六本木の価値をはかる(4)

■六本木にみる聖域と楽園のせめぎ合いによる街としての価値
六本木は自分の中では、割とつきあいが長い街だとは思うのだが、実は全く実態を把握できていない街のひとつである。昼間に歩き回っているだけでも、表装に表れてこない別の顔の存在があるに違いない空気だけは感じられる。しかし、夜に訪れたとしても表装は変われども、その真の顔に近づいている感覚は得られない。仕事場であり遊び場にしてこなかっただけということもあろうが、この街の空間的な特徴を説明しようにも言葉に詰まってしまう。

六本木に古くから住んでおり、本性を知り尽くしている方の言葉をお借りすれば、六本木は観光客や一見さんには近寄りがたい都市の「聖域」なのである。それもそんなに歴史がある聖域ではない。始まりは世間から白い目でみられた遊び人たちの欧米への憧れを実現する場に過ぎず、憧れへのあくなき探究が場に文化を呼び込み遊び人たちの「楽園」となった。世間の白い目から逃れるように楽園は表装を捨てて姿を隠した。世間の目から隠れた楽園は、いつしか経済の成長とともに育まれた“文化”という高い垣根をつくり鎖国をはじめた。闇の世界は、表装を持たないから空間よりも人の縁が水先案内人として重要になる。時代は変わって、世間の目はその文化や人の縁によって囲まれた楽園に憧れはじめる。しかしその時既に楽園は、“文化”と縁の薄い一般人の手の届かぬ聖域になったのだ、とするのは強引すぎるだろうか。

ところが、昨今の度重なる再開発は一般人の楽園を聖域に乱入させた。聖域に憧れていた人々が大量に流れ込んでいる。彼らは、人の縁でしか得られないはずの「情報」をもっており、無条件開国を要求している。ネットやタウン誌によって裸にされ、今や、かつては近づくことすら憚っていた人々から文字通り見下ろされるエリアとなっている。
しかし、本当に聖域は完全に開国されたのだろうか。エセ楽園に読み替えられ、テーマパークとしての表装を街の真の顔として公開しているだけのように見受けられる。街自体もそれに併せて化粧なおしし始めているようにも見える。果たして聖域は一般人の楽園と共存できるのか。そんな状況を改めて確かめるつもりで六本木エリアを練り歩いてみた。

■夜の街の昼の顔
ドンキホーテこそ頂部にレールを載せているが昼の顔は概して大人しい印象。チェーン店の流入により多少わかりやすくなってきている。ガイドブックを片手にヒルズやミッドタウンから流入してくる人々からすると、「六本木大したことないじゃん」の印象が強いのではなかろうか。ハワイのワイキキに行って、「なんだきれいな海ってこんなもんか」と思っているのに近いか。きれいな海には安易には近づけないのだ。外来者は目立つものの、午前中からお昼時にかけての繁華街の姿は、渋谷・銀座などとは比較にならないくらい人が少ない。南北線や大江戸線によって陸の孤島からは解放され、再開発によって門戸は開かれたが、まだ夜の限定的なアクティビティに頼った(しかもそれで充分成立つ)R指定の街のようだ。
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■振り返ると奴がいる!
かなりしつこくあちこちからヒルズ、ミッドタウン、泉ガーデンのひょっこり覘く姿を意識してみた。城下町を見守る天守閣のように、どこからでもどれかは見える。見えるということによって逆にその領域下に取り込まれているような感覚になった。ヒルズが見えていたところからミッドタウンが見えるところに移ると違う国に来たかのように。
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そんな中、東京タワーが見えると、ちょっと懐かしい仲間を見つけて「久しぶり!」と声をかけたい気持ちになった。
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(川上正倫)