ハイライフ研究所 都市研究報告

六本木の価値をはかる(5)

■大きいことと小さいこと。古いこと新しいこと。
屋敷町であったことを思わせる古くて長い塀があちこちで見られる。そのまま学校になっていたり、宿泊施設、大使館などに敷地が転用されていてその区割りが残っている。これらは、敷地が大きくしかも建物も低いので近寄っても建物が見えないようなものも多い。このような塀に憧れて狭い敷地にも塀を廻らせてしまうのだろうか。
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かたや、町人の街を思わせる不思議な街区もあちこちに残っている。檜町の一角には、道幅が 90センチほどしかない路地が碁盤の目のように配されたエリアがある。日当りは悪そうではあったが、手入れがかなりきちんとされていて不健康な匂いは全くしなかった。このようなエリアが建築基準法の下で平均化されてしまうのはせつない。
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麻布台の一角には、アールヌーヴォー調の長屋もある。このあたりは、このような洋館がたくさん建っていたという。今では 2軒を残すのみだが、この地域の往時からの文化への関心を示すものではなかろうか。
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楽園と庭園
この界隈には立派な公園が多い。門などがそのまま残されていてかつて大きなお屋敷の庭であったことを想像させる。長らく手つかずだったこのエリアが再開発の対象になったのが、バブルを過ぎた安定した豊穣期であったおかげでか、再開発の足下も決して派手な緑化がされているわけではない。六本木を楽園化するもうひとつの要素が、これらの公園や緑地であるようにも思えた。ヒルズは毛利庭園を再生整備し、ミッドタウンはなんと高層棟そのものが日本庭園の石をイメージして配置されているという。
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■坂と崖と橋と
散策をしていて特に感じるのが坂の多さであろう。この地形の起伏の激しさも、建物がよりばらばらと乱立しているように見せる。以前考察した渋谷はひとつの谷に向かってすり鉢上になっていたが、ここでは細かい小山がいくつもあって、ぱっと向こう側が開けるような風景に行き当たる。饂飩坂、芋洗坂、寄席坂など、むかしの文化に由来する名前も往時を想像させて散策を楽しくさせている。谷が多いせいか寺と墓場もかなり多く見かける。それがまたひとつの大きな空地をつくりだし、その向こう側に都市の立面を見せてくれる。俗世とそのむこうにある楽園。
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複雑な地形をより複雑にしているのが、この高架である。これによって建物では作り出せないおおきなスケールでの水平的な連続感をつくりだしている。これは新たな地平線でもある。
建物間を結ぶ立体歩廊や橋も動線上でも立体的な地平をつくっており、自然の起伏によってそれらがさらに立体的に目につくことで、更なる起伏を生み出しているのがおもしろい。
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 六本木は思ったより「散歩」に適した街であるとも言える。夜にこそその価値があるという人もいるだろうが、生活空間としてかなり質が高いエリアであるといえる。繁華街というところで治安は多少劣るとしても、至るところに古い都市の遺産を垣間みることができ、気軽に休憩できる気持ちよい公園があちこちに点在する。坂や階段も多く、かなり起伏が激しい地形と乱立する建物群によって様々な画角で街並が切り取られ、変化に富んだ飽きない眺めを提供してくれる。その眺めに激しく入り込んでくる再開発によって生まれたタワービルの存在も、新宿や丸ノ内などのそれとは一線を画しており、かつて戦国時代の「城」よろしく支配的な視線で見下ろされている感すらある。
 そんな「城」たちも、方向音痴のくせに地図を持ち歩かない自分にとってはよい指標となり、どこにいるかわからないながらも大きく方向を逸れることなく歩くことができた。その反面、歩いた道筋や象徴的なそれらのタワービル以外の建物がまったく記憶に残らない。きっと目的地があったらたどり着くのにえらい時間を食ったことだろう。しかしながらその地形さながらに起伏の激しい都市空間であり、その都市の価値を理解するのはかなり難しい街であると感じた。体系だった軸を見出すには、もう少し議論が必要かもしれない。

(川上正倫)

六本木の価値をはかる(4)

■六本木にみる聖域と楽園のせめぎ合いによる街としての価値
六本木は自分の中では、割とつきあいが長い街だとは思うのだが、実は全く実態を把握できていない街のひとつである。昼間に歩き回っているだけでも、表装に表れてこない別の顔の存在があるに違いない空気だけは感じられる。しかし、夜に訪れたとしても表装は変われども、その真の顔に近づいている感覚は得られない。仕事場であり遊び場にしてこなかっただけということもあろうが、この街の空間的な特徴を説明しようにも言葉に詰まってしまう。

六本木に古くから住んでおり、本性を知り尽くしている方の言葉をお借りすれば、六本木は観光客や一見さんには近寄りがたい都市の「聖域」なのである。それもそんなに歴史がある聖域ではない。始まりは世間から白い目でみられた遊び人たちの欧米への憧れを実現する場に過ぎず、憧れへのあくなき探究が場に文化を呼び込み遊び人たちの「楽園」となった。世間の白い目から逃れるように楽園は表装を捨てて姿を隠した。世間の目から隠れた楽園は、いつしか経済の成長とともに育まれた“文化”という高い垣根をつくり鎖国をはじめた。闇の世界は、表装を持たないから空間よりも人の縁が水先案内人として重要になる。時代は変わって、世間の目はその文化や人の縁によって囲まれた楽園に憧れはじめる。しかしその時既に楽園は、“文化”と縁の薄い一般人の手の届かぬ聖域になったのだ、とするのは強引すぎるだろうか。

