東京シティウォッチング

上野は公園で故郷の夢をみる

■都市と公園
 上野駅不忍口を出て右手の階段を登ると、上野をよく散歩したという愛犬連れの西郷隆盛が立っている。この西郷像で有名な上野公園であるが、寛永寺が維新の戦火で焼失した跡を公園化したものである。西郷さんを記念しての公園と思い込んでいた。実はオランダ人医師ボードワンが病院建設予定地を公園として残すべきだ、と主張したことをきっかけに「近代的な」西欧式の公園として緑地保持されたとか。ちなみに日本初の公園のひとつとして指定されている。桜の種類が豊富で、早咲きの桜が2月から楽しめ、花見シーズンともなると人で溢れる。
 西郷像が立つ崖は表面補強するように建物で覆われており、ファサードのみのいかにも「東京らしい」複合建築を形成している。実はこの崖を覆う建物群の一部であり、建替えとなった聚楽台が入っていた西郷会舘は、近代建築の大家、土浦亀城の設計による。土浦は、東銀座の道路下をつなぐトンネル型映画館シネパトスの設計者でもあり、近代における都市と建築の融合を形にしているといえる。
 その象徴的な複合崖下はアメ横商店街を軸とするアジア的ゴチャゴチャな街並が広がる。崖上は対照的に寛永寺跡に建設された国立博物館はじめとする美術館・博物館群、東京芸大などで構成される多少西欧風の整地された文教地帯が広がる。さらに動物園から不忍池にいたる緑あふれる公園とそして周辺の住宅地には戦前の雰囲気を残す。この公園を中心とする一帯こそ、東京において「都市」と呼ぶにふさわしい状況を実感できる数少ない場所であると勝手に考えている。
 上野公園には様々な目的の人々が集まる。散歩する人、休憩する人、ラジコンを走らせる人、花見をする人、美術館に向かう人、学校に向かう人、そしてその日の寝床を探す人…。ありとあらゆる人々が交錯する公園こそ東京の都市価値を示すものと感じるのである。物的な都市とは人間の諸活動を分節化した専門分化して受け入れる容器としての建物によって構成されるもの考えると、公園はその分節化の果てに相対的に現れてくる余白、つまり専門分化しにくい活動を許容する空間といえる。西欧であれば、街路とその結節点としての広場がこの役割を担うであろう。西欧式の公園をもってして、ニューヨークのセントラルパークをはじめとする他国の大都市公園にはない包容力が演出されている。それ故におそらく本来「近代的な公園」が都市からの逃避空間をめざすことが目的であったのに対し、上野公園は、都市そのものを象徴しているように思う。

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早咲きの桜を愛でる外国人観光客やカップル

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崖上に立つ西郷隆盛像

■東京のふるさと上野
 都市らしさのほかにシチュエーション的にもう一つこの公園から受ける印象がある。今回歩いたのもまさにそんな状況下であったが、成田空港経由でこの地に降り立つと、この公園の姿にふるさとに帰ってきた実感を覚える。捉えどころがない街並とそれに隣接する公園の広大なもさっとした緑による、コントラストが濃く、彩度の高い景観が原因に違いない。
 他の都市にだって大きな公園はある。しかし、都市の様々な用途の結節点にある上野駅と上野公園特有の立地がつくる特殊な景観が醸し出す情感の存在を感じる。空港からのアクセスを考えると日本の玄関に存する上野公園は、古くから様々な人の出入りを見守ってきた。東京駅から降り立つ丸の内の景観とはまったく異なるゆるさを持っている。ある時は集団就職で東京に出てきた人々を迎え、ある時は海外からの不法滞在者を含めた外国からの労働者のオアシスとなり、今では寝床を失った人々の家となっていることは、他公園の事象に鑑みると、それなりの理由をこじつけたくなる。
 さて、今回そんな理由のこじつけを狙い、空港からの帰り道に公園を訪れたのはさほど遅くない夜であった。昼間の人ごみが消えた公園は非常に静かで、道一本隔てた繁華街の喧噪とは無縁である。暗闇の中に佇む西郷像の視線の先を追うと、アメ横方向が見晴らせる。この距離感が公園の眼下に広がる明るさと非常に対照的な空間にいることを意識させる。公園の逆サイド様では巨大な不忍池で距離をとる。夏には蓮の葉で埋まるこの池も今の時期には枯れていて、水面に映る対岸のビルが印象的である。公園口の方からは東京文化会館と西洋美術館が凛とした対称性で出迎え、その足下で寝床を組み立てているホームレスさえも自分の住処として誇りを持っているように見えるくらいである。様々な次元でのこの距離感が都市を客観的に感じる遠因に思えた。日本庭園が来世や極楽浄土を描くコンセプトと通じる。しかし、前述のような包容力を蓄え、都市の中にある非都市空間では決してない。都市の一部でありながら、社会から逸脱できる場所であるからこそ、遠く離れた真の故郷に対する第二の故郷として、上野が位置づいている理由がある気がするのである。

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崖上からの上野繁華街

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不忍池に映り込む上野の街

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線路下にも展開するアメ横の夜

(川上正倫)

住まいの価値を考える

■アウトレットマンション
 昨秋以降の経済不況が高まって以来、雑誌に「マンション投売り」「マンション底値買い」などといった見出しが躍るようなった。マンションの販売不振により、多くの在庫を抱えた業者が、その整理のために他の業者に売れ残った住戸を半額程度で一括売却し、買い取った業者が経費や利益を上乗せした上で再販を行うという形態(買取再販)が現れ、格安物件が多く放出され始めているのだという。このような物件は「アウトレットマンション」と呼ばれ、大変な人気を集めているそうだ。従来価格に比べ○○%オフ、今が底値でお買い得、買わなくてどうしますか?という訳である。
 確かにモノの値段が安くなるということは、一消費者としては歓迎すべきことであるが、このような記事を読むと、果たして長年の生活の基盤となるべき住宅を買う基準が、割安感・お買い得感だけでいいのだろうかという違和感を素直に感じてしまう。この「アウトレット」という昨今流行の言葉も、まるで衣服や装飾品のように軽く購入するものというイメージを植えつけるために、販売側が意図的に使っているという気さえしてしまう。そもそも、2007年から2008年初頭にかけては、地価や建設資材の上昇によりマンション価格が従来ないくらいに高騰していたという背景を考えると、○○%オフとは言っても、その実態は2006年以前のある意味正常な価格に戻っただけと解釈するのが正しいだろう。ここは今一度冷静に住まいの価値とは何かについて考え直したいものである。

■住まい手の生活の質と不動産価値
 このような住宅の価格の話題が出る時にいつも感じるのは、その価格は実際の住まい手が生活している時に感じる快適さや価値と一致しているのだろうかという疑問である。例えば、中古マンションの価格算定の根拠になっている主な要因は、駅からの距離、築年数、階、面積である。しかし、これだけの要因でそこに住んだ時の快適さが表現されているとはとても思えない。私自身が住み替えのために中古マンションを探していた時の例で言えば、角部屋の3面採光なのか、中間の住戸で1面採光なのかということや、窓の外に緑の並木が見えるのか、隣の住棟が見えるのかというようなことで、価格に差がつくことは一切なかった。毎日の朝食を、朝日に輝く緑を眺めながら取るのか、隣の住戸の視線を気にしてカーテンをしたままの薄暗い部屋で取るのかというのでは、非常に大きな生活の質の差があると思うのだが、そのようなことは不動産価値とはご縁がないようである。
 上記は住戸内部の話であるが、周辺の街の環境についても同様のことが言える。生活者の視点で言えば、住まいとは街と一体なっているものであり、住宅を買うということは、その街の環境を買うということでもある。私達は、本年度「都市居住の価値を探る」という調査研究を行った。そこでは、東京都内の住民に自分が住んでいる街の「いい」「好き」と思う場所を自由に挙げてもらったのだが、非常に多く割合の人が、公園・緑地、川、神社・寺などといった地域のオープンスペースを回答した。そのような場所でくつろいだり、のびのびできたりすることが、生活の質を高めるものとして多くの人に共通して重視されていることが改めて示された。したがって、そのようなオープンスペースが豊かな街、また、そのようなところに安全に、簡単にアクセスできる街は、生活者の視点からは非常に価値が高いと言えるのだが、不動産価値としてはそこまで意味のある要因とはなり得ていない。周辺環境要因として多少の評価はされるものの、支配的な要因はやはり都心からの距離であったりする。

