丸の内

丸の内の価値をはかる(7)文化財による価値-3

東京駅
 東京駅の保存が、丸の内の超高層化のひとつの契機であることは間違いない。しかし、法律を変えてまで実現させた保存に異議を唱える人は少なかろうが、その方法に疑いがないわけではない。1914年に政府の威信をかけて作られた辰野金吾の代表作。重要文化財にも指定され、戦時中に壊された屋根を修復することも決定した、などと聞くと良いこと尽くしのような気もする。
 しかし、戦時中の爆撃で壊されたとして、ほんの30年間しかオリジナルの姿をとどめていなかったのである。その後60年もの間、我々にとっての思い出たる東京駅は、実は2階建て仮設屋根の東京駅なのである。三菱1号館同様に正解のない悩みである。保存や復原などとオブラートに包まず、美的改修と呼んできちんと責任をとってはいかがだろう。象徴的な建物とは言え、駅舎という建物特性上、幅が長い。目の前を歩いていると、象徴性よりも界隈性の方を感じてしまうのが不思議である。
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東京中央郵便局
 東京駅正面にあるこれぞモダニズムというきれいな建物が、今取り壊しの危機に瀕している。吉田鉄郎による東京中央郵便局であるが、機能的な建物が機能性を失った時の主張は、もう歴史的価値しかない。果たして、歴史をウリにする覚悟をした丸の内に、この建物が救えるのか。文化財を抱えることによる超高層とセットでの点的な計算はしていよう。今こそ、それらの連環としての面的な経済効果を評価して欲しい。
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皇居から
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 丸の内を外から眺めると非常にきれいな街並だと思う。色合いも高さもバラバラではあるが、決して不快な光景ではない。しかしながら、皇居はだだ広い。丸の内のビルを眺めて大きいな!と思っていたのがうそのように、おもちゃの積み木のようにも見える。
 この一大緑地とそこに集う人々ののどかな風景に「公」の可能性を少し感じた。
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(川上正倫)

丸の内の価値をはかる(6)文化財による価値-2

日本工業倶楽部ビル
 東京銀行協会ビルの不幸を横目に、完全復原によって保存されたのがこのビルである。わずか10年でその運命が変わるとは、都市計画制度も罪だなと思いながら眺める。東京駅側、正面側は違和感なく超高層が背景となっているが、皇居側に歩を進めて振り返ると、飛び出て来ているのか、はたまた前時代を背負って突撃したのか、かなり滑稽な取り合いになっている。また、31mに足らないビルを補完するように超高層側では律儀に31mデザインを踏襲しているが、残念ながらこのラインはある程度距離を持ってみないと意識しづらい。しかし、街区の大きさがしっかりしていると建物のデザインにあまり気がいかない。工事中の猥雑さを乗り越え、超高層によるきれいなすっきりとした街並が形成されていると言える。国や会社の威信をかけて造った近代建築のように濃密なデザインは、むしろヒューマンスケールなのかもしれないと感じる。
 31mラインの意味は、デザインの効果というよりはその街に参加するという宣言のようなものと受け取りたい。
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明治生命館
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 昭和に建造された建物として初めて重要文化財に指定された。保存方法は、工業倶楽部ビルの延長上に位置づけられる。銀座などにも見受けられる、建物と建物の間の路地を積極的に見出した、「地」と「図」の反転モデルのようである。新しい超高層と19世紀的建物によって作られる隙間空間は、写真だけ見ればヨーロッパと見紛う景色である。
 しかし、果たしてその感想が、この街にとって発展的な意味を持つのかは疑わしい。別に日本的であることを求めるわけではないのだが、このような光景は変化の早い東京では各地で散見できる。保存を決定した時点で、このギャップのようなものを街として引き受けるべきであり、現状では生きている街における死に体の建物の「保存」の価値が、人々の活動にまで落ちてきていない。単なるオフィス街から観光などのサービス街への変換は、まだまだ発展途上なのであろう。
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三菱1号館
 明治生命館の前には大きな工事中の敷地がある。三菱1号館が完全復原されるのだという。1970年代に保存要望の相次ぐ中で、時代に合わないと取り壊れた一丁倫敦を再現するのだという。しかしながら、歴史的価値は見出されなかったにしろ、人々の記憶に馴染んで来たであろう白い尖塔の丸の内八重洲ビルが、併せて取り壊されたのは残念である。
 本物を壊しておいて、歴史性を訴えてその模造品を再建する。さらにそのとばっちりで、今ある歴史的な建物を壊してしまう。なんとねじれた構図なのだろうなどと思いを馳せてしまう。復原ブームの影には、それによって増される床面積が見え隠れするわけであるが、30年たって近代の街並をウリにするのだという覚悟。本当は超高層を建てたいだけなんじゃないの?と疑いたくもなる節操のなさであるが、歴史をウリにする以上は長期的な戦略が必要である。
 自分の土地で何を壊そうが何を作ろうが勝手だろう、と言われりゃそれまでであるが、次の戦略転換で超高層を壊すっていったってそう簡単にはいかないのだから。
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仲通り
 以前の街並がどんなであったか、すっかり忘れてしまうほどきれいな街並である。それまで、オッサンの巣窟を建物のファサードでぐるっとくるんで表面的にはきれい、という構図で堅苦しいイメージだった。いまや、路面店がならぶ優雅なショッピングストリートである。
 しかし、逆にそれを眺めていると少々怖くもなる。たしかにミレナリオをはじめとした広報活動など、担当者の苦労と成功は認めたい。ただ、人々はなんだかその戦略に流されているだけにも見え、そこにデベロッパーの余裕のしたり顔をみてしまう。
 余裕故の安易な転換にどれだけ街がついて来られるのか、少々不安を感じずにはいられない。
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(川上正倫)