ところが、昨今の度重なる再開発は一般人の楽園を聖域に乱入させた。聖域に憧れていた人々が大量に流れ込んでいる。彼らは、人の縁でしか得られないはずの「情報」をもっており、無条件開国を要求している。ネットやタウン誌によって裸にされ、今や、かつては近づくことすら憚っていた人々から文字通り見下ろされるエリアとなっている。
しかし、本当に聖域は完全に開国されたのだろうか。エセ楽園に読み替えられ、テーマパークとしての表装を街の真の顔として公開しているだけのように見受けられる。街自体もそれに併せて化粧なおしし始めているようにも見える。果たして聖域は一般人の楽園と共存できるのか。そんな状況を改めて確かめるつもりで六本木エリアを練り歩いてみた。

■夜の街の昼の顔
ドンキホーテこそ頂部にレールを載せているが昼の顔は概して大人しい印象。チェーン店の流入により多少わかりやすくなってきている。ガイドブックを片手にヒルズやミッドタウンから流入してくる人々からすると、「六本木大したことないじゃん」の印象が強いのではなかろうか。ハワイのワイキキに行って、「なんだきれいな海ってこんなもんか」と思っているのに近いか。きれいな海には安易には近づけないのだ。外来者は目立つものの、午前中からお昼時にかけての繁華街の姿は、渋谷・銀座などとは比較にならないくらい人が少ない。南北線や大江戸線によって陸の孤島からは解放され、再開発によって門戸は開かれたが、まだ夜の限定的なアクティビティに頼った(しかもそれで充分成立つ)R指定の街のようだ。
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■振り返ると奴がいる!
かなりしつこくあちこちからヒルズ、ミッドタウン、泉ガーデンのひょっこり覘く姿を意識してみた。城下町を見守る天守閣のように、どこからでもどれかは見える。見えるということによって逆にその領域下に取り込まれているような感覚になった。ヒルズが見えていたところからミッドタウンが見えるところに移ると違う国に来たかのように。
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そんな中、東京タワーが見えると、ちょっと懐かしい仲間を見つけて「久しぶり!」と声をかけたい気持ちになった。
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(川上正倫)

丸の内の価値をはかる(7)文化財による価値-3

東京駅
 東京駅の保存が、丸の内の超高層化のひとつの契機であることは間違いない。しかし、法律を変えてまで実現させた保存に異議を唱える人は少なかろうが、その方法に疑いがないわけではない。1914年に政府の威信をかけて作られた辰野金吾の代表作。重要文化財にも指定され、戦時中に壊された屋根を修復することも決定した、などと聞くと良いこと尽くしのような気もする。
 しかし、戦時中の爆撃で壊されたとして、ほんの30年間しかオリジナルの姿をとどめていなかったのである。その後60年もの間、我々にとっての思い出たる東京駅は、実は2階建て仮設屋根の東京駅なのである。三菱1号館同様に正解のない悩みである。保存や復原などとオブラートに包まず、美的改修と呼んできちんと責任をとってはいかがだろう。象徴的な建物とは言え、駅舎という建物特性上、幅が長い。目の前を歩いていると、象徴性よりも界隈性の方を感じてしまうのが不思議である。
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東京中央郵便局
 東京駅正面にあるこれぞモダニズムというきれいな建物が、今取り壊しの危機に瀕している。吉田鉄郎による東京中央郵便局であるが、機能的な建物が機能性を失った時の主張は、もう歴史的価値しかない。果たして、歴史をウリにする覚悟をした丸の内に、この建物が救えるのか。文化財を抱えることによる超高層とセットでの点的な計算はしていよう。今こそ、それらの連環としての面的な経済効果を評価して欲しい。
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皇居から
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 丸の内を外から眺めると非常にきれいな街並だと思う。色合いも高さもバラバラではあるが、決して不快な光景ではない。しかしながら、皇居はだだ広い。丸の内のビルを眺めて大きいな!と思っていたのがうそのように、おもちゃの積み木のようにも見える。
 この一大緑地とそこに集う人々ののどかな風景に「公」の可能性を少し感じた。
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(川上正倫)

六本木の価値をはかる(3):再開発トライアングルを見る

再開発における民の志と公の怠慢
 既に多くの人が述べているが、この種の再開発は、床面積を可能な限り稼ぎ収益を上げることが至上命題になっている。したがって、高層のビル群を抱え、オフィス、商業、美術館などといった複合用途のコンプレックスシティを作らなければならない。人を集め、お金を落としてもらなければならないのだ。そのことの是非については他に譲るとするが、そのような厳しい制約の中で、それぞれに可能な社会性・公益性を追求していることは認めるべきだと思う。
 ヒルズでは、多くの地権者を1民間業者が束ね、住宅のみならず公道までも整備しているし、ミッドタウンでは誰もが立ち寄れる広大な緑地を整備した。いわば身を削って、周囲のために提供している訳である(もちろん、その見返りとして、容積率緩和や補助金交付があるのだが)。
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六本木けやき坂通りは、民間が整備した公道の初事例。東京タワーを眺めるいい軸線を取っている。
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ミッドタウンの緑地率は60%(4ha)。都心で空の広さを感じられる場所になっている。前面歩道も大きくセットバックして憩いの場所になっている。