■生活快適指数
 そもそも、住宅はオフィスビルなどの収益物件とは役割が異なる。本来、そこで語られるべきは、生活者の感じる快適指数のようなものであって、不動産価値(転売したり、賃貸した時の価格)ではないはずである。この住まい(街)は生活快適指数が高いので不動産価値も高いのです、という構図であれば納得もできる。しかし上述した通り、現状では、不動産価値を高めることを追求しても、生活快適指数を高めることにはならないのである。
  欧米では、住まいに手を入れてより快適に住まえるようにすることにより、その価値が評価され、購入時より高く売れるという市場が成立していると聞く。築年数が長くなれば一律に価値が下がるというような現状の日本の不動産評価基準では、住まい手の、よりよくしようという意識も下がる一方であろう。そのような考えを改めるきっかけになるような、生活者側からの価値を測る総合的な生活快適指数を提案できないだろうか、前々からの私の課題である。

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「近くの広場でのびのび遊ぶことができる」「春に桜を眺めることができる」といった生活の潤いにあたる部分はなかなか不動産価値に反映されない。

(添田昌志)

築地の街の賞味期限

■食のブランドとしての「築地」
 築地は中央卸売市場の存在によって日本人なら誰でも知っている地名のひとつだろう。築地市場に近い=もっとも鮮度が高く質の高い食材を用いているということで新橋、銀座の高級店は「築地直送」をひとつのウリとしている。食のブランドとして「築地」の未来は安泰と思えど、必ずしも、そうではないらしい。
 資料の数字を見ていると1980年代には約80万tあった年間取引量が不況のせいか最近60万tを割り込み、取引金額も総じて減っている。当然、不況の影響はあるだろうが、もうひとつの原因に流通経路の多様化に基づく鮮度のバロメータの変化が挙げられる。最近では「築地直送」にとって代わって「産地直送」を謳う方が消費者に響くのだろう。沿道大型量販店に客をとられる駅前商店街が如く築地にも徐々にその波がかぶりはじめているといったところか。
 それでも街には「築地○○寿司」などと「築地」を店名に掲げる店も多い。その地にあって地名を冠するのは街そのものが食のブランドとして立っていることを象徴するものといえる。
 市場を離れて歩くと、いわゆる「看板建築」に多く出くわす。道路面を銅板張りとし、それぞれその銅板に装飾を施し職人技を競っている震災後に流行った建築スタイルである。震災後につくられた市場とリンクし、戦災を免れたこのエリアには、そんなノスタルジックな外装の料理屋や食材店が数多く残っている。やはり歴史、伝統とそれを維持する信用が安心できる食のブランドとして街並にも担保されているのだという気がした。

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(写真左)看板建築
(写真右)路地に潜む古い民家を改装した料理店

■市場移転と街のアイデンティティ

 しかしながら、食のブランドを確立した築地から中央卸売市場の移転はもはや決定的であり、あとは受け入れ先の豊洲における「食の安全」を脅かす土壌汚染問題を主軸にカウントダウンを待つ者の感情論へと移行している。
 移転ニュースの鮮度はともかく、実際に訪れてみると現実問題として「狭い、古い、形がおかしい」など現在の市場を使う限界があることは見て取れる。トラックの渋滞も半端でないらしく、現状に問題があることには誰も異論はないであろう。
 江戸時代から魚河岸があったのかと思いきや、関東大震災で消失した日本橋にあった民営の魚市場や京橋の青物市場の収容を目的に築地海軍学校跡に1935年に営業開始し、歴史は約70年である。建物は老朽化し、耐震性やアスベストの問題がある。当時は貨車での搬出入がメインであり、汐留から貨車を引き込んでいたことから楕円のカーブを描く「形がおかしい」建物形状をしている。川に沿った配置も水運への関連であろう。しかし今ではほとんどがトラックによる運送であり、道路環境から見ると築地の分は悪い。
 航空写真で見ると23haの敷地の巨大さが伺える。そんな巨大施設不在の70年前以前はどのようだったのだろうか。地下鉄築地駅を降りると有名な築地本願寺が目に入る。インドの様式を取り入れた伊東忠太の代表作である。江戸時代に浅草にあった西本願寺の別院が大火で消失したが、幕府によって与えられた新敷地はなんと海上だったという。門徒を中心として与えられた海を埋め立て、土を築いたことから「築地」となったのだという。その後築地は寺町として多くの寺社が建てられ、寺町として震災前までは屋敷町となっていた。今や遠くまで埋め立てが進み、元海上であったなどという雰囲気は微塵もない。そういう意味ではるか昔から「移転」によってそのアイデンティティを築いている浮遊の土地といえる。
 市場移転後には、跡地はオリンピックメディアセンターの敷地として計画されているとも言われていたが、実際には頓挫している。いずれにせよ、場外商店街は市場移転後も残るという。故郷を失った施設を第二の故郷として受入れて来ることによってその都度アイデンティティを変質させてきた。次フェーズにおいてどのようなアイデンティティを築くのか。
 街として賞味期限を維持する大変さは東京のどのエリアにも共通する問題である。東京の景観が安定しない理由が今までは大火、震災、戦災といったリセットであり、その中での建築様式の変化であった。しかし今後は都市インフラ的な機能性の変化に基づくアイデンティティの揺さぶりが未来の景観像を不安定にする。築地は、食のブランドの維持に努めるのか、新たなアイデンティティを求めるのか。いずれにせよ、現状ではノスタルジー以上の未来の景観像は見えてこない。

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築地市場航空写真(yahoo地図より)

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(写真左)魚市場(wikipediaより)
(写真右)築地本願寺

(川上正倫)


色彩の持つ力

■色に対する説明力
 先日、吉祥寺の楳図かずお邸に対して、周辺住民が「閑静な住宅街の景観が破壊される」として外壁の撤去や損害賠償などを求めた訴訟の判決が出された。判決は、現地周辺には外壁の色に関する法規制がないことや、他にも黒や青など様々な色の建物があることなどから、住民が景観を享受する利益(景観利益)を侵すことにはならないと判断し、「原告に不快感を抱かせるとしても、平穏に生活する権利を侵害するとは言えない」と結論付けた。この建物については、騒動が持ち上がって以来何度かこのコラムでも取り上げてきたが、今回の判決は予想通りのものであった。やはり、事前に何らかの取り決めを作っておかねば、建った後から何を言っても遅いのである。

 裁判には勝った楳図氏ではあるが、しかし、その自邸に対する弁論は、個人的には受け入れ難いものがある。氏はその外観について、「赤白のストライプは私の高校時代からのトレードマーク。自己表現の1つであり、変えることはできない。」と述べている。言うまでもなく建物は個人の財産であると同時に街の共有財でもある。上記の弁論はあくまでも私観のみに基づいた見解であり、共有財として、街の視点から見た時にその建物がどのような意味を持つのかを全く語っていない。

■色による街の活性化
 私は、建物に原色を使うこと自体が間違っているとは思っていない。むしろ色彩により、街を活性化できる場合があるのではないかと考えている。下はオランダの集合住宅の写真である。オランダはその平坦で単調な地形ゆえ、如何にその単調さに変化を与えるかということに力点が置かれ、建物はそれぞれ個性的な形をし、外観もカラフルなものが多い。色の使い勝手がうまく、原色であっても不快な感じはせず、華やかな印象で、明るい気持ちにさせられる。

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 一方、下の写真は私の住んでいる地域にある団地の写真である。先日その外壁が塗り替えられ、旧来の白一色の外壁にアクセントカラーとしてベージュがあしらわれる事となった。しかし、厳しいことを言うようであるが、この配色はなんとも中途半端で、アクセントはつけたいけれど、あまり派手な色は避けたいという、色彩に対する妙な保守性が現れてしまっている(ちなみに、この配色にすることは住民の多数決によって決められている)。結果として、かえって団地の古さを感じさせることになっているのではないだろうか。近年、老朽化した団地の再生ということが頻繁に取り上げられているが、何の特徴もない郊外の団地にこそ、もっと大胆な色使いによる再生・活性化という発想があってもよいと思う。

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 現状、都市景観に関する多くの論説や、各地で制定されつつある景観に関する条例のほとんどは色彩を規制する方向にある。楳図邸に限らず、例えば、九段のイタリア文化会館のように、目立つ色を叩くことは簡単である。しかし、規制するだけが色彩というものが持つ力を活かすことになるとは思えない。景観、景観と騒ぎ立てることで、カラフル=悪という単純な認識が広がっているとしたら、本末転倒なのではないだろうか。
 真の意味の色彩の調和とは、多彩な色を使いこなせるようになってこそだと考える。そして、それによって多様な都市の価値が生み出されるだろう。一昔前のサラリーマンの背広のようにグレー一色に染まった街は決して美しくない。
 実際のところ、都市景観において色彩がもたらす効果をきちんと客観的に説明することは非常に難しい。しかし、色の持つ力を活かした美しい街並みを作るためには、なんとなくベージュの色を選んでしまう人々の視野を広げ、理解を促すことから始めなければならない。そのためには、多くの人が納得できる優れたデザインを提示するとともに、共有財として、街の視点から色彩がどのような価値を持つのかを、難しいけれどもきちんと説明するという姿勢こそが不可欠である。

