世界から見た東京

都市公園の量と質

■都市公園の整備水準
 東京都23区の1人あたり公園面積はわずか3.0㎡であり、ニューヨークの29.3㎡の約十分の一、ウィーンの57.9㎡の約二十分の一、と先進各国と比較すると非常に少ない(平成19年度末の国土交通省調査)。しかし、われわれの研究グループで東京都の住民に「自分のまちのどんな場所が好きか」を問うネットアンケート調査に対して、「公園」をあげる人が他を引き離して圧倒的に多かった。公園面積といった量的な指標では比較できない、文化によって異なる都市公園の価値があるのだろうか。都市公園に対する市民の関わり方を考えるために海外の例を見てみよう。

■ヨーロッパの都市公園
 東京ジャーナル2008年8月号と9月号では都市の広場を考えた。そこでは南欧やその影響の強いラテンアメリカの例を示したが、それらの国では都市の公共空間として広場が重視されている。それに対して公園を重視するのは欧州でも夏が短い緯度の高い国であるように思われる。
 「公園(Public park)」はもともと王の狩猟園地がイギリス市民社会の成立にともなって公衆の利用に開放されたもので、その典型がロンドンの都心部にあるハイド・パークである。東京の日比谷公園の約9倍の広い公園には乗馬用の道が巡っていたり、市民の自由な討論が行われる場所として有名なスピーカーズ・コーナーがあったりするが、全体としては多くの活動が見られるというよりは、都心にありながら静かな緑の保留地となっている。

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(写真左)イギリスの緑深いハイド・パークの落ち着いたたたずまい
(写真右)スピーカーズ・コーナー(1974年撮影:現在もこんなに活気があるかは不明)

 前述の1人あたり公園面積が東京の20倍もあるウィーンを歩くと確かに緑の多さが実感できる。旧市街を取り囲むように周回するリング通り〈環状通り〉は、歩道、車道、自転車道、市電と異なるモードの交通路が並行して走る。その通りに沿って点在する歴史的な建築を楽しむことができるが、それをつなぐように公園の緑が連なっているのである。またヘルシンキには港に面したマーケット広場から街の中心へ向かう2本の大通りに挟まれてエスプラナーディ公園があり、夏の昼休みには多くの市民が芝生で陽光を楽しんでいる。こういった都市を移動する人々の動線に沿って作られた都市公園は、奥の深い大公園と違って市民の日常的な利用を可能としている。

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(写真左)ウィーンのリング通り沿の緑と建築
(写真右)ヘルシンキのエスプラナーディ公園

■新世界の都市公園
 ニューヨーク市マンハッタン島の中央に南北4km、東西800mのセントラル・パークが計画され作られたのはおよそ150年前である。緩い起伏を作りいくつかの池を配して人工的に作られた公園は、今ではすぐ外に広がる高層ビル群と好対照をなす自然豊かなオアシスとなっている。園内には美術館、動物園、運動場、スケートリンク、野外劇場など市民を呼び込むレクリエーション施設が各種完備されているのはアメリカ的と言えるかも知れない。
 一方、カナダのバンクーバーの都心部には大きな公園はないが、周辺のいくつかの公園が自転車ルートによって結びつけられている。面白いのは、その自転車ルートの一部が小さなシーバスで入江を越えてつながっているところである。このネットワークは、「健康な生活を支える都市」としてのイメージを感じさせてくれる。

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(写真左)ニューヨークのセントラル・パーク
(写真中)バンクーバーの臨海公園
(写真右)バンクーバーの自転車ルートをつなぐシーバス