 一方、公の象徴である、国立新美術館はどうだろう?ファサードは美しいと思うし、収蔵庫を持たないギャラリーとしての運営手法もありうるものだろう。しかし、それは周辺に対して開かれているだろうか?何か身を削って提供しているだろうか?もはや、フェンスで囲って威厳を誇示する時代ではないと思うのだが。設計した黒川氏は「森の中の美術館」というのだが、見た目には塀の中の美術館だろう。
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 まず、美術館正門から向かいの歩道へまっすぐ渡る横断歩道がない。それでも渡る人が多いのだろう、横断禁止の幕と、人々を迂回路へ誘導するためにガードマン配置されている。ガードマンを雇う金があるなら、横断歩道をつけるぐらいできると思うのだが。公の本業である道路整備ですらこの状態だ。
また、ミッドタウンから国立新美術館へ向かう道は、歩道が狭く歩きにくい。そこに向かう人を出迎える、高揚感を演出するという発想など全くない。管理が違うと言ってしまえばそれまでだが、そこを何とかするべきではないだろうか。
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六本木はどこへ向かうのか?
 六本木の街を何度も歩いた感想は、結局のところ、これからこの街はどちらの方向に進むのだろう?という疑問であった。大規模再開発の宿命として、オフィス、住宅、美術館、商業施設、ホテルなどなどを複合させてはみたものの、それ故に街として目指す方向性が分かりにくくなってしまっている。もちろん、再開発によって、道路やオープンスペースなど、従来なかったものが提供されたことは評価に値する。しかし、そもそも、この街をどうするための再開発だったのかがどうも見えてこない。
 歓楽街であった六本木を、働く街にしたいのか?買い物の街にしたいのか?それとも、アートの街にしたいのか?ミッドタウンは、キャンティにセレブが集った70年代の古き良き六本木に戻したいと言うのだが。。。個人的には、どの方向性も、街の骨格とはずれているこれら再開発の位置取りと同様、何かずれているような気がしてならない。
 思えば、都心に郊外を作りたかった「豊洲」、三菱のブランド価値を高めたかった「丸の内」は、そのコンセプトと空間づくりの手法が明快に一致していた。六本木がこれからどう変化し、人々にどう認知されていくのか、その答えを知るにはもう少し観察を続けるしかないのだろう。


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街の骨格とずれたアートトライアングルは、人々の心にトライアングルを認知させることはできない。今後予定されている六本木一丁目の再開発も、骨格とずれていることに変わりはない。

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トライアングルに囲まれた地域は六本木とは思えないような古い住宅街で、ここに何かが起きる予感は今のところしない。

(添田昌志)

六本木の価値をはかる(2):再開発トライアングルを見る

やっぱり分かりにくいヒルズ
 六本木ヒルズは分かりにくい。私の知る限り、近年建設された商業ビルでここまで分かりにくい例は思いつかない。このことは計画段階でかなり予想されていたと思われるのだが、どうして改善されなかったのだろうか。各建物の設計を外国人に分離発注したしわ寄せなのか。しかし、全体の建物レイアウトは森ビルが計画しているので、そもそも、分かりにくくすること自体がコンセプトだったのか。色々と資料を調べてはみたものの、明確にそれについて述べているものは結局見当たらなかった。きっと、「都市とは迷宮である」というようなコンセプトを持って計画されたに違いないのだが、「迷宮」であることが果たして全ての人に受け入れられたとは思えないのである。
 何を狙っていたのかは釈然としないのだが、一応専門家の端くれとして、以下に、この建物が分かりにくい原因を整理してみたい。

まず、建物を分かりやすくするためには以下の点に配慮する必要がある。
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 これらは、上の項目ほどより重要で、しかも計画の初期段階から配慮しておくべきものである。インフォメーションは後で付加することが可能であるが、あくまでも補助的手段である。空間の形状がシンプルで見通しが利けば、サイン情報に頼る必要などない。それに対して、ヒルズでは、最も重要な1.~4.の要素が全て欠けており、いくらサイン情報を付加しても効き目がなく、どうしようもない空間となってしまっている。

 まず全体構成が分かりにくい。曰く、森タワーを中心とした「円環構造」を取っているらしいのだが、「環」が見えない。同じく「円環構造」のディズニーランドとは決定的に異なる。建物の面白さを高めるために「迷宮」を計画するということを一概に否定したくはない。しかし、その場合でも「骨格」を明確にすることで、迷った場合でもここまで戻れば大丈夫というような場所を担保し、人々の安心感を確保することは不可欠である。
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六本木ヒルズ
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ディズニーランド

 分かりやすいかどうかはアプローチとエントランスでほぼ決まるといっても過言ではない。そこで全体構成が見渡せることにより、定位(自分がどこにいるかの把握)ができ、その先のプランが立てられるからである。
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地下鉄からアプローチして正面に見えるのはオフィス棟の入口。しかも、入口を入るまではそこがオフィス棟とは気付かない。それ以外へはどうやって行けばいいのだろう?
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オフィス棟手前、右手に商業棟の入口が見えているのだが、「WESTWALK」だけでは何のことやら。なんとか商業棟の中に入ってそこでまた愕然。お店はどこにあるの?上の階へはどうやって行けばいいの?

 こうなると、なんとか分かりやすくするために、サインだ看板だを、やたらとつけまくることになる。しかし、それは情報過多の混乱に陥れるだけになってしまう。やはり「分かりにくい」という声が多いのだろう。分厚いガイドブックが山のように置かれているが、この地図を解読してお店にたどり着ける人はどれくらいいるだろう?図中の「簡単にわかります」という言葉が空しく響く。

 まさかその複雑な権利関係の変換を空間で表現したかった訳ではないだろうが、自身の商売のためにも、建物の分かりやすさにはもう少し配慮するべきだった。残念ながら、できてから気付いた時には手遅れだったという典型的な事例と言える。