(添田昌志)

都市とホテル

 この年末年始に旅行に行かれた方も少なからずいらっしゃるだろう。旅行に不可欠なものと言えば、宿泊施設である。今回は、東京のホテル、特に近年開業した高級ホテルについて焦点を当ててみたい。

■2007年問題再燃?
 下表は、近年に開業した東京の高級外資系ホテルの一覧である。これらのホテルは、海外の超一流ブランドを冠し、標準的な客室料金が6~7万円台と、それまでの高級ホテルとも一線を画した非常にグレードの高いものとなっている。この開業ラッシュは当初「2007年問題」として、客室数の供給過剰につながると危惧されていた。しかし、蓋を開けてみると、いずれのホテルも開業時の稼働率は大変好調で、また既存のホテルの稼働率も押し上げられたことから、「外資系高級ホテルの進出によって新しい市場が創出された」とまで言われるようになった。ところが、昨年起こった金融危機による景気の悪化により、主要な顧客であった外資系企業のビジネス利用が減少し、一転、稼働率は低下しているという。米国の「住宅バブル」のように、東京のホテルの「新しい市場」もあっけなく崩れ去ってしまうのだろうか。
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■ホテルの公共性

 個人的には、このような世界に名を馳せる超一流ホテルが東京にできることは、東京の国際的な地位を押し上げ、また利用者にも選択の幅が広がるという意味で歓迎されることとは思う。しなしながら、「高級」、つまり値段が高い、ということだけが売りになってしまっている(ように見える)ことには、強い違和感と危惧を覚える。
 元来、ホテルとは公共的な都市の施設であった。明治期以降の日本のホテルの歴史的経緯を顧みると、外国人向けの宿泊施設として始まりながら、その後多くの貴賓達による様々な会合、宴会が行われるようになり、人々の社交場としての機能を持つようになった。また、大正期においては、市民の交歓の場としての機能が重視され、ダンスや演劇などの催しが繰り広げられ、都市における文化の中心としての一面を持っていた。つまり都市の経済、文化的な役割の一端を担い、都市とともに発展してきたのである。そのような公共的性格を持つが故に、都市を語るに欠かせない著名なホテル(香港:ペニンシュラホテル、東京:帝国ホテルなど)が存在しえるのである。

■都市再開発と複合する意味
 仮に、現在のホテルが、富裕層の自尊心をくすぐり、単なる個人的な消費の対象としてしか存在し得ないのであれば、ホテル本来の役割とは合致しないだろう。そこには都市への眼差しが必要なのではないだろうか。
 上に述べたホテルのもう1つの共通点は大規模な再開発とセットになっている点である。いずれの再開発も「独自の」都市の新しい複合形態を目指すと謳っている。そこに高級ホテルがセットされている意味を改めて捉え、新しい複合のあり方、ホテルの公共的位置付けを提示することこそ、あっけなく崩壊してしまう「市場」に寄らない、普遍的なホテルの存在意義につながるものと期待したい。
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ザ・ペニンシュラ東京

(添田昌志)

参考文献:
東洋経済オンライン http://www.toyokeizai.net/
勝木祐仁:「明治・大正・昭和初期の都市に建設されたホテルの平面計画の実態」東京工業大学博士論文(2001)

巣鴨の未来に世界遺産の夢は見られるか

■心のとげを抜く
 高齢化社会などと言われて久しいが、心の準備が出来ている街がどれほどあるのだろう。巣鴨に、おばあちゃんの原宿こと巣鴨地蔵通り商店街がある。本年元旦、さすがの東京各地もひっそりしている中を訪れてみると正月早々からかなりの賑わいであった。

 もともとこの商店街は旧中山道であり、江戸時代より日本橋から板橋宿に至る最初の休憩所として昔からにぎわっていたとのこと。巣鴨地蔵通りは通称とげぬき地蔵の参道となっており、商店街は巣鴨駅あたりから庚申塚まで約800mの長さを誇る。この商店街には200軒近い商店が並び、「4」のつく日に開かれる縁日には一日10万人、年間で800万人が訪れるという。正月の人出はそのほとんどがおばあちゃん…、というわけでもなく実際には老若男女バランス良くといったところか。むりやり特徴づけるとすると正月故におばあちゃんを中心とした一族総出で赤ちゃんから老人まで出かけていって心配が少ない初詣場所に出かけて来たといったところであろうか。まず、地下鉄駅から地上へのエスカレータに乗ると「?」と違和感を覚える。明らかに遅い。あとからこれは老人にやさしい速度設定になっていることを知った。到着からおばあちゃん仕様である。

 主目的地であるとげぬき地蔵は、痛みを抜いてくれる仏としてこれまたおばあちゃんにはもってこいのありがたい仏様なのである。ほか、それを巡る地蔵通り商店街のほとんどの部分で歩道に段差はなく、また歩道と店舗の間も段差がない。ポップの文字も大きいし、売っているものもおもしろい。「おばあちゃんの原宿」というからにファッション系のショップも多く、保温性の優れた機能的なものから最先端「赤パンツ」などのヒット商品が並ぶ。当然有名ブランドの入り込む余地はなく、グローバル展開しているチェーン系のものはほとんどないところも垣根の低さとコミュニケーションを生んでいる。店内トイレを開放している店舗も多い。

 さらに郵便局前や公園など要所要所に休憩広場が設けられていて、ベンチに腰掛けて和菓子屋の店先で仕入れた塩大福や団子などを頬張ったりしているグループも。縁日の日にはなんと銀行がホールを無料開放してお茶などを出してくれるそう。「体の痛みを抜くのはとげぬき地蔵、心の痛みを抜くのは地蔵通り商店街」というコピーを体現するホスピタリティである。基本的には「とげぬき」というおばあちゃん向けのご利益と周辺の商業がニーズにうまく応えている結果の自然な盛り上がりである。

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元旦から賑わう巣鴨地蔵通り商店街

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とげぬき地蔵脇の広場

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郵便局脇の広場

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おばあちゃん向けファッションの店

■おばあちゃんの原宿という景観
 巣鴨地蔵通り商店街は、歴史と文化を大事にした、ふれあいのある、人の優しい街として2006年には、中小企業庁制定にがんばる商店街77選に選ばれている。お詣りという定期的な行為と結びついた門前町としての相互的な関係を築いていると評価されてのことである。2008年4月には、本の街神保町などと並んで巣鴨地蔵通り商店街が、文化庁から「文化的景観」の主に生業に関わる商店街の景観の「重要地域」として指定された。世界遺産でもこのような人の営みに注目した「文化的景観」がトレンドとなっているからには、巣鴨も…?しかしながら、観光を味方につけて順風満帆のように見える中にもそれなりの悩みもあるようである。

 いわゆる高度成長を支えた団塊世代がこの循環の下支えとなっている「信仰」に興味が薄いということである。当たり前であるが文化的景観は、文化を失っては成立しない。駅前商店街では、廃止される例も多い中で傘をささずに買物できるということでこれまたおばあちゃん向けのアーケードを残しているだけでなく、アーケードにソーラーパネルを乗せるという改修まで行っている。徹底したバリアフリー化と平行したエコ化によって人にも地球にもやさしい商店街をめざしている。宗教という意味での「信仰」は薄れども、このような信条は文化を継続する上で信仰と同義である。やさしさ特化の文化が世界遺産となるまで成熟させ、原宿が若者の巣鴨と名乗ることでアイデンティティを表現するようになる何かを獲得できることを期待したい。

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バリアフリーと店先コミュニケーションによる門前町商店街の文化的景観

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初詣客で賑わうとげぬき地蔵

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駅前商店街アーケードとソーラーパネル

(川上 正倫)

都市とイルミネーション

 今年も早や12月となった。この時期の街の風物詩と言えば、やはりイルミネーションだろう。ということで、今回は東京の各地のイルミネーションについて、その特徴を語ってみたいと思う。