■東京の都市公園
 冒頭で述べたアンケート調査で、好きな場所として公園があげられていることから、現状に満足していると解釈することはできない。むしろ公園のさらなる整備の期待をくみ取ることが必要である。しかし海外の大公園を目標にして東京が規模においてそのレベルに追いつくことは不可能であろう。そこで発想を転換してはどうだろう。日本には、雰囲気の異なるコンパクトな空間を巧妙に配することによって、様々な体験を可能にする回遊式庭園の伝統がある。このような公園を作れば、面積がたとえ海外の大公園の十分の一であっても、それと同等の、またはそれを上回る効果をもたらすことができるかも知れない。さらに、公園を新たに作るより、もっと手っ取り早く、都が所有する「庭園」を公園として開放すれば済むのではないかとも思う。海外から訪れる友人を公開されている都内の日本庭園に案内すると、とても評判が良いのである。日本庭園のメンテナンスには費用がかさむが、新しく公園を作って一人当たりの面積をコンマ数%上げるより安上がりである。ぜひ東京都立の庭園を無料にして頂きたいと思う。

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東京都立庭園「六義園」とそこに案内したドイツからの友人

(大野隆造)

都市の音風景

■喧騒のメガシティ
 前号では図像で表された都市の表象を扱ったが、今回は聴覚による都市の印象についてである。2000年の春に訪れたバングラデシュのダッカの喧騒は今も耳に残っている。この混雑した街を移動するのには、小回りの利く「リキシャ(Rickshaw)」を使うのが便利である。その語源は「人力車」だが、車夫は自転車で引っ張る。少し遠くまで行くには、人力を小さなエンジンに置き換えた三輪のベビータクシーを使う。空港に出迎えてくれた現地の学生とホテルまでこのベビータクシーに乗ったが、小一時間後にホテルに着いた時には喉がヒリヒリであった。小さなエンジンがあえぎながら走る時に吐き出す煙と凄まじい騒音の中での会話(叫び合い)のためである。ダッカ滞在中は、どこに行っても騒音の圧力に圧倒されていた。大小さまざまな車の調整不良エンジンが出す音に加えて、いろいろな音色のクラクション。こんなに頻繁に誰もが鳴らしてあちこちから聞こえたのでは警笛にならないのではと思う。実際に、街を行く人はほとんど無反応である。このクラクション騒音は発展途上国の大都市ならどこでも見られる一般的現象である。そういった国から日本に来た留学生が、多数の車が走る日本の都市の静かさに驚く理由がよくわかる。

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あらゆるタイプの騒音源が街を走るバングラデシュの首都ダッカの中心街

■聴覚的ランドマーク
 昨年のローマではまったく違った街の音を体験した。それは人とトレビの泉で待ち合わせをした時のことである。近くまで来て見通しがきかない曲りくねった道に迷っていたところ、噴水の音が聞こえ、それに導かれてたどり着くことができたのである。このあたりは細い道の両側に石造の建物が並んでいるので、その壁に音が反射してきたのだろうか。それをたどって行くと徐々に音が大きくなり目的地に接近しているのが実感できた。トレビの泉は遠くから見ることができないが、噴水の音が聴覚的なランドマークとしてその場所を特定するのを助けている。こういった聴覚的なメリハリのある音風景が都市の体験を豊かにしてくれるのだろう。

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(写真左)細く見通しのきかない古いローマの街路 
(写真中・右)トレビの泉

■東京の音風景
 東京はクラクションの騒音は最小限だが、聴覚的なランドマークも思い当たらない。環境庁(現・環境省)が1996年に選定した「日本の音風景100選」には、東京都23区から、「柴又帝釈天界隈と矢切の渡し」が下町ならではの雑踏と江戸川の野鳥の声、朝昼晩の時を告げている上野のお山(寛永寺)の「時の鐘」、石神井公園に近い「三宝寺池の鳥と水と樹々の音」が入っている。しかしこれを日常の中で意識した人はそれほど多くはないだろう。聴覚による情報は、「耳を澄まして」注意を向けて聞こうとしない限り意識に残らない。だから、街の音が場所と結びついて感じられ記憶されるのは、特定のイベントに関連付けられている場合が多い。三社祭りの頃には神輿を担ぐ掛け声や囃子が浅草界隈の街の音になり、また大晦日に近くなると上野のアメ横には売り手の掛け声が連想される。
 こういった伝統的な街の音ではなく、人工的に音風景(サウンドスケープ)をデザインしようとする動きがある。蒲田駅の「蒲田行進曲」などの駅メロ、発メロや、ディズニーランドのアプローチでの音楽など、その場所を印象付けたり、高揚感を演出したりするのはいいとしても、公衆トイレなどでBGS(Back Ground Sound)として鳥のさえずりなどをスピーカーで流しているのはいただけない。「鳥のさえずりが聞こえるほど自然が豊かだ」というように、音風景がそこの環境の質(アメニティ)を捉える一つの大切な指標であるのに、それが狂わされて違和感を覚えるからだろう。アメニティの意味は “the right thing in the right place”つまり「しかるべきものがしかるべき場所にあること」と言われるが、都市の音風景についても、正にそう言えるように思う。