対するミッドタウンは・・・?
 ミッドタウンの見学ツアーに参加して、ガイドの言葉に思わず吹き出してしまった。「ミッドタウンの特徴は分かりやすいことです。」明らかにヒルズを意識したその言葉に偽りはないと思う。しかし、それって胸を張って言うほどのことだろうか。。。
 とは言え、ヒルズを反面教師に、分かりやすさには最大限の注意を払っていることは見て取れる。まず、決定的にヒルズと異なるのは、空間構成が非常にシンプルなことだ。また、どの入口からも、吹き抜けを通して全体が見渡せるようになっている。さらに、上下階への動線も分かりやすい場所(見える場所)に配置されている。上下階は同じ配置構成で理解・類推しやすい。この辺りの手法は、郊外の大型ショッピングモールで得たノウハウなのだろう。
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モールには4方向に窓が配置されており、外部の景色を眺められる。これにより、建物内で自分がどちらの方向に向いているのか、方向感を保持することができる。
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店のサインも統一して、通りから認識できるように掲出。一方で、店の間口は均等割りで単調。郊外のショッピングモールを連想させ、高級感には欠ける危惧もある。
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 分かりやすさを可能な限り追求しているミッドタウンは好感を持てるが、同時に、やや単調でどこかで見た空間という印象も拭えない。一度行けば大体の様子は分かってしまうので、リピーターを取り込めるのかといった危惧もある。一定の分かりやすさを確保しつつ、意外性や発見の楽しみも提供すること、つまり「アンビギュアス」な空間を作ることはなかなか難しい。

(添田昌志)

丸の内の価値をはかる(6)文化財による価値-2

日本工業倶楽部ビル
 東京銀行協会ビルの不幸を横目に、完全復原によって保存されたのがこのビルである。わずか10年でその運命が変わるとは、都市計画制度も罪だなと思いながら眺める。東京駅側、正面側は違和感なく超高層が背景となっているが、皇居側に歩を進めて振り返ると、飛び出て来ているのか、はたまた前時代を背負って突撃したのか、かなり滑稽な取り合いになっている。また、31mに足らないビルを補完するように超高層側では律儀に31mデザインを踏襲しているが、残念ながらこのラインはある程度距離を持ってみないと意識しづらい。しかし、街区の大きさがしっかりしていると建物のデザインにあまり気がいかない。工事中の猥雑さを乗り越え、超高層によるきれいなすっきりとした街並が形成されていると言える。国や会社の威信をかけて造った近代建築のように濃密なデザインは、むしろヒューマンスケールなのかもしれないと感じる。
 31mラインの意味は、デザインの効果というよりはその街に参加するという宣言のようなものと受け取りたい。
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明治生命館
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 昭和に建造された建物として初めて重要文化財に指定された。保存方法は、工業倶楽部ビルの延長上に位置づけられる。銀座などにも見受けられる、建物と建物の間の路地を積極的に見出した、「地」と「図」の反転モデルのようである。新しい超高層と19世紀的建物によって作られる隙間空間は、写真だけ見ればヨーロッパと見紛う景色である。
 しかし、果たしてその感想が、この街にとって発展的な意味を持つのかは疑わしい。別に日本的であることを求めるわけではないのだが、このような光景は変化の早い東京では各地で散見できる。保存を決定した時点で、このギャップのようなものを街として引き受けるべきであり、現状では生きている街における死に体の建物の「保存」の価値が、人々の活動にまで落ちてきていない。単なるオフィス街から観光などのサービス街への変換は、まだまだ発展途上なのであろう。
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三菱1号館
 明治生命館の前には大きな工事中の敷地がある。三菱1号館が完全復原されるのだという。1970年代に保存要望の相次ぐ中で、時代に合わないと取り壊れた一丁倫敦を再現するのだという。しかしながら、歴史的価値は見出されなかったにしろ、人々の記憶に馴染んで来たであろう白い尖塔の丸の内八重洲ビルが、併せて取り壊されたのは残念である。
 本物を壊しておいて、歴史性を訴えてその模造品を再建する。さらにそのとばっちりで、今ある歴史的な建物を壊してしまう。なんとねじれた構図なのだろうなどと思いを馳せてしまう。復原ブームの影には、それによって増される床面積が見え隠れするわけであるが、30年たって近代の街並をウリにするのだという覚悟。本当は超高層を建てたいだけなんじゃないの?と疑いたくもなる節操のなさであるが、歴史をウリにする以上は長期的な戦略が必要である。
 自分の土地で何を壊そうが何を作ろうが勝手だろう、と言われりゃそれまでであるが、次の戦略転換で超高層を壊すっていったってそう簡単にはいかないのだから。
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仲通り
 以前の街並がどんなであったか、すっかり忘れてしまうほどきれいな街並である。それまで、オッサンの巣窟を建物のファサードでぐるっとくるんで表面的にはきれい、という構図で堅苦しいイメージだった。いまや、路面店がならぶ優雅なショッピングストリートである。
 しかし、逆にそれを眺めていると少々怖くもなる。たしかにミレナリオをはじめとした広報活動など、担当者の苦労と成功は認めたい。ただ、人々はなんだかその戦略に流されているだけにも見え、そこにデベロッパーの余裕のしたり顔をみてしまう。
 余裕故の安易な転換にどれだけ街がついて来られるのか、少々不安を感じずにはいられない。
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(川上正倫)

丸の内の価値をはかる(5)文化財による価値-1

 丸の内はその歴史的背景から東京の中でも特異な位置づけを担っているエリアといえる。その発展には常にオーナーである三菱の影響がある。観光客の会話でもそれが主たる話題になるくらい浸透しているそのブランド力には驚かされる。
 日本の歴史的建造物のイメージは木造寺社仏閣であり「京都・奈良」にその地位を譲るが、ここでは「石」である。丸の内は、木造建造物とは一線を画した近代建築群の集積地である。とはいえ、これらの建物の歴史的有用性を語れる人は稀であろう。それでも、皇居や日本橋を含めた丸の内周辺を散策すると、その石に感じる歴史の重みを否定する人は少ないであろう。昭和の建築として初めて重要文化財に指定された明治生命館をはじめ、重要文化財の東京駅駅舎や中央郵便局など優れた建造物が並ぶ。どれも、近代日本や会社の本社屋としてモニュメンタルな意味を担わせる意味もあってか力が入っている。蘊蓄をもつことでこれらの楽しみが増す事受合いである。
 ここでは技術的/法的価値は別に委ね、景観による価値評価をフィールドワークで試みる。

