2008年11月 アーカイブ

都市の時間割(タイム・バジェット)

 この10月、中国・承徳を訪れる。北京から北へ250kmに位置し、清の皇帝の離宮(避暑山荘)や外八廟と呼ばれる寺院がそれを囲むように点在する。現在は一般に公開され、ユネスコの世界遺産に登録されて多くの観光客を集めているが、今回の話題はこの観光スポットではない(とは言え、写真は紹介しておこう)。

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(写真左)避暑山荘 
(写真右)外八廟の一つ普楽寺

■中国の市場
 今回の話題は、市の中心で毎朝開かれる青空市場についてである。これは日本の観光地などで見られる朝市とは、その規模においてまるで違うし、また観光客相手ではなく一般市民の日常生活を支える大切な役割を果たしている点でも異なる。毎朝、近郊の農家から正に産地直送の作物が大量に運び込まれる。通りには、野菜だけでなく魚や酒、香辛料、煙草から衣類まで種々雑多な商品であふれ、ごった返す客と売り手の叫び声で満たされた巨大な露天のショッピングモールと化す。屋台の簡易食堂やら路上の床屋、自転車の修理屋まで店を広げる。それも9時を境に一変する。終了時間を大声で告げる警察の後ろに清掃員が待ち構えていて、本来の交通インフラの役目に戻す作業が手際よく行われる。

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(写真左)承徳市中心街の青空市場
(写真中)待機する清掃員
(写真右)市場終了後の様子

 こういった朝の光景は、ここ承徳に限らず、中国の多くの都市で見られる。かつて一月ほど滞在した瀋陽では、朝だけでなく晩にも、ナイトマーケットが出現し、広場が臨時の屋外ダンス場や小さなアミューズメント・パークになったりする。街路や広場など都市の公共空間は時間帯によってその使われ方がダイナミックに変化するのである。

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瀋陽市滑翔広場で日没後に見られるダンスと露天食堂

■時間による使われ方の変化
 こういった時間による空間利用の変わりぶりには驚かされるが、市民にとってはルールに従った空間の有効利用(タイム・バジェット)である。ひと昔前の日本住宅の部屋が時間によって、茶の間になったり寝室になったりしたのと同じように、都市の同じ場所で時間によって異なる活動が行われる仕組みである。西欧の「先進的な」都市では活動が行われる場所がそれぞれ用意されているのに対して、都市施設が未分化の状態と見ることもできる。しかし、そこで展開されるエネルギッシュな活動とそれがもたらす高揚感は、アジア的な都市の風景として重要な価値を有しているように思う。
 
 東京にもわずかであるがタイム・バジェットが見られる。銀座通りは土日の12時から「歩行者天国」になる。しかし、とても中国で体験したような高揚感が得られる活気がない。かつては、「たけのこ族」などのストリート・パフォーマーで活況を呈した原宿の歩行者天国も、その過激な活動が取締りの対象となり、姿を消してしまった。最近では、地域の祭でさえ若者の逸脱行為に手を焼く場面が見られる。暗黙のルールにのっとった活気のあるストリート・ライフは日本では体験できないのだろうか。

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銀座通りの歩行者天国(before and after)

(大野隆造)

マンションか戸建かの問い

■マンションか戸建か
 マンションといえば土地が少ない都市や都市近郊の住まい方、という感覚はだんだんなくなってきているような気がする。なぜなら、いまどきは地方都市の郊外でも、下手すれば地方の小さな町の駅前でも、マンションが林立する時代だから。
 同時に、都心だって10数坪の土地に狭小住宅を建てることができる時代だ。そう考えると、マンションか戸建かという選択は、単なる「好み」の問題と言い切ってもよさそうだ。アパートについては、借家か持ち家かという話に組み込めそうなので、今回はマンションか戸建かの「好み」について考えてみよう。
 私自身の住歴は、0歳~12歳で地方都市郊外の100坪くらいある戸建、12歳~26歳は東京郊外(多摩地区だ)の3LDKマンション、その後は一人暮らしで27歳で都心の古い木造家屋の2階に下宿、次に都心の幹線道路脇の2DKマンション5階、東京郊外のおしゃれな町でテラスハウス(1階2階が使えて2DK)、今に至るまで住んでいる街・茅ヶ崎市の安普請のアパート、結婚して築80年の木造平屋、その後あたりまえの木造モルタルの戸建、そして7年前から現在の「レトロモダン」と感想を言われることもある2階建ての木造モルタルの戸建、という変遷だ。
 こうしてみると、まあ、いろいろな住まい方を経験してきているなあと思う。
 この変遷のどこかの時点で、「そのときどきの自分のライフスタイルや心身の状態にあった住まい方ができればいいや」と納得するようになった。あたりをつけるなら、4、5年前からだろうか。
 マンションのよさは、よく言われるように、セキュリティ面、家のメンテナンスのしやすさ、戸建のよさは「地面の上である」こと、地域とのつながりを感じやすいことなどがあるだろう。デメリットと考えられることについては、あえて書かない。