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(写真左)三社祭りの神輿 
(写真中)大晦日のアメ横 
(写真右)ディズニーランドのアプローチ

(大野隆造)

都市の表象を作る

■北京の新名所
 昨年の10月、北京であった学会の合間にオリンピック公園に足を運んだ。建築的に興味深いオリンピック施設をゆっくり見学しようと思ったのである。しかし閉幕から2カ月も経っているというのに、そこで見たのはまだ開催中かと思うほどの熱気と混雑であった。お揃いの帽子をかぶった団体旅行客が長蛇の列をなして施設を取り巻き、とても接近できない。これはダメだとあきらめて、天安門広場の人民大会堂裏にできた国家大劇場を見に行ったが、そこでもやはり団体旅行客の波に圧倒された。どうやら、オリンピック前に建てられた建築物は北京の新名所として大いに人々を引き付け、観光資源として定着しつつあるようである。
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(左)北京国家体育場(通称「鳥の巣」)
(中・右)国家大劇場の外観と内部の入口

■都市の新たな表象
 旅行社に置いてある海外旅行用の観光パンフレットを見ると、どこの都市を表しているか一目でわかる挿絵がある。それは多くの人によって共有されている都市の表象(イメージ)が図像として描かれているのである。歴史的な建造物がほとんどであるが、シドニーの表象として描かれるオペラハウスは例外的に近代の建築である。このオペラハウスはコンペで選ばれた建築家ヨーン・ウッツォンの設計だが、帆船の帆を連想させる独創的な形状とコンクリートシェル構造の難しさなどにより工期が10年も延び、総工費は当初予定の実に14倍以上にもなるなど多くの困難を乗り越えて完成したものである。しかし完成後は世界的に良く知られるようになり、2007年には世界遺産として登録され、年代的に最も新しい登録建築物となった。紆余曲折を経て建てられたこのオペラハウスは、シドニーにとどまらずオーストラリアの表象として定着したのだから、結果的には決して高い買い物ではなかったのである。

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(左)海外旅行用の観光パンフレットの挿絵
(右)シドニー・オペラハウス

■東京の表象
 では、東京を表象するものは何であろうか。残念ながらこれと思い当たるものがすぐに浮かばない。試みに、はとバスで売れ筋の観光コースとして紹介されているものを見ると、皇居、靖国神社、浅草仲見世、お台場、六本木ヒルズ(シティービュー)が挙げられている。これらを図像として表したとしても、誰もがすぐそれとわかるとは思われない。また、外国人観光客向けのガイドブックを見ると、人気スポットとして秋葉原と築地が挙げられている。これに至っては、図として表すのは不可能である。だからといって東京に魅力がないというわけではない。海外の都市が図として表しやすい建造物を中心に置いた空間で表象されているのに対して、東京では動きまわる中で体験される広がりのあるエリアに特徴が見いだされる。これはちょうど西欧の幾何学的な構成の庭園と日本の回遊式庭園の違いである。とは了解しても、北京で新しく奇抜な建築が多くの人々を引き付け、そのうちに世界の人々の意識に北京の表象として定着するかもしれないと思うと、やはり東京に無くて良いのか・・・・と思えてくる。
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(左)浅草の仲見世
(中)秋葉原
(右)築地市場