丸ビル・新丸ビル
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 建設中であった新丸ビルの再生も終わり、東京駅から皇居にいたる超高層ゲートが完成した。どちらも31mでデザインが切り分けられている。100尺制限で維持されていたかつての街並を意識してのものである。技術的な背景もあったにしろ、西欧の建築の流れに逆行するような中層建物による(しかも20世紀になってから19世紀前の西欧を模倣して!)中心市街地形成は、かつてのこのエリアを世界にも稀な経済性より美観を優先した景観型商業地域にしていたと思う。
 90年代、政治の中心を西新宿に奪われつつありながら、特例容積率適用区域制度、特定街区制度などの新しい都市再開発法を背景に大規模な再開発が開始された。かつて東京海上が、前川の案をもとに100m越えを目指したことに対して、三菱が「美観」を盾に反対したことがあったが、その三菱が率先して計画した「マンハッタン計画」が、同じく不評をかったのが皮肉である。
 しかし9階建てだった丸ビルが耐震改修不能と診断され、先陣をきって37階建てへ変貌すると、流れは一気に超高層化へ。丸ビル35階展望室や新丸ビル7階ルーフテラスにのぼると、かつてはオフィスワーカーに専有されていた東京駅前のこの雄大?な景色が楽しめる。地盤面から少し上がった目線、しかも前に遮るもののない近さで眺められる体験は、なかなかに気持ちがよい。
 新丸ビルのルーフテラスはちょうど31mの高さにあり、身を乗り出し他のビルを眺めると同じ高さの建物は皆無である。他のビルも2本のゲートタワーにならい、31mラインでデザインが切り分けられているようだが、通りを歩くともはや空の広さが違う。
 丸ビルと新丸ビルは高さも外観デザインも異なるが、それによって東京駅と皇居を結ぶ軸線を優しげな印象に変えているように思えた。しかし、道路からはあまり気にならないが、少々高いところにのぼると、ばらばらなスカイラインがあまりきれいではない。昔はそれこそ見下ろされることなどなかったからよかったのだろうが、ルーフデザインに余地のある街並である。
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東京銀行協会ビル
 皇居側に移動してみると、31mラインどころかレンガ壁が足元を巻いているビルがある。このビルはバブルの最中に立て替えられた。当時はまだ特定街区制度等なく、通常の総合設計制度によって増床をした。経営的にうまくいかなくて仕方なく、、、というのが本音のようだが、多くの人にとって馴染み深かかったレンガ造を取り壊すのには、それなりの抵抗があったように想像できる。そこで、なんとか界隈を維持しようと、レンガ造ファサードで瘡蓋のように表層を覆うと、今度はその軽薄さを揶揄する声が高まった。
 建築界の悲哀でもあるが、その深い意図なき保存が、現在の丸の内文化財的再生のひとつのきっかけとなっていると思うと感慨深い。
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(川上正倫)

研究成果からの報告Podcast~街のプレイヤー編~

「都市の価値をはかる」研究成果からの報告 Podcast~街のプレイヤー編~

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丸の内の「プレイヤー」の例 [サラリーマン、観光客、買物客]
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丸の内の「プレイヤー」の関係図

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表参道の「プレイヤー」の例 [ブランドに身を包んだ買物客、地元住民(外国人、小学生)]
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表参道の「プレイヤー」の関係図

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豊洲の「プレイヤー」の例 [住民(ファミリー、自転車)、買物客]
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豊洲の「プレイヤー」の関係図

豊洲の価値をはかる(8)豊洲のまとめ

街の基盤の成り立ちが似たオランダに学ぶ
 フィールドサーベイの報告の中で、繰り返し述べられている豊洲の特徴は、「平坦なランドスケープ」、「単調なプラン」そして「スカスカ感」である。開発途上であることを割り引いてみても、日本の他の場所では体験することの少ないこの印象は、やはり埋立地を基盤としているその出自にありそうである。内陸での開発であれば、山や谷といった地形あるいは既存の集落や道路の影響を受けざるを得ないが、土地そのものを作り、何の手がかりもない新しいキャンバスの上に計画する埋立地の場合は事情が違う。豊洲の場合は真新しいキャンバスではなく再利用されたものだが、一度完全に更地にされているので同様である。
 このような、土地自体を作ることからはじめる開発のお手本は、国土の約4分の1が干拓地であるオランダではないだろうか。その国名ネーデルランドは“低い土地”という意味だが、その平坦なランドスケープと水面が身近に常に存在する場所の印象は埋立地のそれと似ている。オランダの建築事情に詳しい川上正倫氏によると、「オランダでは単調な背景(コンテクスト)に対して、如何にその単調な秩序を乱すかということに力点が置かれている」そうである。
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東京湾の埋立地(左手前が豊洲)
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オランダのランドスケープ

単調な骨格や景観を乱すことの価値
 最近オランダで行われた埋立地の開発計画のコンペでは、人工島の形状自体も計画の対象で自由な表現が求められ、実施することになった案の道路パターンは不思議な形をしている。これに対して日本では、変化に富む地形や過去の遺産(負のものも含めて)を背景に、如何にそれらを調整して秩序を与えるかが、計画・設計の主眼となっている。つまり、建築家が意図する方向のベクトルが180度違うのである。
 ロッテルダムにある集合住宅キューブ・ハウスは、日本ではとても受け入れられそうにない奇想天外な形態で人目を引くが、オランダ政府観光局がホームページで紹介しているところを見ると、好感を持たれているようである。埋立地の単調な骨格や景観を乱すことによって生まれる価値についてオランダに学ぶことが少なくない。
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アムステルダム近郊のKNSM島。かつては埠頭と倉庫街だった場所(写真左)を集合住宅が建ち並ぶ住居地域(写真右)に再開発を行っている。
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キューブ・ハウス(ロッテルダム)

