2009年01月 アーカイブ

都市の表象を作る

■北京の新名所
 昨年の10月、北京であった学会の合間にオリンピック公園に足を運んだ。建築的に興味深いオリンピック施設をゆっくり見学しようと思ったのである。しかし閉幕から2カ月も経っているというのに、そこで見たのはまだ開催中かと思うほどの熱気と混雑であった。お揃いの帽子をかぶった団体旅行客が長蛇の列をなして施設を取り巻き、とても接近できない。これはダメだとあきらめて、天安門広場の人民大会堂裏にできた国家大劇場を見に行ったが、そこでもやはり団体旅行客の波に圧倒された。どうやら、オリンピック前に建てられた建築物は北京の新名所として大いに人々を引き付け、観光資源として定着しつつあるようである。
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(左)北京国家体育場(通称「鳥の巣」)
(中・右)国家大劇場の外観と内部の入口

■都市の新たな表象
 旅行社に置いてある海外旅行用の観光パンフレットを見ると、どこの都市を表しているか一目でわかる挿絵がある。それは多くの人によって共有されている都市の表象(イメージ)が図像として描かれているのである。歴史的な建造物がほとんどであるが、シドニーの表象として描かれるオペラハウスは例外的に近代の建築である。このオペラハウスはコンペで選ばれた建築家ヨーン・ウッツォンの設計だが、帆船の帆を連想させる独創的な形状とコンクリートシェル構造の難しさなどにより工期が10年も延び、総工費は当初予定の実に14倍以上にもなるなど多くの困難を乗り越えて完成したものである。しかし完成後は世界的に良く知られるようになり、2007年には世界遺産として登録され、年代的に最も新しい登録建築物となった。紆余曲折を経て建てられたこのオペラハウスは、シドニーにとどまらずオーストラリアの表象として定着したのだから、結果的には決して高い買い物ではなかったのである。

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(左)海外旅行用の観光パンフレットの挿絵
(右)シドニー・オペラハウス

■東京の表象
 では、東京を表象するものは何であろうか。残念ながらこれと思い当たるものがすぐに浮かばない。試みに、はとバスで売れ筋の観光コースとして紹介されているものを見ると、皇居、靖国神社、浅草仲見世、お台場、六本木ヒルズ(シティービュー)が挙げられている。これらを図像として表したとしても、誰もがすぐそれとわかるとは思われない。また、外国人観光客向けのガイドブックを見ると、人気スポットとして秋葉原と築地が挙げられている。これに至っては、図として表すのは不可能である。だからといって東京に魅力がないというわけではない。海外の都市が図として表しやすい建造物を中心に置いた空間で表象されているのに対して、東京では動きまわる中で体験される広がりのあるエリアに特徴が見いだされる。これはちょうど西欧の幾何学的な構成の庭園と日本の回遊式庭園の違いである。とは了解しても、北京で新しく奇抜な建築が多くの人々を引き付け、そのうちに世界の人々の意識に北京の表象として定着するかもしれないと思うと、やはり東京に無くて良いのか・・・・と思えてくる。
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(左)浅草の仲見世
(中)秋葉原
(右)築地市場

(大野隆造)

おいしいパン屋がある街は住みやすい

■住みやすさの条件
 なんでも「○か条」とかにしてしまうのは、魅力的ではあるけれど危険なことでもある。なぜなら、それはすぐに紋切り型になり、それ以外のあいまいで奥深いゾーンへの関心を失うことになりかねないからだ。
 でも、「○か条」のように洗い出し作業をすることで、もやもやとした感覚がすっきりした視点として整理できるのも事実。つまりは、この作業は、結果として「学ぶ」側には面白みが少なく、結果まで到達する側にはめくるめく快感のある作業なのだと思う。
 と、前置きが長いのだが、要は「そっか、住みやすい街の条件として『おいしいパン屋のある街』という条項があるな」とわかった、という話だ。
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 「住みやすさ」とは、数値化しにくいものだ。どんなことでもそうだが、人と世界との関係性には、レベルがある。生物学的レベルにおいては「生きられる」--たとえば、雨に当たらない、清潔である、最低限の居住面積が確保されている、トイレがあるといったこと--、人文学的レベルにおいては「住める」--たとえば、隣とのプライバシーが保たれる、生活に必要な商店がある、道路が整備されているといったこと--。これらのレベルは、数値化しやすい。たとえば、「国富」がGDPや国民の数といった数値では計りやすいように。
 では、「住みやすい」の内容はなんだろう。いわば哲学的レベルのことは、人それぞれでもあるし、「気持ちいい」「くつろげる」は数値にできない。「便利」でさえも、なにがどう便利かは、このレベルにおいては数値とはイコールではない。駅から徒歩5分が便利なのか、駅から徒歩30分でも犬と散歩したい海岸へ徒歩2分のほうが便利なのか、毎日食材を買うスーパーまで車で5分が便利なのかコンビニまで徒歩1分が便利なのか……。