(大野隆造)

輝く都市

■ライトアップの温熱効果
 12月になると、夜の街がにぎやかになる。耳に響くクリスマスソングだけでなく、視覚的にもライトアップがやたら目に付く。明るく照らされた通りは、長く重苦しい夜の闇から心を解き放してくれるが、また寒い冬の街を暖かく感じさせてくれる効果もありそうである。そう思ったのは、数年前に中国東北地方(旧満州)のハルピンを訪れたときである。まだ10月だったが、夜の冷気は氷点下である。気温としては日中の方が高いに違いないが、視覚を含めた体感温度は夜の方が暖かいかもしれない。最初に見たときは、その大胆な配色に品の無さを感じたが、しばらくすると違和感が無くなり、前述の効果もあって、むしろ好ましく思えてくるから不思議である。

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(写真左)ハルピン中心街の歴史的町並み、中央大街 
(写真右)新華書店角の昼景と夜景


■現実のものとなった映画で見た近未来都市

 前々号で紹介した階段と坂の街、重慶を嘉陵(ジャーリン)江の船上から見た臨江門付近の夜景は、西洋と東洋がミックスした怪しげな情景である。それはSF映画「ブレードランナー」の冒頭のシーンを思い起こさせる。もう四半世紀も前の映画ということになるが、そこで描かれていたのは環境が悪化した地球の近未来都市である。そんな悪夢を連想させる情景が、船上の私たちの眼前に展開したのである。一般に、ライトアップされた光景は細部が打ち消されて現実感が薄れ、ヴァーチャルな、幻想的な体験をもたらしてくれる。重慶で見た洋の東西の渾然としたこの光景はとても異様で、それが今日のちぐはぐな中国の現実を映し出しているようでもあった。

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嘉陵(ジャーリン)江の船上から見た重慶・臨江門付近の夜景

■遊園地化する都市
 エネルギー問題をはずして考えると、最初に述べた心理効果や防犯という面から、街は明るいに越したことはない。郊外にある最寄り駅から自宅まで、暗い道をたどるより、明るい空間の広がりを感じながら行く方が足取りも軽くなる。しかし、最近見かける光の演出には、にわか作りの遊園地のような子供っぽさが感じられる。ディズニーランドのライトアップの方がまだ増しである。街が楽しくなれば良いではないか、と言われればそれまでだが、日本の都市の夜景に、もう少し大人らしい品格が求められないだろうか。
今回のタイトルの「輝く都市」は、建築家、ル・コルビュジエが1930年代に提唱した理想都市を表す言葉でもある。高層ビルとオープンスペース、完備された道路網といった考え方は、20世紀後半の都市で実現されている。しかし今日では、その見かけの輝きに隠された、モダニズムの非人間的な面が批判されている。それと同じように、ライトアップの効果に隠されがちな輝く都市の本当の姿を見失わないようにしたいものである。

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東京近郊の駅周辺で見られるライトアップとディズニーランドのライトアップ

(大野隆造)

都市の時間割(タイム・バジェット)

 この10月、中国・承徳を訪れる。北京から北へ250kmに位置し、清の皇帝の離宮(避暑山荘)や外八廟と呼ばれる寺院がそれを囲むように点在する。現在は一般に公開され、ユネスコの世界遺産に登録されて多くの観光客を集めているが、今回の話題はこの観光スポットではない(とは言え、写真は紹介しておこう)。

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(写真左)避暑山荘 
(写真右)外八廟の一つ普楽寺

■中国の市場
 今回の話題は、市の中心で毎朝開かれる青空市場についてである。これは日本の観光地などで見られる朝市とは、その規模においてまるで違うし、また観光客相手ではなく一般市民の日常生活を支える大切な役割を果たしている点でも異なる。毎朝、近郊の農家から正に産地直送の作物が大量に運び込まれる。通りには、野菜だけでなく魚や酒、香辛料、煙草から衣類まで種々雑多な商品であふれ、ごった返す客と売り手の叫び声で満たされた巨大な露天のショッピングモールと化す。屋台の簡易食堂やら路上の床屋、自転車の修理屋まで店を広げる。それも9時を境に一変する。終了時間を大声で告げる警察の後ろに清掃員が待ち構えていて、本来の交通インフラの役目に戻す作業が手際よく行われる。