丸の内の価値をはかる(5)文化財による価値-1

 丸の内はその歴史的背景から東京の中でも特異な位置づけを担っているエリアといえる。その発展には常にオーナーである三菱の影響がある。観光客の会話でもそれが主たる話題になるくらい浸透しているそのブランド力には驚かされる。
 日本の歴史的建造物のイメージは木造寺社仏閣であり「京都・奈良」にその地位を譲るが、ここでは「石」である。丸の内は、木造建造物とは一線を画した近代建築群の集積地である。とはいえ、これらの建物の歴史的有用性を語れる人は稀であろう。それでも、皇居や日本橋を含めた丸の内周辺を散策すると、その石に感じる歴史の重みを否定する人は少ないであろう。昭和の建築として初めて重要文化財に指定された明治生命館をはじめ、重要文化財の東京駅駅舎や中央郵便局など優れた建造物が並ぶ。どれも、近代日本や会社の本社屋としてモニュメンタルな意味を担わせる意味もあってか力が入っている。蘊蓄をもつことでこれらの楽しみが増す事受合いである。
 ここでは技術的/法的価値は別に委ね、景観による価値評価をフィールドワークで試みる。

丸ビル・新丸ビル
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 建設中であった新丸ビルの再生も終わり、東京駅から皇居にいたる超高層ゲートが完成した。どちらも31mでデザインが切り分けられている。100尺制限で維持されていたかつての街並を意識してのものである。技術的な背景もあったにしろ、西欧の建築の流れに逆行するような中層建物による(しかも20世紀になってから19世紀前の西欧を模倣して!)中心市街地形成は、かつてのこのエリアを世界にも稀な経済性より美観を優先した景観型商業地域にしていたと思う。
 90年代、政治の中心を西新宿に奪われつつありながら、特例容積率適用区域制度、特定街区制度などの新しい都市再開発法を背景に大規模な再開発が開始された。かつて東京海上が、前川の案をもとに100m越えを目指したことに対して、三菱が「美観」を盾に反対したことがあったが、その三菱が率先して計画した「マンハッタン計画」が、同じく不評をかったのが皮肉である。
 しかし9階建てだった丸ビルが耐震改修不能と診断され、先陣をきって37階建てへ変貌すると、流れは一気に超高層化へ。丸ビル35階展望室や新丸ビル7階ルーフテラスにのぼると、かつてはオフィスワーカーに専有されていた東京駅前のこの雄大?な景色が楽しめる。地盤面から少し上がった目線、しかも前に遮るもののない近さで眺められる体験は、なかなかに気持ちがよい。
 新丸ビルのルーフテラスはちょうど31mの高さにあり、身を乗り出し他のビルを眺めると同じ高さの建物は皆無である。他のビルも2本のゲートタワーにならい、31mラインでデザインが切り分けられているようだが、通りを歩くともはや空の広さが違う。
 丸ビルと新丸ビルは高さも外観デザインも異なるが、それによって東京駅と皇居を結ぶ軸線を優しげな印象に変えているように思えた。しかし、道路からはあまり気にならないが、少々高いところにのぼると、ばらばらなスカイラインがあまりきれいではない。昔はそれこそ見下ろされることなどなかったからよかったのだろうが、ルーフデザインに余地のある街並である。
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東京銀行協会ビル