■「好み」は変わる
 私は自分の経験から、どの家も自分らしく住みこなせるし、どの家もよい点と困った点があると思っている。どの家に住んでも地域とつながれるし、便利に生きられるとも思う。住みこなせるか、困った点を笑って済ませられるかは、その時々の個別の状況に左右されるものであって、「私」という個人の動かしがたい個性や好みの問題ではないのではないかしら。
 要は、「私」の好みなんてけっこう変わるものだし、そもそも人の好みは意外に一貫性もないさまざまな面があるものだし、「マンションがいい」「戸建がいい」とか「マンションはおしゃれ」とか「戸建こそが暮らしだ」とか、「家は一生の買い物」とか「終の棲家」とか(何でもいいのだが)、決めてしまわないほうが、気持ちよく暮らせると思うのである。
  じゃあ、高層マンションと低層型のマンションでは?
 じつはここにこそ、都市居住の「好み」で済ませてはいけない問題があると思うのだが、それは次回に。

(辰巳 渚)

都市と展望台

■東京タワーから見えるもの
 誰から聞いたのか、正確なところは定かではないが、「初めての街では、まず一番高い塔に登りなさい。」という言葉を覚えている。つまり、高い場所からその街全体を眺めることで街の構成が把握でき、その街でどこを見るべきかが分かる、という意味だったと解釈している。
 先日、東京タワーに登った。もちろん、東京にはもうずいぶん長い間居るので、初めての街という訳ではないのだが、改めて上から眺めてみることで、これまで見えなかったこの街の構成が見えるかもしれないという期待をこめてのことである。しかし残念ながら、登って見た率直な感想は、無秩序に増殖している周辺の高層ビルばかりが目に付き、ますますこの街の構成が分かりにくくなっているという懸念であった。
 高層ビルが増えること自体を批判する気は毛頭ない。それはある意味、都市の健全な発展を示す指標でもあるだろう。しかし、都市の構成が分かるということは、すなわち、その都市が何を目指して計画され、何を重視して発展してきたのか、その一貫性が目に見えて感じられるということなのである。例えば、パリのエッフェル塔であれば、高さ37mに厳格に規制された中心街区の建物の間に放射状の幹線道路が延び、副都心ラ・デファンス地区の高層ビルの塊がその向こうにまるで浮島のようにあるという、明確な街の構成が見える。このことは、街路網と建物景観における中世より続く歴史性を重視した計画の賜物である。また、ニューヨークでは、碁盤目状の街路に摩天楼が林立し、その間にぽっかりとセントラルパークの緑が広がっている様子が一目で把握できる。現代都市の象徴として、可能な限り高層高密度の都市を目指しつつ、生活に必要な緑の場は絶対に確保するという思想がここに表現されているのである。
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東京タワーからの眺め

