汐留に流れは来るのか?

■汐留の歴史と現状
 汐留は江戸時代には大名屋敷が立ち並ぶ武家屋敷街であったなどと、今の街並を見て想像がつくだろうか。明治になって政府に接収され鉄道の拠点となった。それからしばらく鉄道貨物駅として機能していたが、80年代後半に廃止され、跡地が再開発されることになった。武家屋敷の遺跡発掘などでしばらくは更地だった。学生時代に工事現場に忍び込み、敷地境界までビッチリと建物が建ち並ぶ様、銀座のネオンと敷地の暗さの対比を眺めながら都市の不思議さを友人たちと議論した記憶がある。2000年代になりようやく超高層が生え始め、都市らしくなってきた。それでも2008年12月現在で未だに工事中の部分が散見される。
 さて、歩いてみて感じるのは、街としての寂しさ。大勢のサラリーマンが働くビルがこれだけ建っているのに人の気配が薄い。昼になるとランチを食べにビルから人が一斉に降りて来ると「こんなに人がいたのか!」と驚かされる。実は地表レベルは車優先となっており、地下に潜ると現実には人が大勢行き交っている。ビルの中、地下の活気が地表に表れてこないのがこの街を異様な雰囲気にしている。その感覚をより強くしているのが、交通網による視覚的、身体的な断絶感である。もともと鉄道拠点だったこともあり、新幹線は通るわ、ゆりかもめはすり抜けて行くわ、おまけに首都高までといった具合で何やら曲線をえがく高架が多い。その高架の隙間に超高層が乱立する様はまるで屏風を立てたようで、汐風をとめてヒートアイランドを引き起こしているとの批判も真偽の程はともかく視覚的に頷けてしまう。
 この超高層が立ち並ぶ様もそれぞれの建築計画的な成功はさておき、東京の無計画さを表層するものとなっている。更地からの再開発なのだからうまくやれるはずなのに、と思わずにはいられないが、逆に設計者としては超高層を成立させるのに全力を注ぎながらも、隣に建つ超高層がどんなものになるかという相互関係は考える余地がなかった事情も理解できる。アムステルダムの再開発事業を鑑みて、このような相互関係が成立する再開発には、行政の強権が必須となる。デザインに口を出さないまでも、全体の運営に口出ししてコントロールする権力が必要なのである。まあ、汐留に君臨する日本の大企業群の前では行政もなかなか言いたいことも言えないのであろうが。

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(写真左)方向性がバラバラの超高層がつくる屏風
(写真中)足下を断絶する交通網
(写真右)多少人々が行き交う地下部分

■「イタリア」の意味 
 そんな都市計画のあり方について思いを馳せながらシオサイトエリアを歩いていると、線路向こうに列柱を貼付けた巨大なJRAの建物が目に入った。工事中で線路下を渡れないので、汐留の一部とは思えないくらいアクセスが悪いのだが、再開発エリアに含まれていたので大回りして行ってみた。近づくと周囲のコンクリートの白基調のビル群とは一線を画すヴィータイタリアと名付けられた一角であった。パステル調の建物群に囲まれた広場的スペースがあり、脈略のなさは東京であってもかなり上位に位置づくであろうが、JRAの警備員がちらほらいる他には、ここもまた閑散としていてなんだか不思議な街である。この一角はシオサイトと異なりある意味相互関係がとれている。「イタリア!」というキーワードの下に事業者が同じ方向を持って建築している。感想として日本でもやればできるんだという気持ち半分、なぜ「イタリア」なんだという気持ち半分。
 新橋へ戻りがてら超高層の足下の旧新橋停車場の遺構を用いた建物を眺めながら、恵比寿で感じた歴史を伝達することの難しさを感じた。都市計画のあらゆる難しさを体感できる街が汐留であるといって過言ではないだろう。いずれにせよ、新しモノ好きの日本人をしてもまだ汐留ブームを起こし得ていない。流れが訪れるかどうかは、まだ余地の残る開発途上の地で、視覚的にも歴史的にも起こっている断絶をいかに連続させていくかにかかっているように感じる。

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(写真左)オリジナリティを感じない地下イベントスペース
(写真中)超高層に囲まれて逆に脈略を失っている
(写真右)歴史建造物としての旧新橋停車場

(川上正倫)