(大野隆造)

六本木の価値をはかる(1)超高層建築から読み解く都市

乱立する超高層建築
 用賀方面から六本木の方へ高速道路を走ってくると、そのうちに前方に六本木ヒルズが見えはじめ、その横を横切るまで延々とその巨大な超高層建築を正面に見続けるという場面に出くわす。その悠然と立つ姿を見続けていると何か、そのビルが作り出す領域の中に吸い込まれていくような感覚を覚える。同じように、普段何気なく歩いている場所から超高層建築が見えるのを発見した時、遠く離れた超高層建築とその場所がつながったように感じることがある。みなさんも超高層建築を見たときそのように感じたことがないだろうか。
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高速道路から見える六本木ヒルズ
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建設中の東京タワー

「超高層建築が見える場所マップ」
 40~50年前には高い建物といえば東京タワーぐらいしかなかった東京も、現在は至るところに超高層建築が乱立し、現在でも異常な速度で増え続けている。その中でも六本木は現在、六本木ヒルズ、泉ガーデン、東京ミッドタウンと2000年以降に東京に建設された200m超の超高層ビル8本のうちの3本が林立するという、現在東京でもっとも成長著しい地域のうちのひとつとなっている。それに伴い六本木を歩いていて感じられる都市の認識も大きく変わってきたように思う。
 そこでそのような都市の認識を読み解くために、実際に街に出て、六本木という街から超高層建築がどうみえているのかを身を持って経験してみることにした。具体的には六本木の3本の超高層建築の周辺を、実際に地図を片手に自転車でくまなく走りまわり、超高層建築が見えた場所をその地図に記入していくことで「超高層建築が見える場所マップ」を作成してみた。一つの超高層建築の周囲を見て回るのに自転車で走った距離は優に50kmを越えたが、そのような調査を続けていくと、段々とその超高層建築やその周辺の地域の性格の違いを、「頭」というよりは「体」で、実感できるようになっていた。
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「六本木ヒルズが見える場所マップ」

六本木に建つ超高層建築の見え方の違い
 冒頭にもある六本木ヒルズはその大きな立面も手伝ってか、六本木の街からとてもよく見える印象が残る。作成した地図を確認してみると正面に六本木ヒルズを見続けることができる場面が多くあり、これは六本木ヒルズを中心に放射状に伸びる道路が数多くあることが関係していると考えられる。逆に216mと六本木ヒルズと遜色ない高さを誇る泉ガーデンの印象はそれとは対象的であった。建物の周囲を回ってみてもほとんど見かけることができないし、見かけてもビルとビルの隙間に埋もれるようにちょこんと上の部分しか見えていないことが多い。これは放射状の道路があまりないことや坂の途中に建っていることに加えて、虎ノ門などのオフィス街に近いため、道路と泉ガーデンの間に空き地が少なく、ビルがみっちり林立していることも理由の一つと考えられる。
 上記の二つに対し、近年竣工した東京ミッドタウンの印象はまた一味違っている。たしかに道路としては泉ガーデンと同様に周囲に放射状の道があまりないせいか、街のなかで見かけることは少ない。しかし、東京ミッドタウンの場合、周辺に青山墓地や檜町公園などがあり、そのおおきな空地越しに建物全体が見えるために、都市の中に建っているということをあまり感じさせない印象がある。
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道路の正面に見える六本木ヒルズ
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ビルの隙間から見える泉ガーデン
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青山墓地越しに見える東京ミッドタウン

 このように、同じような規模の超高層建築もその建っている場所や周辺の環境によって見え方はさまざまである。このことはつまり、我々が普段街の中で超高層建築を見ることで、同時にその見え方から無意識にその都市環境について考えさせられているともいえる。六本木に林立した超高層建築の多様な見え方は、道路の形状や建物の密度、大きな空地など、さまざまな都市の要素がこの地域にあふれているということをあらためて教えてくれているのではないだろうか。

(伊庭野大輔)
2006年 東京工業大学建築学専攻修士課程修了 
現在、日建設計勤務

丸の内の価値をはかる(4)街の軸-2

■新しい軸を人々に認知させるということ
歴史的には存在しなかった、もしくは、通用路的な位置付けにあった通りを、新しいメインストリートとして広く認知させることは容易ではない。ここでは、以下に示す複数の手法を駆使しているのだが、それらはどれも多大なコストのかかることである。しかし、それをやってのけることが三菱の力なのだろう。
・手法1:イベントの開催=東京ミレナリオ
・手法2:商業の誘導(ブランドショップ)
・手法3:街路空間の一体的整備(街路樹、ペーブメント、ストリートファニチャー、看板規制、交通規制)
・手法4:情報発信(仲通りHP、ガイドブック)
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東京ミレナリオ:1999年から2005年まで、7回に渡って行われた。メディアにも大きく取り上げられ、累計1770万人が訪れた。丸の内仲通りの存在を世に知らしめた効果は計り知れない。