■都市の方向性
 このような構成が明確な都市において、塔から街を眺めることは、住民自身が自分達の都市が目指してきたものを再認識する機会を与える。先に、パリで市街地の高さ規制を一部撤廃し高層ビルの建築を容認する計画が発表された時、多くの住民が反対の意向を示したというが、塔の上から眺めた街の美しい姿が、それによって乱れてしまうことが簡単にイメージでき、共有できるからではなかったろうか。
 東京もかつては低い街であった。東京タワーのHPに昭和40年代に展望台から撮られた写真があるのだが、これを見ると、皇居の緑を中心として、東京の街が放射状に広がっている様子がよく分かる。この時代に都市として何を目指して発展させていくのかを明確に方向付けできなかったことが、現在の景色に現れてきているのかと思うと残念でならない。
 東京タワーは今年で建設されてから50周年になる。そして、このタイミングで東京タワーの代替として「東京スカイツリー」が2011年の完成を目指して、着工された。東京スカイツリーが完成した後には、東京タワーはその主たる収入源である電波塔としての役割を奪われるため、展望台として生き残るしか道がないという議論がなされている。しかし、展望台として生き残れるかどうかは、東京タワーの高さがスカイツリーに負けるということではなく、実は東京の街が今後、上から眺めるに足る価値を提供できるかどうかにかかっているのだ、と言うのは言い過ぎだろうか。
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東京にある主な展望台の高さの比較
50年前に建設された東京タワーの展望台は、未だに東京で最も高い位置にある。

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東京の主な展望台の配置
東京タワーは山手線の内側にあり、皇居や東京湾を同時に眺められ、他の展望台と比べても、実は東京の構成をもっとも分かりやすく見ることのできる配置にあることが分かる。

(添田昌志)

浅草のベンチマークは何なのか?

■浅草の建築デザインコンペ
 浅草雷門の斜向いにある「浅草文化観光センター」が老朽化などを理由に建替えられることになり、建物のデザインを決定するコンペが実施されている。このコンペの要項で重要な項目のひとつとして謳われているのが、敷地ならびに浅草の「土地の記憶」に対する建物の位置づけである。当然といえば当然の要求なのであるが、果たしてここでいう「記憶」とはどのようなものなのだろうかとふと気になった。浅草の歴史や伝統を継続するというように与件を解釈すれば展示内容などのソフト面では理解できるのだが、ハードたる建物にとって土地の記憶を位置づけることによって、どのような影響を与えうるのだろうか。
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現在の浅草文化観光センター

 建物がその土地固有の資材や情報をもとにつくられていた時代においては、建築が敷地に立つということ自体が「土地の記憶」を担っていたはずで、本来だったらコンペの要項として敢えて謳う意味すらなかったのである。また、駅舎や工場といった、それまでになかった新しい機能に適合したビルディングタイプであれば、それもそれでひとつの文脈となりえただろう。しかし、「文化観光センター」とは、出来合いのビルに入居しても成り立ってしまうような機能(建物のプログラム)なのである。そして、その場から浅草を見渡した際の景観もまた、記憶継承の論拠とするにはハードルが高い。そういう意味で、浅草文化観光センターであるからには浅草を表現するような建物であるべきだ、という根拠自体のあやふやさが急にひっかかった。


■浅草のランドマーク

 コンペのことはさておき、浅草建築の流れを概観すると実にランドマークの歴史と言えることに気づいた。雷門は、平安時代からの存在がいわれているが、江戸時代に何度か消失していて、1865年に消失してから100年程はたって今の形に修復されたという経緯がある。そのほか、今はなき煉瓦の塔、凌雲閣や看板建築の代名詞で仁丹ビル、神谷バー、花やしきにスタルクのアサヒビールホールと、時代時代で浅草の代名詞となるランドマークには枚挙にいとまがない。そして数年後には、ちょっと離れるが東京スカイツリーも完成して更なるランドマークが増える。そういう意味で東京の中でランドマークのベンチマークが浅草に集中しているといってよい。ランドマークは本来孤高の存在として象徴性を高めるはずであるが、これだけ林立すると場の象徴性も高まっている。それが浅草のもうひとつの熱気になっているのだろうし、祭りや芸能といった無形のものに有形の偶像を与えるということで「記憶」を継承するのか、と思うとごちゃごちゃの浅草の景観が凛々しく思えてきた。

 三社祭の風景を見るにつけ、結局そのランドマークに集まる賑わいこそが浅草を記憶するベンチマークなのだと思う。

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黄金色に輝くアサヒビール建物群

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三社祭りで神輿を取り巻く人の渦

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明治末期、大池越しに見た浅草十二階(手彩色絵はがき)
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(川上正倫)