなアイデンティティを求めるのか。いずれにせよ、現状ではノスタルジー以上の未来の景観像は見えてこない。

K_2.jpg
築地市場航空写真(yahoo地図より)

K_3.jpg
(写真左)魚市場(wikipediaより)
(写真右)築地本願寺

(川上正倫)


色彩の持つ力

■色に対する説明力
 先日、吉祥寺の楳図かずお邸に対して、周辺住民が「閑静な住宅街の景観が破壊される」として外壁の撤去や損害賠償などを求めた訴訟の判決が出された。判決は、現地周辺には外壁の色に関する法規制がないことや、他にも黒や青など様々な色の建物があることなどから、住民が景観を享受する利益(景観利益)を侵すことにはならないと判断し、「原告に不快感を抱かせるとしても、平穏に生活する権利を侵害するとは言えない」と結論付けた。この建物については、騒動が持ち上がって以来何度かこのコラムでも取り上げてきたが、今回の判決は予想通りのものであった。やはり、事前に何らかの取り決めを作っておかねば、建った後から何を言っても遅いのである。

 裁判には勝った楳図氏ではあるが、しかし、その自邸に対する弁論は、個人的には受け入れ難いものがある。氏はその外観について、「赤白のストライプは私の高校時代からのトレードマーク。自己表現の1つであり、変えることはできない。」と述べている。言うまでもなく建物は個人の財産であると同時に街の共有財でもある。上記の弁論はあくまでも私観のみに基づいた見解であり、共有財として、街の視点から見た時にその建物がどのような意味を持つのかを全く語っていない。

■色による街の活性化
 私は、建物に原色を使うこと自体が間違っているとは思っていない。むしろ色彩により、街を活性化できる場合があるのではないかと考えている。下はオランダの集合住宅の写真である。オランダはその平坦で単調な地形ゆえ、如何にその単調さに変化を与えるかということに力点が置かれ、建物はそれぞれ個性的な形をし、外観もカラフルなものが多い。色の使い勝手がうまく、原色であっても不快な感じはせず、華やかな印象で、明るい気持ちにさせられる。

S_1.jpg

S_2.jpg

 一方、下の写真は私の住んでいる地域にある団地の写真である。先日その外壁が塗り替えられ、旧来の白一色の外壁にアクセントカラーとしてベージュがあしらわれる事となった。しかし、厳しいことを言うようであるが、この配色はなんとも中途半端で、アクセントはつけたいけれど、あまり派手な色は避けたいという、色彩に対する妙な保守性が現れてしまっている(ちなみに、この配色にすることは住民の多数決によって決められている)。結果として、かえって団地の古さを感じさせることになっているのではないだろうか。近年、老朽化した団地の再生ということが頻繁に取り上げられているが、何の特徴もない郊外の団地にこそ、もっと大胆な色使いによる再生・活性化という発想があってもよいと思う。

S_3.jpg

S_4.jpg

 現状、都市景観に関する多くの論説や、各地で制定されつつある景観に関する条例のほとんどは色彩を規制する方向にある。楳図邸に限らず、例えば、九段のイタリア文化会館のように、目立つ色を叩くことは簡単である。しかし、規制するだけが色彩というものが持つ力を活かすことになるとは思えない。景観、景観と騒ぎ立てることで、カラフル=悪という単純な認識が広がっているとしたら、本末転倒なのではないだろうか。
 真の意味の色彩の調和とは、多彩な色を使いこなせるようになってこそだと考える。そして、それによって多様な都市の価値が生み出されるだろう。一昔前のサラリーマンの背広のようにグレー一色に染まった街は決して美しくない。
 実際のところ、都市景観において色彩がもたらす効果をきちんと客観的に説明することは非常に難しい。しかし、色の持つ力を活かした美しい街並みを作るためには、なんとなくベージュの色を選んでしまう人々の視野を広げ、理解を促すことから始めなければならない。そのためには、多くの人が納得できる優れたデザインを提示するとともに、共有財として、街の視点から色彩がどのような価値を持つのかを、難しいけれどもきちんと説明するという姿勢こそが不可欠である。

(添田昌志)