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(写真左)承徳市中心街の青空市場
(写真中)待機する清掃員
(写真右)市場終了後の様子

 こういった朝の光景は、ここ承徳に限らず、中国の多くの都市で見られる。かつて一月ほど滞在した瀋陽では、朝だけでなく晩にも、ナイトマーケットが出現し、広場が臨時の屋外ダンス場や小さなアミューズメント・パークになったりする。街路や広場など都市の公共空間は時間帯によってその使われ方がダイナミックに変化するのである。

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瀋陽市滑翔広場で日没後に見られるダンスと露天食堂

■時間による使われ方の変化
 こういった時間による空間利用の変わりぶりには驚かされるが、市民にとってはルールに従った空間の有効利用(タイム・バジェット)である。ひと昔前の日本住宅の部屋が時間によって、茶の間になったり寝室になったりしたのと同じように、都市の同じ場所で時間によって異なる活動が行われる仕組みである。西欧の「先進的な」都市では活動が行われる場所がそれぞれ用意されているのに対して、都市施設が未分化の状態と見ることもできる。しかし、そこで展開されるエネルギッシュな活動とそれがもたらす高揚感は、アジア的な都市の風景として重要な価値を有しているように思う。
 
 東京にもわずかであるがタイム・バジェットが見られる。銀座通りは土日の12時から「歩行者天国」になる。しかし、とても中国で体験したような高揚感が得られる活気がない。かつては、「たけのこ族」などのストリート・パフォーマーで活況を呈した原宿の歩行者天国も、その過激な活動が取締りの対象となり、姿を消してしまった。最近では、地域の祭でさえ若者の逸脱行為に手を焼く場面が見られる。暗黙のルールにのっとった活気のあるストリート・ライフは日本では体験できないのだろうか。

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銀座通りの歩行者天国(before and after)

(大野隆造)

都市の階段:記憶の拠り所として

■重慶の階段
 先月、中国・重慶を訪れる。重慶は北京、上海、天津についで4番目の特別市で、揚子(ヤンツー)江と嘉陵(ジャーリン)江に挟まれた半島状の丘陵都市である。かつての重慶の様子を伝える墨絵には、急な斜面に張り付いた家屋とその間をつなぐ階段が描かれている。この絵は決して誇張ではない。というのも、この街の階段とそれを包む霧のイメージは、26年前にも訪れたことがある私のイメージと重なるからである。

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嘉陵江に面する臨江門付近を描いた墨絵と1983年に筆者が撮影した写真

 ところが、今回の重慶はその様子が一変していた。交通の障害となる階段は姿を消して、どこにでもある高層ビルと高速道路が作る現代都市の景観を呈していた。河岸側の道路面から建物に入り、エレベータで11階まで昇って外の出ると、崖上の道路面に出る。これはバリアフリーの面からは確かに大きな改善である。また車で行き来できない階段は都市の交通ネットワークを断ち切ってしまう厄介ものには違いない。しかし、一方で重慶の持っていた特異な景観的アイデンティティを喪失したことも事実である。

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今日の臨江門付近の模型写真と屹立する高層ビル群の河岸通りからの見上げ

■階段における行為
 都市の階段は、人のスムーズな移動を妨げるが、そうであるが故に通常の街路とは違う「場所」として、意識される。またそこでは、段差を利用して腰かけて留まることが出来たり、遠くの眺望が得られたりすることもある。そういった行為が、自分ひとりで、または誰かと共に行われることによって、その場所が特別な場所として記憶され、そこに愛着を込めて名前が付けられたりする。その代表例が、ローマのスペイン階段である。言わずと知れた映画「ローマの休日」で一躍世界的な観光スポットとなった所である。しかしそれほど有名ではなくとも、イタリアには数知れない魅力的な階段が街にある。山が海に迫る港湾都市ジェノバは、宮崎駿が「魔女の宅急便」で描いた街のモデルとも言われているが、そこで見つけた階段はその一例にすぎない。