■「パン屋」の意味
 ところが、「パン屋」という指標は、なかなか有効なのだ。おいしいパン屋があるとは、ただ「○○というパン屋が徒歩圏にある」という話ではない。
 それは、パンだけでなく食生活にそれなりに心をかけている人が住んでいることを意味する。東京圏であれば、新宿や銀座のデパ地下で「おいしいパン」を買って帰るのではなく、地元でこまめにパンを買いたいと考える人が住んでいるということも。ということは、住生活や地域での暮らしに、それなりに心を注いでいる人が住んでいる街ということだと思う。そして、おいしいパンというのは作り手の意識も高いものであって、そういう作り手が店を張る地として選んだということでもある。
 こういう単純だけれども、その意味するところが幅広く豊かな指標が、ほかにもいろいろあるはずだ。本来なら、「いごこちのいい公園がある」も、その指標となるもののはずだけれど、公園に関しては形だけの児童公園を役所がせっせと作ったりしてきた歴史があるために、指標とはならなくなってしまったのが残念だ。
 付け加えておくと、「小学校が街のなかの一等地にある」というのも、なかなかいい指標だと思うのだが、いかがだろうか。

(辰巳 渚)

都市とホテル

 この年末年始に旅行に行かれた方も少なからずいらっしゃるだろう。旅行に不可欠なものと言えば、宿泊施設である。今回は、東京のホテル、特に近年開業した高級ホテルについて焦点を当ててみたい。

■2007年問題再燃?
 下表は、近年に開業した東京の高級外資系ホテルの一覧である。これらのホテルは、海外の超一流ブランドを冠し、標準的な客室料金が6~7万円台と、それまでの高級ホテルとも一線を画した非常にグレードの高いものとなっている。この開業ラッシュは当初「2007年問題」として、客室数の供給過剰につながると危惧されていた。しかし、蓋を開けてみると、いずれのホテルも開業時の稼働率は大変好調で、また既存のホテルの稼働率も押し上げられたことから、「外資系高級ホテルの進出によって新しい市場が創出された」とまで言われるようになった。ところが、昨年起こった金融危機による景気の悪化により、主要な顧客であった外資系企業のビジネス利用が減少し、一転、稼働率は低下しているという。米国の「住宅バブル」のように、東京のホテルの「新しい市場」もあっけなく崩れ去ってしまうのだろうか。
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■ホテルの公共性

 個人的には、このような世界に名を馳せる超一流ホテルが東京にできることは、東京の国際的な地位を押し上げ、また利用者にも選択の幅が広がるという意味で歓迎されることとは思う。しなしながら、「高級」、つまり値段が高い、ということだけが売りになってしまっている(ように見える)ことには、強い違和感と危惧を覚える。
 元来、ホテルとは公共的な都市の施設であった。明治期以降の日本のホテルの歴史的経緯を顧みると、外国人向けの宿泊施設として始まりながら、その後多くの貴賓達による様々な会合、宴会が行われるようになり、人々の社交場としての機能を持つようになった。また、大正期においては、市民の交歓の場としての機能が重視され、ダンスや演劇などの催しが繰り広げられ、都市における文化の中心としての一面を持っていた。つまり都市の経済、文化的な役割の一端を担い、都市とともに発展してきたのである。そのような公共的性格を持つが故に、都市を語るに欠かせない著名なホテル(香港:ペニンシュラホテル、東京:帝国ホテルなど)が存在しえるのである。

■都市再開発と複合する意味
 仮に、現在のホテルが、富裕層の自尊心をくすぐり、単なる個人的な消費の対象としてしか存在し得ないのであれば、ホテル本来の役割とは合致しないだろう。そこには都市への眼差しが必要なのではないだろうか。
 上に述べたホテルのもう1つの共通点は大規模な再開発とセットになっている点である。いずれの再開発も「独自の」都市の新しい複合形態を目指すと謳っている。そこに高級ホテルがセットされている意味を改めて捉え、新しい複合のあり方、ホテルの公共的位置付けを提示することこそ、あっけなく崩壊してしまう「市場」に寄らない、普遍的なホテルの存在意義につながるものと期待したい。
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ザ・ペニンシュラ東京

(添田昌志)