■新旧商業地対決

 一昔前は、イルミネーションというと、大通りの街路樹に電飾を飾って、というのが定番だった気がするが、今では、それに留まらない様々な仕掛けが多く見られる。それらを牽引しているのが近年開発された商業施設達である。中でもすごいのが六本木の大規模再開発である東京ミッドタウンと六本木ヒルズだ。ミッドタウンでは、隣接する桧町公園を取り込んで大々的なイルミネーションが行われている。特に、公園の芝生に張り巡らされた電飾ネットはもはやイルミネーションの枠を超えたアートに近いものである。ヒルズでは午後5時の一斉点灯が話題を呼んでおり、それを目当てに観光客が押し寄せるほどの名物になっている。これらの施設はイルミネーションによって集客を図りたいという事業者側の強い思惑があるため、このような派手な演出の傾向は今後も続いていくだろう。
 これに対して、銀座や丸の内、横浜元町といった有名どころの通りは、よく言えば控え目で上品な、悪く言えば少し寂しい感じのイルミネーションになっていた。銀座などはそもそも日本のクリスマスイルミネーション発祥地とも言われているだけに、もう少し盛り上がっているのかとも思ったが、背後のブランドビルの、ファサード全面を使ったディスプレイに負けている感じがして、やや肩透かしだった。しかし、これは見方によっては集客をイルミネーションなどに頼らなくてもやっていける老舗の余裕と言えるのかもしれない。

■ストリートイルミネーションの意味
 渋谷の道玄坂は電飾に負けない背後のビルの賑やかさが特徴的だ。それにしても、イルミネーションなど必要ないくらいに煌々としたこのカオス状態の通りに、電飾が付加されるだけで何か一体感が生まれるように見えてしまうのは新鮮だった。
 最後に表参道。ここは1990年代には通りのシンボルであるケヤキを使ったイルミネーションを行い、イルミネーションといえば表参道といわれるぐらいの盛り上がりを見せた場所である。それが、あまりの混雑による近隣住民からの苦情などに配慮して中止され、一時形を変えて再開されたこともあったものの、今年は写真のような暗い姿になっていた。イルミネーションの有無でこんなにも通りの印象が変わるのかと驚かされると同時に、イルミネーションの意味、-果たして誰のための、何を伝えたいためのイベントなのか-について改めて考えさせられる場所であった。

■東京各地のイルミネーション達
 このように多種多様なイルミネーションが見られるのは、近年のLEDの普及により電飾の色が豊富になったという技術的な背景も大きい(ちなみに、今年の注目色は赤だそうだ)。

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新宿サザンテラス

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東京ミッドタウン

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六本木ヒルズ

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銀座

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丸の内

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横浜元町

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渋谷道玄坂

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表参道(表参道ヒルズの電飾ばかりが目立つ暗い通りになっている)

(添田昌志)

汐留に流れは来るのか?

■汐留の歴史と現状
 汐留は江戸時代には大名屋敷が立ち並ぶ武家屋敷街であったなどと、今の街並を見て想像がつくだろうか。明治になって政府に接収され鉄道の拠点となった。それからしばらく鉄道貨物駅として機能していたが、80年代後半に廃止され、跡地が再開発されることになった。武家屋敷の遺跡発掘などでしばらくは更地だった。学生時代に工事現場に忍び込み、敷地境界までビッチリと建物が建ち並ぶ様、銀座のネオンと敷地の暗さの対比を眺めながら都市の不思議さを友人たちと議論した記憶がある。2000年代になりようやく超高層が生え始め、都市らしくなってきた。それでも2008年12月現在で未だに工事中の部分が散見される。
 さて、歩いてみて感じるのは、街としての寂しさ。大勢のサラリーマンが働くビルがこれだけ建っているのに人の気配が薄い。昼になるとランチを食べにビルから人が一斉に降りて来ると「こんなに人がいたのか!」と驚かされる。実は地表レベルは車優先となっており、地下に潜ると現実には人が大勢行き交っている。ビルの中、地下の活気が地表に表れてこないのがこの街を異様な雰囲気にしている。その感覚をより強くしているのが、交通網による視覚的、身体的な断絶感である。もともと鉄道拠点だったこともあり、新幹線は通るわ、ゆりかもめはすり抜けて行くわ、おまけに首都高までといった具合で何やら曲線をえがく高架が多い。その高架の隙間に超高層が乱立する様はまるで屏風を立てたようで、汐風をとめてヒートアイランドを引き起こしているとの批判も真偽の程はともかく視覚的に頷けてしまう。
 この超高層が立ち並ぶ様もそれぞれの建築計画的な成功はさておき、東京の無計画さを表層するものとなっている。更地からの再開発なのだからうまくやれるはずなのに、と思わずにはいられないが、逆に設計者としては超高層を成立させるのに全力を注ぎながらも、隣に建つ超高層がどんなものになるかという相互関係は考える余地がなかった事情も理解できる。アムステルダムの再開発事業を鑑みて、このような相互関係が成立する再開発には、行政の強権が必須となる。デザインに口を出さないまでも、全体の運営に口出ししてコントロールする権力が必要なのである。まあ、汐留に君臨する日本の大企業群の前では行政もなかなか言いたいことも言えないのであろうが。

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(写真左)方向性がバラバラの超高層がつくる屏風
(写真中)足下を断絶する交通網
(写真右)多少人々が行き交う地下部分

■「イタリア」の意味 
 そんな都市計画のあり方について思いを馳せながらシオサイトエリアを歩いていると、線路向こうに列柱を貼付けた巨大なJRAの建物が目に入った。工事中で線路下を渡れないので、汐留の一部とは思えないくらいアクセスが悪いのだが、再開発エリアに含まれていたので大回りして行ってみた。近づくと周囲のコンクリートの白基調のビル群とは一線を画すヴィータイタリアと名付けられた一角であった。パステル調の建物群に囲まれた広場的スペースがあり、脈略のなさは東京であってもかなり上位に位置づくであろうが、JRAの警備員がちらほらいる他には、ここもまた閑散としていてなんだか不思議な街である。この一角はシオサイトと異なりある意味相互関係がとれている。「イタリア!」というキーワードの下に事業者が同じ方向を持って建築している。感想として日本でもやればできるんだという気持ち半分、なぜ「イタリア」なんだという気持ち半分。
 新橋へ戻りがてら超高層の足下の旧新橋停車場の遺構を用いた建物を眺めながら、恵比寿で感じた歴史を伝達することの難しさを感じた。都市計画のあらゆる難しさを体感できる街が汐留であるといって過言ではないだろう。いずれにせよ、新しモノ好きの日本人をしてもまだ汐留ブームを起こし得ていない。流れが訪れるかどうかは、まだ余地の残る開発途上の地で、視覚的にも歴史的にも起こっている断絶をいかに連続させていくかにかかっているように感じる。

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(写真左)オリジナリティを感じない地下イベントスペース
(写真中)超高層に囲まれて逆に脈略を失っている
(写真右)歴史建造物としての旧新橋停車場

(川上正倫)

都市と展望台

■東京タワーから見えるもの
 誰から聞いたのか、正確なところは定かではないが、「初めての街では、まず一番高い塔に登りなさい。」という言葉を覚えている。つまり、高い場所からその街全体を眺めることで街の構成が把握でき、その街でどこを見るべきかが分かる、という意味だったと解釈している。
 先日、東京タワーに登った。もちろん、東京にはもうずいぶん長い間居るので、初めての街という訳ではないのだが、改めて上から眺めてみることで、これまで見えなかったこの街の構成が見えるかもしれないという期待をこめてのことである。しかし残念ながら、登って見た率直な感想は、無秩序に増殖している周辺の高層ビルばかりが目に付き、ますますこの街の構成が分かりにくくなっているという懸念であった。
 高層ビルが増えること自体を批判する気は毛頭ない。それはある意味、都市の健全な発展を示す指標でもあるだろう。しかし、都市の構成が分かるということは、すなわち、その都市が何を目指して計画され、何を重視して発展してきたのか、その一貫性が目に見えて感じられるということなのである。例えば、パリのエッフェル塔であれば、高さ37mに厳格に規制された中心街区の建物の間に放射状の幹線道路が延び、副都心ラ・デファンス地区の高層ビルの塊がその向こうにまるで浮島のようにあるという、明確な街の構成が見える。このことは、街路網と建物景観における中世より続く歴史性を重視した計画の賜物である。また、ニューヨークでは、碁盤目状の街路に摩天楼が林立し、その間にぽっかりとセントラルパークの緑が広がっている様子が一目で把握できる。現代都市の象徴として、可能な限り高層高密度の都市を目指しつつ、生活に必要な緑の場は絶対に確保するという思想がここに表現されているのである。
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東京タワーからの眺め

