浅草のベンチマークは何なのか?

■浅草の建築デザインコンペ
 浅草雷門の斜向いにある「浅草文化観光センター」が老朽化などを理由に建替えられることになり、建物のデザインを決定するコンペが実施されている。このコンペの要項で重要な項目のひとつとして謳われているのが、敷地ならびに浅草の「土地の記憶」に対する建物の位置づけである。当然といえば当然の要求なのであるが、果たしてここでいう「記憶」とはどのようなものなのだろうかとふと気になった。浅草の歴史や伝統を継続するというように与件を解釈すれば展示内容などのソフト面では理解できるのだが、ハードたる建物にとって土地の記憶を位置づけることによって、どのような影響を与えうるのだろうか。
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現在の浅草文化観光センター

 建物がその土地固有の資材や情報をもとにつくられていた時代においては、建築が敷地に立つということ自体が「土地の記憶」を担っていたはずで、本来だったらコンペの要項として敢えて謳う意味すらなかったのである。また、駅舎や工場といった、それまでになかった新しい機能に適合したビルディングタイプであれば、それもそれでひとつの文脈となりえただろう。しかし、「文化観光センター」とは、出来合いのビルに入居しても成り立ってしまうような機能(建物のプログラム)なのである。そして、その場から浅草を見渡した際の景観もまた、記憶継承の論拠とするにはハードルが高い。そういう意味で、浅草文化観光センターであるからには浅草を表現するような建物であるべきだ、という根拠自体のあやふやさが急にひっかかった。


■浅草のランドマーク

 コンペのことはさておき、浅草建築の流れを概観すると実にランドマークの歴史と言えることに気づいた。雷門は、平安時代からの存在がいわれているが、江戸時代に何度か消失していて、1865年に消失してから100年程はたって今の形に修復されたという経緯がある。そのほか、今はなき煉瓦の塔、凌雲閣や看板建築の代名詞で仁丹ビル、神谷バー、花やしきにスタルクのアサヒビールホールと、時代時代で浅草の代名詞となるランドマークには枚挙にいとまがない。そして数年後には、ちょっと離れるが東京スカイツリーも完成して更なるランドマークが増える。そういう意味で東京の中でランドマークのベンチマークが浅草に集中しているといってよい。ランドマークは本来孤高の存在として象徴性を高めるはずであるが、これだけ林立すると場の象徴性も高まっている。それが浅草のもうひとつの熱気になっているのだろうし、祭りや芸能といった無形のものに有形の偶像を与えるということで「記憶」を継承するのか、と思うとごちゃごちゃの浅草の景観が凛々しく思えてきた。

 三社祭の風景を見るにつけ、結局そのランドマークに集まる賑わいこそが浅草を記憶するベンチマークなのだと思う。

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黄金色に輝くアサヒビール建物群

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三社祭りで神輿を取り巻く人の渦

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明治末期、大池越しに見た浅草十二階(手彩色絵はがき)
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(川上正倫)