 皇居側に移動してみると、31mラインどころかレンガ壁が足元を巻いているビルがある。このビルはバブルの最中に立て替えられた。当時はまだ特定街区制度等なく、通常の総合設計制度によって増床をした。経営的にうまくいかなくて仕方なく、、、というのが本音のようだが、多くの人にとって馴染み深かかったレンガ造を取り壊すのには、それなりの抵抗があったように想像できる。そこで、なんとか界隈を維持しようと、レンガ造ファサードで瘡蓋のように表層を覆うと、今度はその軽薄さを揶揄する声が高まった。
 建築界の悲哀でもあるが、その深い意図なき保存が、現在の丸の内文化財的再生のひとつのきっかけとなっていると思うと感慨深い。
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(川上正倫)

丸の内の価値をはかる(4)街の軸-2

■新しい軸を人々に認知させるということ
歴史的には存在しなかった、もしくは、通用路的な位置付けにあった通りを、新しいメインストリートとして広く認知させることは容易ではない。ここでは、以下に示す複数の手法を駆使しているのだが、それらはどれも多大なコストのかかることである。しかし、それをやってのけることが三菱の力なのだろう。
・手法1:イベントの開催=東京ミレナリオ
・手法2:商業の誘導(ブランドショップ)
・手法3:街路空間の一体的整備(街路樹、ペーブメント、ストリートファニチャー、看板規制、交通規制)
・手法4:情報発信(仲通りHP、ガイドブック)
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東京ミレナリオ:1999年から2005年まで、7回に渡って行われた。メディアにも大きく取り上げられ、累計1770万人が訪れた。丸の内仲通りの存在を世に知らしめた効果は計り知れない。


■徹底した空間整備
仲通りは上記のような、イベントや情報発信によって、通りの存在をまずメディアを通じて人々に認識させる手法をとっている。メディア先行型であると言えるが、大切なのは、そのようなメディアを見て、実際にその場所を訪れた人に、ここがその「特別な場所」ですよと、直感的に分からせることである。そのために、徹底した空間のデザインコントロールが行われている。
例えば、看板・標識の類は完全にコントロールされ、袖看板は一切排除されている。このことは、景観的には非常にすっきりとした落ち着いた雰囲気を醸し出すが、お店を探すという情報探索の観点からは非常に不利である。店の前まで行かない限りは、それが何の店か分からないからだ。効率よくたどり着くためには、事前の情報探索や地図などが不可欠で、そういう意味では、冷やかしのお客はお断りし、店としてのブランド性、ステータスを高めているということなのかもしれない。
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通りの端から端までデザインが統一されたペーブメントと街路樹。袖看板のない景色。
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多様で豊富なストリートファニチャーとアート
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12:00~13:00は歩行者天国になる
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袖看板が表れると、そこは丸の内ではなくなったという証し
(添田昌志)