■都市の方向性
 このような構成が明確な都市において、塔から街を眺めることは、住民自身が自分達の都市が目指してきたものを再認識する機会を与える。先に、パリで市街地の高さ規制を一部撤廃し高層ビルの建築を容認する計画が発表された時、多くの住民が反対の意向を示したというが、塔の上から眺めた街の美しい姿が、それによって乱れてしまうことが簡単にイメージでき、共有できるからではなかったろうか。
 東京もかつては低い街であった。東京タワーのHPに昭和40年代に展望台から撮られた写真があるのだが、これを見ると、皇居の緑を中心として、東京の街が放射状に広がっている様子がよく分かる。この時代に都市として何を目指して発展させていくのかを明確に方向付けできなかったことが、現在の景色に現れてきているのかと思うと残念でならない。
 東京タワーは今年で建設されてから50周年になる。そして、このタイミングで東京タワーの代替として「東京スカイツリー」が2011年の完成を目指して、着工された。東京スカイツリーが完成した後には、東京タワーはその主たる収入源である電波塔としての役割を奪われるため、展望台として生き残るしか道がないという議論がなされている。しかし、展望台として生き残れるかどうかは、東京タワーの高さがスカイツリーに負けるということではなく、実は東京の街が今後、上から眺めるに足る価値を提供できるかどうかにかかっているのだ、と言うのは言い過ぎだろうか。
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東京にある主な展望台の高さの比較
50年前に建設された東京タワーの展望台は、未だに東京で最も高い位置にある。

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東京の主な展望台の配置
東京タワーは山手線の内側にあり、皇居や東京湾を同時に眺められ、他の展望台と比べても、実は東京の構成をもっとも分かりやすく見ることのできる配置にあることが分かる。

(添田昌志)

浅草のベンチマークは何なのか?

■浅草の建築デザインコンペ
 浅草雷門の斜向いにある「浅草文化観光センター」が老朽化などを理由に建替えられることになり、建物のデザインを決定するコンペが実施されている。このコンペの要項で重要な項目のひとつとして謳われているのが、敷地ならびに浅草の「土地の記憶」に対する建物の位置づけである。当然といえば当然の要求なのであるが、果たしてここでいう「記憶」とはどのようなものなのだろうかとふと気になった。浅草の歴史や伝統を継続するというように与件を解釈すれば展示内容などのソフト面では理解できるのだが、ハードたる建物にとって土地の記憶を位置づけることによって、どのような影響を与えうるのだろうか。
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現在の浅草文化観光センター

 建物がその土地固有の資材や情報をもとにつくられていた時代においては、建築が敷地に立つということ自体が「土地の記憶」を担っていたはずで、本来だったらコンペの要項として敢えて謳う意味すらなかったのである。また、駅舎や工場といった、それまでになかった新しい機能に適合したビルディングタイプであれば、それもそれでひとつの文脈となりえただろう。しかし、「文化観光センター」とは、出来合いのビルに入居しても成り立ってしまうような機能(建物のプログラム)なのである。そして、その場から浅草を見渡した際の景観もまた、記憶継承の論拠とするにはハードルが高い。そういう意味で、浅草文化観光センターであるからには浅草を表現するような建物であるべきだ、という根拠自体のあやふやさが急にひっかかった。


■浅草のランドマーク

 コンペのことはさておき、浅草建築の流れを概観すると実にランドマークの歴史と言えることに気づいた。雷門は、平安時代からの存在がいわれているが、江戸時代に何度か消失していて、1865年に消失してから100年程はたって今の形に修復されたという経緯がある。そのほか、今はなき煉瓦の塔、凌雲閣や看板建築の代名詞で仁丹ビル、神谷バー、花やしきにスタルクのアサヒビールホールと、時代時代で浅草の代名詞となるランドマークには枚挙にいとまがない。そして数年後には、ちょっと離れるが東京スカイツリーも完成して更なるランドマークが増える。そういう意味で東京の中でランドマークのベンチマークが浅草に集中しているといってよい。ランドマークは本来孤高の存在として象徴性を高めるはずであるが、これだけ林立すると場の象徴性も高まっている。それが浅草のもうひとつの熱気になっているのだろうし、祭りや芸能といった無形のものに有形の偶像を与えるということで「記憶」を継承するのか、と思うとごちゃごちゃの浅草の景観が凛々しく思えてきた。

 三社祭の風景を見るにつけ、結局そのランドマークに集まる賑わいこそが浅草を記憶するベンチマークなのだと思う。

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黄金色に輝くアサヒビール建物群

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三社祭りで神輿を取り巻く人の渦

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明治末期、大池越しに見た浅草十二階(手彩色絵はがき)
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(川上正倫)

恵比寿は過去を未来につなげえたのか

■ヱビスガーデンプレイス
 「恵比寿」という地名は彼のヱビスビールから来ているのは有名な話だ。1901年にビール出荷専用の貨物駅としての恵比寿駅ができ、1928年に恵比寿が街の名前になったという。1970年後半から周囲が宅地化されるに連れて工場増築が課題となり、1988年に船橋に工場を移転。工場跡地は恵比寿ガーデンプレイスとして再開発され1994年にオープンした(ヱビスガーデンプレイスの歴史 http://gardenplace.jp/history/ 参照)。

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ガーデンプレイスのビール工場をイメージさせる煉瓦造の低層建物群。駅方向からは長い歩廊がタワーに向かっているのが見える。

 バブル期の計画とは言え、敷地規模が約10haに及んでおり、当時としてはかなりの大規模再開発であったといえよう。20年前の恵比寿といえば、渋谷と目黒の間に潜み、(筆者の年齢的にも)ビールというよりもラーメン屋街のイメージしかないマニアックな街であったように記憶している。そんな街が一大人気スポットに早変わりを遂げ、情報誌などで盛んに取り上げられるようになった。再開発特有の後ろめたさもなく消費者には割と好意的に受け入れられたように覚えている。
 かたや、完成時にはバブル崩壊で景気は下がる一方であったこともあり、駅周辺でサラリーマンを相手にしていた地元商店の絶望を伝える報道も盛んであった。ガーデンプレイスそのものは恵比寿駅からかなりの距離がある。それ故にスカイウォークなる歩廊でつなぎ、これも当時としては珍しかった動く歩道で駅から簡単直接に行けるようになっている。つまり地元商店街にとって、目の前をベルトコンベヤーで客が素通りするわけでどんな営業努力も無駄というわけである。今となっては、現在の賑わいを眺める限り、結局これは一時の杞憂に過ぎなかったようである。ガーデンプレイスが光り輝く「ハレ」の空間に対して、日常を引受ける影の「ケ」を地元商店街が担い、共存することで再開発された新しい街を受容するバランスを築いている。似た事例として、六本木ヒルズに客を取られると心配した麻布十番商店街がかえってヒルズの観光客の立寄りによって結果的に盛り上がったなどというケースもある。ローカルな客の取り合いよりも街自体の魅力を高めることこそが重要なのだ。

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ガーデンプレイスとは駅の逆側にある繁華街。落ち着きのないところが逆に安心できる。

■都市の選択可能性
 さて、このガーデンプレイス、高台にあるために駅からのアプローチでは周囲が眼に入らない。坂を上らせておいてサンクンガーデンに引き込むので着いた後はガーデンプレイスしか見えないディズニーランド的蛸壷構図である。煉瓦をベースとしたヨーロッパ調のファサードづくりを行っているが、これが総合設計制度の賜物なのか建物密度が低く、なにやらスカスカしており、建物が連続していくヨーロッパ市街地には見られない景観である。横浜みなとみらいエリアにも同様の構図が見られ、ある意味ジャパンオリジナルな構図といってよいかもしれない。

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人々を引き込むサンクンガーデン。

 今回、訪れたのが9月末ということもあり、暑くもなく、寒くもなく、オープンエアーのサンクンガーデンは気持ちよく、程よく人が集まっていた。東京においてはこの気持ちよさは一年でもかなり短い期間ではあるが、このサンクンガーデンは都市生活を実感できる数少ない空間である。都市生活の心地よさはその選択可能性の広さにあるのだと思う。東京は、きっと世界のどの都市よりも選択肢数は多いだろう。例えば、少し前に話題になった「ミシュラン」の掲載数を見ても、レストランの種類や数の多さは歴然であり、遊ぶ場所もたくさんある。しかし、それらは目新しさを伴う物的な場所の選択肢数であり、人間同士の関係を含んだ空間的なものではない。「ハレ」と「ケ」が紙一重で隣り合ってこそ都市の魅力は最大限に活用される。そういう観点で、実は東京では、「ハレ」と「ケ」にかなりの距離感があって、行動や活動内容の選択可能性はそんなに広くはないように思う。

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サンクンガーデンにはイベントでもあるのかと思ってしまう人の集まり。低層を徹底し、デパートやオフィスに行くのにも一旦地下に降りる。