■徹底した空間整備
仲通りは上記のような、イベントや情報発信によって、通りの存在をまずメディアを通じて人々に認識させる手法をとっている。メディア先行型であると言えるが、大切なのは、そのようなメディアを見て、実際にその場所を訪れた人に、ここがその「特別な場所」ですよと、直感的に分からせることである。そのために、徹底した空間のデザインコントロールが行われている。
例えば、看板・標識の類は完全にコントロールされ、袖看板は一切排除されている。このことは、景観的には非常にすっきりとした落ち着いた雰囲気を醸し出すが、お店を探すという情報探索の観点からは非常に不利である。店の前まで行かない限りは、それが何の店か分からないからだ。効率よくたどり着くためには、事前の情報探索や地図などが不可欠で、そういう意味では、冷やかしのお客はお断りし、店としてのブランド性、ステータスを高めているということなのかもしれない。
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通りの端から端までデザインが統一されたペーブメントと街路樹。袖看板のない景色。
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多様で豊富なストリートファニチャーとアート
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12:00~13:00は歩行者天国になる
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袖看板が表れると、そこは丸の内ではなくなったという証し
(添田昌志)


丸の内の価値をはかる(3)街の軸-1

街の骨格-あばら骨を背骨に変えた仲通り再整備
 丸ビル、新丸ビルといった超高層ビルの建設とともに、丸の内再開発計画の中核となっているのは、丸の内仲通りの整備である。いまや、すっかりブランドストリートとしての地位を確立しているこの通りはしかし、再開発される以前は、オフィスビルの間の通用路というイメージがしっくりくるような通りだったろうし、さらに歴史を遡ると通り自体が存在していないものであった。

丸の内地区の認知の変化(江戸城→東京駅→仲通り)
 そもそも、丸の内地区は江戸時代には、大名屋敷が立ち並んでいた場所である。江戸時代の地図を見ると、お城の門前として、御三家をはじめとする大大名の武家屋敷が建ち並んでいる場所であった。つまり、丸の内は、お城(江戸城)に従属して存在する場所だった訳である。
 明治時代には大名屋敷がなくなり、一時は野原となっていたのであるが、大正初期に東京駅が建設され、昭和に入って鉄道交通が盛んになるに連れ、建物が建てこみ、丸の内地区は東京駅前のオフィス街としての地位を確立していく。地区の形が完成し、仲通りの原型も見られるようになるのはこの頃である。つまり、江戸から昭和に時代が下るにつれ、従属するものが江戸城から東京駅へと変化していったのである。しかし、何かに従属した地区であるという意味では変わりはなかったと言える。
 今回の仲通りの再整備は、城(皇居)や駅への従属から脱却、独立し、自らアイデンティティとしての軸(背骨)を持つのだという決意の表れのように捉えられる。そして、そのことは、他では真似できないであろう、様々な大仕掛けによって実現されていくのである。


現在の丸の内地区の地図:仲通りの幅員が周辺の道路に比べて、かなり狭いことが見て取れる。また、皇居や東京駅ともつながっておらず、本来地区の軸とはなりにくい。縦の幹線をつなぐ文字通りあばら骨のような通りである。
(添田昌志)

研究中間報告Podcast~六本木編~

「都市の価値をはかる」研究中間報告Podcast~六本木編~

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豊洲の価値をはかる(7)再開発がもたらすもの-3

見上げてみたり見下ろしてみたりの価値
 タワーマンションが林立する姿は壮観なものであろう。新宿の高層ホテルに住んでいるような都会を感じるセッティングである。六本木ヒルズは周囲の低さから大名気分を味わうものだとすると、豊洲はもっと日常に近い都会感ではなかろうか。
 1880年代都市への密集の解決策としてシカゴに建てられたホーム・インシュランス・ビルが、近代高層ビルの祖と言われる。世界初の超高層は、1900年に建てられたニューヨークのパーク・ロー・ビルだ。日本では1962年に31mの高さ規制が撤廃され、1968年日本初の超高層ビル・霞ヶ関ビルが完成する。日本初の高層タワーマンションは1971年の19階建て三田綱町パーク・マンションであり、故丹下健三もこの建物に居を構えていた。
 豊洲では30階を超えるタワーマンションも現れてきている。1棟1000戸近く、約22000人の居住を想定している。戸数がもたらすスケールメリットとしての共有空間の充実はそれだけでも価値といえる。そして、さすがに高層階からの眺めは素晴らしい。かつての浅草陵雲閣、愛宕山の展望台、現代の森タワー展望台に至るまで人々を魅了する「高さ」を自分の住戸で得られる可能性が広がった。個の楽しみと併行して外来者は、タワーが並び立つ景観を楽しみたい。新宿エリアとは異なり住宅地というスケールは、オフィス空間とは異なる緩やかな時間の流れのようなものが感じられ、見上げると人々の日常の積層が塔となっているだろう。
 しかし、立ちつつあるタワーはどうも単調でよろしくない。今となっては時すでに遅しであるが、平らな埋立地の新たなる地平線としてのスカイラインについて、もっと統合的な協議がなされるべきである。
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150mという高さに住む
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似たような見上げ

リゾートであることの価値
 「景観・環境・防犯・防災・育児」。工業地域がもつ対局のイメージコンセプトを掲げる豊洲一帯は、お台場とつながるリゾートという顔も得ようと努力がなされている。東京ディズニーリゾートをはじめ、「リゾート」という言葉が流行のようである。
 リゾートとは、なんなのか。海が近ければいいというわけではないだろう。広辞苑で引っ張ると「保養地・行楽地」とある。リゾートたるためには、少なくとも郊外型店舗の構成は反目してしまっている。ららぽーと外部のドック周辺はたしかにリゾート的構成をとっているが、晴海通り以西にその様子はまったく伝わっていない。晴海通りの幅員の広さはもっての他だとしても、太陽のもと、楽しく散歩するような界隈ではない。せっかく十分広い歩道を確保しているのだから、そこに向かってカフェやバー、ちょっと立ち寄れて日常からの開放を促してくれる施設があってもよい。
 上空に日常、足元にはリゾートが広がり、それこそ東京都心という密集集約のスケールメリットたる都市空間が形成できるというものであるのに。
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ららぽーとの中はキッズであふれている
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イベント広場もありリゾート気分を盛り上げる