参考文献:
東洋経済オンライン http://www.toyokeizai.net/
勝木祐仁:「明治・大正・昭和初期の都市に建設されたホテルの平面計画の実態」東京工業大学博士論文(2001)

巣鴨の未来に世界遺産の夢は見られるか

■心のとげを抜く
 高齢化社会などと言われて久しいが、心の準備が出来ている街がどれほどあるのだろう。巣鴨に、おばあちゃんの原宿こと巣鴨地蔵通り商店街がある。本年元旦、さすがの東京各地もひっそりしている中を訪れてみると正月早々からかなりの賑わいであった。

 もともとこの商店街は旧中山道であり、江戸時代より日本橋から板橋宿に至る最初の休憩所として昔からにぎわっていたとのこと。巣鴨地蔵通りは通称とげぬき地蔵の参道となっており、商店街は巣鴨駅あたりから庚申塚まで約800mの長さを誇る。この商店街には200軒近い商店が並び、「4」のつく日に開かれる縁日には一日10万人、年間で800万人が訪れるという。正月の人出はそのほとんどがおばあちゃん…、というわけでもなく実際には老若男女バランス良くといったところか。むりやり特徴づけるとすると正月故におばあちゃんを中心とした一族総出で赤ちゃんから老人まで出かけていって心配が少ない初詣場所に出かけて来たといったところであろうか。まず、地下鉄駅から地上へのエスカレータに乗ると「?」と違和感を覚える。明らかに遅い。あとからこれは老人にやさしい速度設定になっていることを知った。到着からおばあちゃん仕様である。

 主目的地であるとげぬき地蔵は、痛みを抜いてくれる仏としてこれまたおばあちゃんにはもってこいのありがたい仏様なのである。ほか、それを巡る地蔵通り商店街のほとんどの部分で歩道に段差はなく、また歩道と店舗の間も段差がない。ポップの文字も大きいし、売っているものもおもしろい。「おばあちゃんの原宿」というからにファッション系のショップも多く、保温性の優れた機能的なものから最先端「赤パンツ」などのヒット商品が並ぶ。当然有名ブランドの入り込む余地はなく、グローバル展開しているチェーン系のものはほとんどないところも垣根の低さとコミュニケーションを生んでいる。店内トイレを開放している店舗も多い。

 さらに郵便局前や公園など要所要所に休憩広場が設けられていて、ベンチに腰掛けて和菓子屋の店先で仕入れた塩大福や団子などを頬張ったりしているグループも。縁日の日にはなんと銀行がホールを無料開放してお茶などを出してくれるそう。「体の痛みを抜くのはとげぬき地蔵、心の痛みを抜くのは地蔵通り商店街」というコピーを体現するホスピタリティである。基本的には「とげぬき」というおばあちゃん向けのご利益と周辺の商業がニーズにうまく応えている結果の自然な盛り上がりである。

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元旦から賑わう巣鴨地蔵通り商店街

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とげぬき地蔵脇の広場

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郵便局脇の広場

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おばあちゃん向けファッションの店

■おばあちゃんの原宿という景観
 巣鴨地蔵通り商店街は、歴史と文化を大事にした、ふれあいのある、人の優しい街として2006年には、中小企業庁制定にがんばる商店街77選に選ばれている。お詣りという定期的な行為と結びついた門前町としての相互的な関係を築いていると評価されてのことである。2008年4月には、本の街神保町などと並んで巣鴨地蔵通り商店街が、文化庁から「文化的景観」の主に生業に関わる商店街の景観の「重要地域」として指定された。世界遺産でもこのような人の営みに注目した「文化的景観」がトレンドとなっているからには、巣鴨も…?しかしながら、観光を味方につけて順風満帆のように見える中にもそれなりの悩みもあるようである。

 いわゆる高度成長を支えた団塊世代がこの循環の下支えとなっている「信仰」に興味が薄いということである。当たり前であるが文化的景観は、文化を失っては成立しない。駅前商店街では、廃止される例も多い中で傘をささずに買物できるということでこれまたおばあちゃん向けのアーケードを残しているだけでなく、アーケードにソーラーパネルを乗せるという改修まで行っている。徹底したバリアフリー化と平行したエコ化によって人にも地球にもやさしい商店街をめざしている。宗教という意味での「信仰」は薄れども、このような信条は文化を継続する上で信仰と同義である。やさしさ特化の文化が世界遺産となるまで成熟させ、原宿が若者の巣鴨と名乗ることでアイデンティティを表現するようになる何かを獲得できることを期待したい。

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バリアフリーと店先コミュニケーションによる門前町商店街の文化的景観

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初詣客で賑わうとげぬき地蔵

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駅前商店街アーケードとソーラーパネル

(川上 正倫)