■都市における「ハレ」と「ケ」
 そういう意味でガーデンプレイス以降の昨今の大規模再開発は、どれを見ても「ハレ」に特化した同じような指向しか見えない。当の恵比寿においてもアトレを含めた恵比寿駅周辺でもまた相変わらずのデパートの屋上興行的な有り合わせの再開発が進行中のようである。これは、「ハレ」の強引な投入である。「ケ」を担う恵比寿のもうひとつの魅力である路地的な影の部分が再開発の光に照らされて消滅するのも時間の問題であり、恵比寿の選択可能性が狭まりつつあることに不安を覚えた。どこに行くかの選択肢そのものは増えているが、そこで何をするのかの選択可能性を広げてくれないと都市は衰退しているのと変わらない。若さだけが取り柄で、より若い者が登場するとそちらに乗り換えるといった具合だ。

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何処にでもあるような客待ちタクシーが占拠した駅前広場

 一方で、都市生活の奥行きはその街がどれだけ歳を重ね方にあると言わんばかりに、どの再開発でも文化の継続がひとつの大きなテーマとなっている。幸い恵比寿はヱビスビールから生まれた街であり、生産の場から消費の場に転換するのにさほどの断絶はなく、何も残っていない江戸時代の遺構を相手にするよりも、ストレスは少なかったのかもしれない。ヨーロッパ調の流行に迎合していると思われがちなところもビール工場の雰囲気を残そうと煉瓦を基調とした外装になっているのだという言い訳もつく。しかもこの外装が功を奏してか、15年前のものとは思えないくらい綺麗に維持されている印象を受けた。
 だから良くも悪くもオープン時点で歴史が停まっているようで、このような歳を取らない街は、それはそれで見慣れることによって周囲となじんで来ている。「ハレ」の場は、人々の気分の高揚のために歳を取らないに限る。「ケ」の空間は、歳を重ねることで深みを増す。「ケ」には「ケ」の代謝のしかたがあるはずなのに、誤って「ハレ」の代謝を行おうものなら街のバランスが崩れてしまうというものである。
 恵比寿は今、「ケ」の必要な「ハレ」を確立しているのに、「ハレ」に向かう「ケ」がじわじわと増えてきている。お互いのコントラストは深まるばかりといった様相が残念である。この小さなディズニーランドを宝の山にするのか、ビールの泡としてしまうのか。ある意味、木と紙の建造物に囲まれてきた日本人に取って過去を未来へとつなぐという観点でヨーロッパの都市は理想的である。しかしながら、ヱビスガーデンプレイスの空間的魅力がそうした幻想 を定着化させるだけに留まるには惜しいポテンシャルであると思う。新しい「ハレ」の構築なんかよりも、「ケ」を再構成する再開発する手法こそ都市を過去から未来へと継承していく為に考えていく必要があると思う。

(川上正倫)

「団地再生」で再生すべきもの

 近年、「団地再生」という言葉をたびたび耳にするようになった。これは、昭和30~40年代に建てられ現在は老朽化してしまっている団地を、建て替え等によって新しく蘇らせようというものである。「日本一の大家さん」といわれるUR都市機構は、自身が管理する賃貸団地77万戸のうち、16万戸あまりをこの「団地再生」するべき対象として位置づけている。
 今回、その対象の1つになっている足立区の花畑団地を見に行った。昭和38年(1963年)から供給された全78棟2725戸の大規模な団地である。現在、ここでは再生計画(建て替え)に向けて9年間新規の入居が停止され、約1000戸が空家の状態となっている。また、居住者の65%が65歳以上で、高齢化も大きな問題となっている。そのため、やはり生活環境としては既に限界に来ているのであろうか、団地内の商業施設は閉鎖され、人気は少なく、巡回のおまわりさんばかりが目立つというかなり寂しい状況であった。再生は急務であると実感した。
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東西800mあまりにわたって伸びる花畑団地
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直線的に整然と並ぶ住棟

■再生の手法 
 方々で言われていることだが、この時代の団地はそのゆとりある配置計画に特徴がある。日照に配慮して隣棟との間隔は非常に広いものとなっている。このゆとり、つまり、余裕ある容積率を活かして、床(階数)を増やすというのが、これまでに見られる一般的な再生(建て替え)手法である。増えた床に新しい入居者を募ることによって、建て替えの事業費用を捻出しようとするもので、団地に限らず、再開発では常識的に使われる手法である。また、土地の一部を民間に切り売りし費用を捻出することもある。この団地の周辺は、民間のマンションも多く建設されており、土地の買い手や新しい住戸の借り手はいくらでも現れそうである。まだ詳細な計画は明らかにはなっていないが、この団地でも同様の手法が採られるものと思われる。
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非常にゆとりのある住棟間のスペース

 しかし、このような手法で「再生」された団地は、良くも悪くもその辺でよく見る「普通のマンション」になってしまっている。高層化することで、5階建ての低層住棟ならではのヒューマンスケール感が失われ、また、車に配慮して駐車場や進入路を整備することで、緑と土のオープンスペースが失われてしまっている。
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高層化によって再生された団地(埼玉県松原団地)

■団地ならではの価値
 私は、団地とは、その時代を超えた「新しい住まいの価値観」を示すものであったと考える。昭和30年代当時の団地は、洋式のダイニングキッチンや水洗トイレなどを取り入れたモダンで革新的な住宅であり、なによりも都市における新しい居住形態を示したものであった。それが50年近い時を経て、いつしか周辺のマンションに先を越されたため、今慌ててそこに追いつこうとしているように見える。しかし、目指すべきは「現在の標準」でいいのだろうか。単に現在に追いついただけでは、またすぐに取り残されてしまうことは目に見えているのではないだろうか。
 そもそも、今から50年後には日本の人口は現在の約6割の7500万人程度になると予測されている。そのような時代を見据えた時に、床を増やすことを前提とした計画自体に危機感を感じてしまう。採るべきは50年先にも「持続可能な」手法であって、現在の建て替え時の資金捻出に汲々とすることではないと思われる。50年先にようやく元が取れるというぐらいな長期的な視点に立って、50年先にもこの団地に住みたいと思わせるための、団地にしかない「新しい住まいの価値観」を作り出して欲しい、というのは、素人の浅はかな考えだろうか?
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窓一面に広がる緑のスペースは50年先も変わらぬ価値を提供し得ないだろうか

(添田昌志)

北千住はどこに向かうのか

■駅前の活気
 先日、久しぶりに北千住を訪れた。駅前は見違えるほど整備され、良く言えば画期的に利便性が向上し、悪く言えば地方の中核都市の「駅前に良くある風景」となっていた。しかし、平日の午前中に訪れたにも関わらず、街には活気があり(この感想自体が現在の「東京」に毒されているようにも思うが)、人々が「住んでいる」実感を受けた。

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 北千住は、江戸時代より日光街道の起点であった千住宿から発展した街である。やっちゃ場と呼ばれた青物市場もあったことで古くから活気にあふれた街だったのだろう。また、松尾芭蕉の「奥の細道」のスタート地点としても知られる。それ故に北関東や東北各県から東京への出入口的要素が強く、北千住駅は、今ではJR常磐線、営団千代田線、営団日比谷線、東武伊勢崎線、TXつくばエキスプレスが入り乱れるターミナルとなっている。かつては、やたらと混雑する駅とのイメージが強かったが、今では乗り換え動線も整理され、多くの乗降客に適応できているように感じられた。

■新旧の混在
 駅ビルを出て、整備されたペデストリアンデッキを降りると、駅前には駅内の行き交う雰囲気を受け入れるような細かい飲食店が並ぶエリアが広がっている。地下鉄駅の入口はまるでテナントのような様相であり、整備前の雰囲気が伝わってくる。このような元々建物が密集しているエリアにこのようなターミナル駅が存在することは予期せぬ面白い関係性を生み出すことがある。新しい街と旧い街のコンフリクトの効果である。

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 さて、駅前を荒川に向かって進むと旧日光街道沿いの宿場町が商店街になっている。駅に近い本陣跡などは名残すら感じられないが、高札場跡を過ぎた頃から旧い町家がぽつぽつ増えてくる。ここでも新旧の取り合いがまだ程よく残っているといえる。おそらく観光客が集まる歴史風情の残る街並みというわけにはいかないが、散策がてらに視覚的楽しみをもたらすものとしては十分であり、住人にとってのある種の誇りや愛着形成には寄与するだけの効果は持ち合わせていると思う。こう書くと語弊があるが、「東京」としての魅力が低かったために開発の対象として放置され、その結果、自然な新陳代謝が行われている街である、との印象を受けた。