丸の内の価値をはかる(3)街の軸-1

街の骨格-あばら骨を背骨に変えた仲通り再整備
 丸ビル、新丸ビルといった超高層ビルの建設とともに、丸の内再開発計画の中核となっているのは、丸の内仲通りの整備である。いまや、すっかりブランドストリートとしての地位を確立しているこの通りはしかし、再開発される以前は、オフィスビルの間の通用路というイメージがしっくりくるような通りだったろうし、さらに歴史を遡ると通り自体が存在していないものであった。

丸の内地区の認知の変化(江戸城→東京駅→仲通り)
 そもそも、丸の内地区は江戸時代には、大名屋敷が立ち並んでいた場所である。江戸時代の地図を見ると、お城の門前として、御三家をはじめとする大大名の武家屋敷が建ち並んでいる場所であった。つまり、丸の内は、お城(江戸城)に従属して存在する場所だった訳である。
 明治時代には大名屋敷がなくなり、一時は野原となっていたのであるが、大正初期に東京駅が建設され、昭和に入って鉄道交通が盛んになるに連れ、建物が建てこみ、丸の内地区は東京駅前のオフィス街としての地位を確立していく。地区の形が完成し、仲通りの原型も見られるようになるのはこの頃である。つまり、江戸から昭和に時代が下るにつれ、従属するものが江戸城から東京駅へと変化していったのである。しかし、何かに従属した地区であるという意味では変わりはなかったと言える。
 今回の仲通りの再整備は、城(皇居)や駅への従属から脱却、独立し、自らアイデンティティとしての軸(背骨)を持つのだという決意の表れのように捉えられる。そして、そのことは、他では真似できないであろう、様々な大仕掛けによって実現されていくのである。


現在の丸の内地区の地図:仲通りの幅員が周辺の道路に比べて、かなり狭いことが見て取れる。また、皇居や東京駅ともつながっておらず、本来地区の軸とはなりにくい。縦の幹線をつなぐ文字通りあばら骨のような通りである。
(添田昌志)

丸の内の価値をはかる(2)マラソンランナーの視点-2

■皇居 東京の中心には空白がある
 そもそも皇居はランナーの聖地として非常によく知られている場所である。都市に住むランナーにとっては、信号がない事、景色がいい事、がランニングコースの重要な条件であるのだが、東京という混雑した都市の中で、皇居はその二つの条件を完璧に満たせる数少ない場所なのだ。
 都市ランニングというのは都市の空白を探索する行為であり、信号がない、景色がいいという条件は、それぞれ車や建物をオブジェクトとしてみた時にそれらの隙間を見つけるための手段となる。最近NIKEがランナーの為に始めたサイトの中で、googleの地図上に自分の普段走っているコースをアップロードし、それを公開、閲覧できる「map it(注1)」というサービスがあるのだが、それをみると東京のランニング空間の分布を把握することができ、中でも特に皇居周辺はコース数が多いことがよく分かる。
 東京の中心に空白があるという事実は、10年前にフランスの記号学者ロラン・バルトによって「空虚の中心(注2)」と表現されているが、彼は同時に「永久に迂回し続けるという運動が東京という物語を加速させている」という興味深い指摘をしている。要するに都市の密度にやられた人々は、空白を求めて皇居の周縁に溢れ出し、ひとしきり回った後でまた都市に戻り、それぞれの物語を紡いでいく、ということなのだ。

■丸の内 東京の缶詰
 私も何度か皇居を走ったことがあるが、その時の体験から、もう一つの別の側面があることに気付いた。うまく表現できないが、皇居ランニングでみる都市の風景というのは、まるで世界の裏側から都市を眺めているように見えるのだ。けして皇居に面している建築が背を向けているわけではないのだが、まるで自分のいる世界が反転しているかのような錯覚を覚える。
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図3:宇宙の缶詰

 この感覚はもしかしたら赤瀬川原平氏の「宇宙の缶詰(図3)」的な世界観に近いのかもしれない。食べ終わった蟹缶のラベルを缶詰の内側に貼ることで、宇宙全体を缶詰に収めてしまうという発想と、皇居という空白の缶詰があることで、その外側にいる東京全体がすっぽりと収まってしまっているという錯覚にかなりの共通点があるのは気のせいではない。それはつまり、内側で都市を体験する視点から、外側から都市を眺める視点に移り変わったことを示していると言えるだろう。