(川上正倫)

豊洲の価値をはかる(6)再開発がもたらすもの-2

埋立てであることの価値
 工業地域であった湾岸地帯を住居地域に変換する。ドーナツ化しつつある東京の住宅事情に対し、都心居住の可能性拡大は魅力的な話である。類似する再開発として、オランダ・アムステルダムの湾岸開発、中でもアイ・バーグという人工島の開発を思い出す。最初に行われたのが、アムス中心部との関係性、島の形や道路網、交通網の形状の整理だったというのだからおもしろい。
 日本だと道路は御上から与えられる。しかも、その地に適した提案が行なわれるとは限らない。また、建築基準法は道路がなければ建築してはいけないという。そういった制約の中で、しかも江戸の街を踏襲した東京の街路再構成の難しさは理解できる。しかし、豊洲は埋立地でありリセットもかけているのだ。なぜ、ディベロッパーや行政が手を組んで新たな街を再構成できなかったのだろう。道路の分断による不幸は汐留で経験済みのはずである。六本木ヒルズは逆をやって城を築いたではないか。
 豊洲はもう工業地域ではないのに、なぜ晴海通りをあそこまで拡幅したのか。市場ができたら住宅地を分断する大通りにはトラックが押し寄せるに違いない。一方、歩道の広さは歩きやすく、埋立地ならではの平らさは自転車やベビーカーにもやさしい。しかし、地形的特徴のなさが逆に道路をつまらなくしているのも事実だ。道路によって多少起伏のある地形を作り出すぐらいの新たなる価値評価がこの埋立て島にはあるべきだと思う。
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駐車場、駐車場タワーと壁のようなマンション
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同一の設計なのにめちゃくちゃな配置計画

群島の中の群島の価値
 道路のつまらなさを助長しているのが、郊外のショッピングセンター形式にならった土地の囲い込みである。設置性と一時性を決め込んで上空権を売り渡すのは結構だが、悲惨な建物によって全体のスカイラインがめちゃくちゃになってしまった。郊外の幹線道路に対する集約性はここでは無縁なはずである。
 タワーマンションが生え揃う頃には島の中に浮かぶ群島よろしく、事業者ごとの独立したエリアが浮き彫りになってくるだろう。道路の分断性の強さが豊洲内部にも群島を作り出そうとしているのだ。これが渋谷と同じく住み分けに発展するか、各島が鎖国をし始めるのかで街全体の価値は大きく変わるだろう。
 とにかく、全体計画に先んずる経済戦略が街全体を支配し、個々のディベロッパーの独立した状態が目立つ。各街区が少しでも開放に向かえば、界隈が形成できかえって全体の経済的活気につながると思うのだが。浜辺がたくさんあるのも商売にとっても利があるはずである。そういう中で、群島である豊洲の中に新たな群島を築くのではなく、豊洲、晴海、辰巳、東雲、台場といった東京湾埋立て群島のそれぞれがキャラ立ちすると面白い。
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広すぎる晴海通りと各々で閉じている敷地
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ゆりかもめ終点とその周囲の島状の塊

豊洲の価値をはかる(5)再開発がもたらすもの-1

リセットの価値、記憶の価値
 ゆりかもめの寸断されたレールを見てここが東京湾岸の終着かと実感する。
 豊洲は1930年代前半に関東大震災の瓦礫処理を目的とした埋め立てを完了し、以後、工業地域として成長した。しかし現在は、工業地域だった雰囲気は感じられない。新たなタワーマンションが建設され、都心に最も近いベッドタウンを形成しつつある。かつてから存する公団のアパートの地域には工業地にある集合住宅の匂いが感じられるが、進行中の再開発は過去からの完全なるリセットとなることは確実である。不動産広告もリセットをイメージさせることに終始し、コンセプトとして「自然」、「子育て」などの郊外的キーワードを用いている。都心エリアでありながらリゾート性を持ち、かつ安全で…。土地の価値に縛られる農耕民族・日本人にとって、埋め立て地や工業地域の記憶はマイナスでしかないのだろうか。
 さらにトドメが、負となる可能性を持つ過去を賛美することなのかもしれない。ららぽーとの舟形の形状や敷地内外部空間におけるドック跡の活用。アートという名の下に豊洲中に散りばめられる造船所にまつわるオブジェたち。痛々しくもあるそのような努力によってリセットプロセスは完了する。こうして東京の再開発地域を訪れると等しく感じる薄っぺらな新しさが作られているのだが、少々無作為に立ち上がるタワーマンションを見るにつけ、これが新しい記憶の種となるのか不安を感じる。

 日本人は、明治維新、太平洋戦争後と概念のリセットには長けている民族であるが、まさか、ファミコン世代の設計者や開発者はゲーム感覚で飽きたらリセットすればよいと思っていやしないか。開発規模が大きければ未来像への責任感のようなものを持つと思うのだが、大規模なリセットによって始まったこの街の未来像の責任の所在が不明瞭であるのが残念である。
 公団14階からの眺めは素晴らしいが、運河や工業地帯に対する負の意識が、今見ると理解に苦しむ配置構成となり、その隣の新築マンションは現在の価値観にあった方向を向いている。結局30年前から本質に変化はなく、再びリセットの憂き目にあうことは容易に想像できてしまう。
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港湾施設と新設の高層マンション
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アートとしての碇

(川上正倫)

研究中間報告Podcast~丸の内編~

「都市の価値をはかる」研究中間報告Podcast~丸の内編~

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