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 少し進んで日光街道(国道4号線)沿いまで足を延ばすと、そこはもうマンションが建ち並び、既視感漂う画一的な幹線道路の風景である。下町的雰囲気を客寄せのコピーにして開発される周囲に、下町本体までが飲み込まれてしまっては元も子もない気がする。駅の反対側には東京電機大が神田からの移転を決めたようであり、まだまだ変化する街となりそうである。今の活気が似非とならぬか心配である。今ならまだ間に合う街並なのだから。

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(川上正倫)

都市と花火大会

 今年も早や9月となった。まだまだ残暑が厳しいとは言え、季節は確実に秋へと向かっていっている。ところで、過ぎ去りし夏の日の思い出は?と問われれば、「花火大会」を挙げる人も多いのではないだろうか。今回はこの「花火大会」というものを通して都市の地理や景観について考察してみたい。

■都市のオープンスペース
 下図は、東京都と神奈川県で行われる花火大会の場所を示したものである。当然のことではあるが、花火大会を開催するには、安全の確保と10万人単位の人が観覧するという観点から非常に広い場所が要求される。それと同時に、これらの人々を捌くことのできる交通手段が確保されていなければならない。広い場所は必要だけれども、不便な場所ではダメで、適切な交通アクセスが求められる。その意味で、開催場所の分布はすなわち、「都市」におけるオープンスペースの分布を表しているといえる。この図を見ると、東京都では開催場所が、主に多摩川、荒川、隅田川、江戸川といった川沿いに分布している一方で、神奈川県では多くが海岸沿いに分布しており、それぞれの地理的特徴がよく表れている。東京では河川敷が唯一残されたパブリックオープンスペースとしての役割を担っていることが改めて捉えられるのだが、河川敷や海岸での花火大会は、都会では貴重な広い空を体感する機会を与えてくれるものとなっている。
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東京都の花火大会

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神奈川県の花火大会

■都市景観の非日常性
 一方、河川敷や海岸で催されるものとは一線を画した、都市ならではの情景を味わえる花火大会として「東京湾大華火」と「横浜国際花火大会」を取り上げたい。これらはいずれも、都心部の港湾地区で行われるものであるが、打ち上げられる花火の背景に都市のランドマークが眺められるという点に特色がある。観覧する場所によって見えるものは違えど、東京湾では、レインボーブリッジや東京タワー、汐留のビル群、横浜では、みなとみらい、赤レンガ倉庫、大桟橋といった日本を代表するランドマークを見ることができる。実際に観覧した私の友人は、花火の打ち上げを待っている間に眺める、これらのランドマークが夕暮れに映える姿は、格別にムードを盛り上げてくれるものであり、他では絶対に味わえないものだと言っていた。
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「東京湾大華火」の打ち上げ場所と観覧場所

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「横浜国際花火大会」の打ち上げ場所と観覧場所

 花火大会は今や夏のイベントとして完全に定着した感がある。この時、都市は何十万人という人を収容する一大劇場と化す。あくまでも、花火の背景あるいは前座なのかもしれないが、都市の景観が最も多くの人に注目される瞬間となる。都市景観が人々に非日常性を演出する瞬間である。体験する時間は短いけれど、永く思い出に残る瞬間でもある。この晴れやかな舞台に相応しい景色とはどうあるべきか、という視点で都市景観を考えることもきっと必要なことだ。

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横浜国際花火大会での1コマ

(添田昌志)

赤坂サカスよ、赤坂を咲かせ!

東京の新名所・赤坂サカス
 地下鉄赤坂駅からゆるやかな坂を上ったところに東京の新名所、赤坂サカスがある。ここの建物群は六本木ミッドタウンなどと比べ、いい意味で肩の力が抜けた大衆寄りな作りで心地よい感じを受ける。各建物内もなんだか領域がゆるくて歩きやすい印象である。周辺の街との関係も再開発にありがちな閉じた印象が薄く、料亭街の凋落によって衰退していた周囲の街並に、再開発の新しいエネルギーが素直に行き渡っているように見受けられる。ただ、オープン時の目玉であった100本の桜を擁するさくら坂は、並木の向こうに古びた民家の居間が丸見えという不自然な境界を作り出しており、顔であるに関わらず裏的な雰囲気が漂い、調整不足感が否めない点は少々残念ではある。
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赤坂Bizタワー内部

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Sacas広場につながる仲通り
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さくら坂から見える隣地の民家

放送局の「城下町」
 ところで、最近話題の再開発は、台場-フジ、汐留-日テレ、六本木ヒルズ-テレ朝など、放送局新社屋がセットになっていることが多い。今回歩いた赤坂サカスもそんな例に漏れずTBSとセットになっている。これらの再開発は皆、放送局を極とした各局の「城下町」を形成しているというのは少々穿った見方だろうか。最新情報を常に発信する放送局の役割と新しい街づくりの利害が一致し、各街のイメージ=各局の主義主張となっているようにすら見える。2010年のデジタル放送化で多チャンネル化するとそのような地域性の傾向はなお強まっていくかもしれない。
 それにしても、これらの放送局の足下には必ずといっていいほどイベント広場が設けられている。テレビという仮想空間の中から飛び出して観客と肌が触れ合うことのできるリアルな空間として、番宣も兼ねたメディアとしての効果が期待されているからなのであろうか。それ故サカスの特徴もイベント広場たるsacas広場に集約されているように感じた。
 ただ、リゾートであるお台場ならいざ知らず、放送局の番宣イベントを仕掛けて観光客の動員を狙ったところで、持つのはせいぜい1年ではなかろうか。六本木ヒルズはその建物の複雑さと元からある六本木の街の風潮がマッチし、周辺住民を常連客として定着させつつあるように、サカスはやはり赤坂の風潮にあわせた坂と広場の使い方が利用者の定着を図る勝負点となろう。
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Sacas広場の風景。TV局の番宣イベントが行われていた。

街ぐるみのインタラクティブなイベント
 実はこの広場は、広場空間としては珍しいくらい不利な立地となっている。坂上の行き止まりに設けられているが故に、広場からの見渡しはいいが、広場を見上げる通りからはその雰囲気が分かりにくく、広場に対する求心性は築かれにくい。また、TBS本社ビルのちょっと歪んだ形や赤坂Biz Towerの極めてシンプルなファサードなどに押され、広場自体は強い象徴性や軸性を持たない空間となっている。
 ここではその不利を逆手にとって、周囲のビルからの見下ろしに期待したい。この地の起伏を利用してなんぼである。六本木ヒルズのテレ朝前広場はすり鉢状になっており、イベントが見下ろせるので楽しそうな雰囲気が伝播しやすく、相乗的に人を呼び込む効果があり成功しているように思う。この赤坂も同様に、周囲を拠点とする人にとってなくてはならない栄養剤としてのイベントを行い、そこを見下ろす周りのビルの人々を呼び込むべきである。隣のビルには大手広告代理店だって入っている。彼等がこぞって行きたくなるようなイベントを打ってこそ、エンタメ主体の街に文化や特殊性が培われ、場所性を帯びた新しい価値が生まれるだろう。
 イベントだからといって、ステージとそれを眺める観客という固定的な形に束縛される必要性は全くない。道路境界や建物の内外、また再開発地区の内外に捕らわれることなく、360度の空間・都市的な関係にまで入り込めば、イベントは街ぐるみのインタラクティブな関係性を築くこともできよう。そして、その街ならではの価値を楽しむ人々(街のプレイヤー)を作り出すことで、さらには彼等を見たい人、彼等と共に参加したい人が街に賑わいをもたらすことになる。聞く所によると周辺の寿司屋を巻き込んだ食べ歩きイベントのようなものも開催されているらしく、その蕾みは開きかかっているようである。
 サカスとは赤坂に多い坂の複数形「坂s」と花を「咲かす」をかけたネーミングだそうだ。赤坂サカスとは自分が咲くのではなく、赤坂の街全体を咲かす!という宣言なのだとすると少々応援したくなってくる。
(川上正倫)