 皇居から見える風景の中で、特に「東京の缶詰」であることを感じさせる場所は紛れもなく丸の内である。と、いうのも丸の内は建築ファサードが面的連続性(=缶詰のラベル)を獲得しているから、という極めて単純明快な理由によるのだが、そのことから逆に、丸の内は東京の缶詰として観察される価値のある風景をもっている、と言うことができる。また、都市のプロパガンダであった東京マラソンのコースのなかでも、丸の内はX文字型の中心付近に位置しており、都市の外側(=皇居)から内側に入る、都市のシンボルとして重要な役割を果たしていた、と言えるだろう。
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図4:皇居から眺めた丸の内

 さらに2007年5月に行われた東京ストリート陸上では、丸の内仲通りを陸上競技のフィールドとして使ったことで、今度は丸の内が観察される場所から観察する場所へと変化を遂げ、まさに内側からも外側からも両面にラベルが貼られている缶詰のような場所であることを気付かせられた。

 丸の内とスポーツ。その関係性は薄いと思われがちだが、都市の空白としてスポーツフィールドを捉えたとき、両者は密接に結びつく。多くの人から観察される丸の内という空間は、いわば東京という都市の中で大きな劇場としての価値を見出せるのかもしれない。

注1) http://nikeplus.nike.com/nikeplus/#mapit
注2) ロラン・バルト「表徴の帝国」(宗左近 訳 ちくま学芸文庫)

(藤井亮介)
2006年 東京工業大学建築学専攻修士課程修了 
現在、坂倉建築研究所勤務

丸の内の価値をはかる(1)マラソンランナーの視点-1

 2007年2月、東京マラソン。約3万人のランナーが東京中を駆け抜けた。
 42.195キロを走りながら都内の観光名所を巡るというユニークなコース設定は当初実現不可能と言われていたが、開催前からメディアの大きな注目を集め、厳密な時間調整による大幅な交通規制、多数のボランティアなど様々な人々の協力を得て最終的には大成功を収めた。
 東京マラソンは、この記念すべき第1回の成功を経て、ニューヨーク、ベルリン、ロンドンなど世界の都市マラソンの仲間入りを果たし、単なるスポーツの域を超えた新たな東京のイベントとして認められたと言えるだろう。
 私は運良く第一回東京マラソンの市民ランナーとして参加することができたのだが(図1)、ここで達成できた「走りながら東京を観察する」という貴重な体験を元に、ランナーというよりは都市の語り手としての立場から東京の魅力を解き明かしていきたい。
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図1:東京マラソンの風景(著者撮影)


■東京マラソン 演出された東京を眺める視点

 まず東京マラソンのコースを見てもらいたいのだが、世界の都市マラソンに比べると、いかに特殊であるかがよく分かる。
 ここではニューヨーク、ロンドン、ベルリンの事例を挙げているが(図2)、例えばニューヨークは幹線道路からマンハッタン島に入ってセントラルパークでゴール、ロンドンはテムズ川沿いを蛇行するなどそれぞれの都市の構造にあわせたコースになっている。
 その一方で東京マラソンは、都庁、東京タワー、浅草、お台場など東京の観光名所を半ば無理矢理直線で結んだような形(=Ⅹ文字型)でコースが形成されていることが一目で分かる。そもそも東京マラソンは東京オリンピック招致に向けたイベントでもあったので、東京という都市のプロパガンダの役割を果たすことを優先的に考えられており、X文字型のコースというのは、演出された東京を眺める視点を結んだ結果として浮かび上がったと考えられる。
 ならば、逆にこのコースを読み解くことで東京の価値を測ることができるのではないだろうか。ここでは特にX文字の中心付近である皇居とその周辺に着目し、そこにどのような価値があるのかについて語りたい。

図2:世界の都市マラソンコースの比較

(藤井亮介)
2006年 東京工業大学建築学専攻修士課程修了 
現在、坂倉建築研究所勤務