人が集まる場としての駅空間  副都心線渋谷駅から考える

副都心線・渋谷駅
 この6月に開業した副都心線渋谷駅を見に行く。この駅には、建築家安藤忠雄氏が設計した吹き抜け空間がある。地下鉄駅に吹き抜け空間を設けるといった大胆な発想はこれまでなかった、と諸メディアでも報じられ話題となっているものである。氏曰く、この吹き抜け空間は「そこを行き交う電車や人々が眺められ、都市のダイナミズムを体感する場所」であり、そして「子供達がこんな場所があるなんてすごいなあ」と感動し、夢を馳せる場所であるとのことである。
 私はかなりの期待を抱いてその場を訪れたのだが、率直な感想を言えば、氏の思いは殆ど実現されていなかった。その原因は、この吹き抜けがホームの端のごく一部に設けられたものであり、そのスケールがあまりにも小さいことや、人々の主動線から外れていることなどが挙げられるだろう。地下鉄駅の吹き抜け空間としては、横浜のみなとみらい駅の方が、はるかに「感動的」である。しかし、ここではこの空間の欠点を挙げ連ねることは主旨ではない。きっと、様々な空間的制約、法的制約を乗り越えた精一杯の実現範囲がこれであったと前向きに捉えたい。
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副都心線渋谷駅の吹き抜け空間
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みなとみらい駅の吹き抜け空間
上階のショッピングモールからホームに入ってくる電車が眺められるスケールの大きな空間。


魅力的な駅空間とは
 そもそも駅とは、人々が集まり、行き交う、都市ならではの場所である。氏が言うように「都市のダイナミズムを体感できる場所」なのである。そして、そこには、出会いや感動、発見があり、空間もそれを演出するものであるべきだ。例えば、ニューヨークのグランドセントラル駅のように。
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グランドセントラル駅

 もちろん、グランドセントラルのような長距離旅客用の駅と圧倒的に乗降客数の多い日本の通勤駅とを比較してもらっては困るという指摘もあろう。しかし、通勤駅だからと言って、単純に多くの人を捌くという発想しか持たないのであれば、東京の全ての駅はただの通路になってしまうだろう。
 一方で、今、この日本ならではの通勤駅にエキナカ商業を展開するということがもてはやされている。商業が駅空間を単なる通過場所から魅力的な楽しい場所に変えるというのである。確かにそれも一理あろう。しかし、その実は、人通りが多いところに店を出せば必ず儲かるという安易な発想だったりしないだろうか?それ故、本来人を捌くべき通路に人を滞留させる店舗を配置するといった理に反した空間作りになっていたりはしないだろうか?
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多くの乗降客で混雑する通路に設けられたエキナカ商業施設

 私は、目先の商業主義を乗り越えて、駅ならではの人が集まる空間を創造して欲しいと思う。そろそろ、人をモノで集めるという発想から、場所の魅力で集めるという発想に切り替える時だと思うのである。駅とは、自ずと人が集まり行き交う場所である。安藤氏が言うような、そこにしかない空間を創ることのできるポテンシャルを持った場所なのである。そして、他にはない魅力的な駅空間の存在が、その街のアイデンティティを高め、ひいてはその都市の価値を高めることに繋がると信じている。
 そう思うと、この渋谷駅の吹き抜けの周りにカフェを設けてみたら、そして、そこから電車とともに外の空が眺められたらどんなに魅力的だっただろう、との妄想を禁じえないのである。
(添田昌志)

楳図邸騒動から景観を考える(3)

 吉祥寺の閑静な住宅街に赤白縞の住宅建設がちょっとした問題を引き起こしている。報道を見る限りでは、施主側も建設反対住民側も双方ともに利己的な主張をしているにすぎない。法で規制されるとそれを守る事でその範囲での自由が保証される。しかし、逆に規制がない場合には、何をしてもよいのだという根拠にはしづらく、保証してくれる大義が得にくい。街並を形成する建物の美的な質については特にそうである。今回のケースで持ち上がっている赤白縞は、そのような「保証」からはずれてしまった事例とも言えよう。この保証外の質を問題としはじめた背景には、「景観法」などにより景観の価値が少なからず認められようとしていることがあるのかもしれない。ただ、現実に景観が問題となるのは、ほぼ既存景観の保護に偏っているのではなかろうか。景観を守る対象としか見ていないのは、大きな勘違いを孕んでいる。本来、景観は作っていくものであり、既得権益を主張するための対象とはすべきではない。

■将来像に対するコンセンサス

 今回の一件は、報道されている内容から判断する限りは、赤白縞が好きでたまらない人と許容できない人との口喧嘩にしか見えない。議論が口喧嘩レベルに急落してしまうひとつの原因に、街並の将来像に対して、あらかじめ何のコンセンサスも得られていない点が挙げられよう。自分が大切にしているものが何か、失ってはじめて気づくということもある。しかし、失われそうになってから、赤白縞をつるし上げても何の解決にも進歩にもつながらない。反対する上では少なくとも「赤白縞が街の未来像と方向を異にするものだ」というコンセンサスを形成していない限り、利己的なわがままとしか捉えようがない。(そのようなコンセンサスを得るのは、周囲の住宅を見る限りそれは困難としか思えないが)
 建築技術向上に伴い、建築はより今まで以上に長い寿命が想定されてきている。姉歯事件以降、それを支える専門家に対する技術的責任の意識が社会的に大きくなっていると言える。寿命が延びた建築は、街並や景観に関して長期にわたる責任を負うことになってきているとの意識も同時に高める必要が出てきている。何よりも大切なのは、我々建築設計に携わる専門家こそ、吉祥寺で展開されているような口喧嘩の元凶なのだということを改めて認識すべきことにある。専門家は裏でこそこそと問題を起こさぬよう隠蔽に奔走するのではなく、街並の未来像を積極的に検討・議論し、周囲のコンセンサスを得られるよう、そして新しい価値を作り出すよう先導していかねばならない。
(川上正倫)

楳図邸騒動から景観を考える(2)

 前回、マスコミ諸氏は周辺の景観と合わないと言いながら、「周辺の景観」については誰も論じていない、とここに書いた。それを知ってか知らずか(もちろん知らないと思うけれど)、9月1日付の朝日新聞がこの件に関して興味深い特集記事を書いていた。「もっと知りたい 楳図かずお氏新居巡り騒動」と題されたその記事では、記者が周辺を歩いて家並みの壁の色を調べた図が掲載されている。写真を使わないのは、やはりプライバシーに対する配慮なのだろうだが、周辺の住宅がどのような色をしているのか言葉で表現することを試みている。言葉では実際の様子がなかなか伝わりにくい面ももちろんあるが、このような周辺へのまなざしは評価したい。

■表現の自由VS公序良俗
 この件は、先日、楳図氏が地裁からの和解提案を「自己表現のひとつ。変えることはできない」と拒否し、さらに混迷の一途をたどるようである。氏は赤白縞について、「生命感が感じられ、すごく好き。ハッピーな色」とかなりの思い入れがあるようだ。表現の自由VS公序良俗という構図がここに見られる。ところで、表現の自由といった場合、今回、気になるのは、表現そのもの(つまりここでは赤白縞の家)の妥当性が批評されているのではなく、表現者個人のイメージが槍玉にあげられている感じがする点である。「気持ち悪い漫画を書く人が建てる家だから気持ち悪いに違いない」という短絡的な決め付けが少なからず見受けられる。万が一、これが著名建築家が設計したものであれば、どのような判断になるのだろうか?やはり赤白縞はおかしいと真っ向から訴え、マスコミもきちんと対処したのであろうか・・・?それとも著名建築家なんだから、これは素晴らしい作品なのだと通ってしまわないだろうか?何が本質的問題で、議論すべきは何かということを、しっかりと見据え、伝えることが少なくとも私たち専門家には求められている。
(添田昌志)

楳図邸騒動から景観を考える(1)

 今、ワイドショーやニュースで話題になっている、楳図かずお氏の自邸の建設現場を見に行く。紅白のストライプの外観と「まことちゃん」を模した塔が周辺の景観を破壊するとして、周辺住民2名が工事差し止めの仮処分申請を申し立てたというものである。
 現場を見ると、その外観はまだ完成していない。訴えた住民はどうやら工事関係者から聞いた情報を基に、完成予想スケッチを自ら作成したようである。実際にどのような外観になるのか、今はまだ分からないというのが本当のところのようだ。
 マスコミは楳図氏の独特のファッションや創作物に絡めて、この一件を面白おかしく取り上げているように見える。報道を見ていて、奇妙に思ったのは、周辺の景観と合わないと言いながら、映像や写真では楳図邸だけ切り取って写したり、周辺の建物にはモザイクをかけていたりするということである。もちろん、周辺住民のプライバシーに配慮してという意図なのだろうが、これでは、その建物が周辺景観に対して本当にどうなのかという議論はできないだろう。つまり、単独の建物が一方的に攻撃されるのみで、「周辺の景観」については誰も論じていないのである。実際現地に行ってみると、問題の建物の数件先には真っ青な住宅が忽然と現われたりするのだが、こちらは問題になっていないようだ。そこに、この手の景観紛争の難しさを見る思いがする。
(添田昌志)