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(写真左・中央)ローマのスペイン階段とその日陰で休む人々
(写真右)ジェノバの階段

 では、東京はどうであろうか?実は、東京にも多くの階段がある。「~坂」と呼ばれる中にはスロープだけでなく階段も含まれる。麻布台の雁木坂や湯島の実盛坂などがその例である。武蔵野台地の東端が東京低地と接する都心あたりでは15~25mの高低差を生み、台地は小さな谷に刻まれて様々な方向に下る坂、階段が作られた。湯島あたりでは東に下るが、「夕やけだんだん」という魅力的な名前を持つ谷中銀座に至る階段は西向きで、その名の通り夕焼けが眺められる。松本泰生氏は著書「東京の階段」(日本文芸社、2007)で126もの階段を紹介し、その楽しみ方を語っている。

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谷中銀座側から見た「夕やけだんだん」とその名前を記した碑

■外部記憶装置としての階段
 人間の記憶は、脳の中にすべて蓄えられているのではなく、生活する環境の中に部分的に埋め込まれている。一度訪れた場所への行き方をあらかじめ思い出せなくても、その途中まで行くとまわりの様子から、どちらに進めば良いかわかることがある。つまり、環境は私たちの記憶を引き出すことを助ける外部記憶装置のようなものである。都市の発展に伴って、建築が建て替えられて様子が変わっても、その地形的な特徴はあまり変わらないため、それによる記憶は保持される。しかし、重慶においては、地形的特徴までも変化し、身体的に体験される階段が姿を消すことによって、記憶を支える基盤が失われていた。イタリアの例で見たように、階段は都市の中で様々な行為と結びついて、記憶の拠り所となる可能性をもっている。東京の階段の現状は、とてもイタリアとは比べられないが、その価値を見直して少し手を加えれば、様々な行為を誘発し、記憶の拠り所となる魅力的な場所にすることができると思う。
(大野隆造)

広場を形作るファサード

■イタリアの広場
 建物の正面のことをフランス語でファサードと言う。最近は英語でも日本語でも使われるようになったが、元をたどれば、ラテン語の「顔」を意味するfacies、つまりフェイスに通じる。ヨーロッパの美しい街路景観を生み出しているのは、一つ一つの建物の表向きの顔であるファサードである。街路に比べて多くの人が滞在する広場に面する建物となると、そのファサードの重要性は格段に高くなる。
 この夏、東京芸大教授の野口昌夫氏の著書「イタリア都市の諸相」(刀水書房)を携えてイタリアを歩いた。イタリアは4回目だが、いつも気になるのが広場に面する教会のファサードである。それは建物本体の形とは違った形の壁が張り付けられている。悪く言えば、舞台の書き割りや、建物内部とは無関係の擬洋風ファサードをもつ「看板建築」を連想させる。フィレンツェを代表するサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂ですらなぜこうなのか?

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(写真左)看板建築
(写真右)サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂

■表層の自立

 この疑問に野口氏は「表層の自立」と題して丁寧に答えている。イタリアの建物の構造について、外観の表層と整合させる必要のない組積造で作られていることを述べた上で、聖堂のファサードは「広場に所属する」とする。つまり、広場を囲む建物の外壁は、建物の一部には違いないが、むしろ広場の空間を形作る方に主眼があるというのである。それを明快に示す例として挙げられていた、ミラノ近郊の小都市ヴィジェヴァーノのドゥカーレ広場を訪れた。ドゥカーレ広場とそれに面する聖堂の平面図を見ると、それぞれの中心軸が約15度ずれていることがわかる。広場から聖堂のファサードを見た時にこの傾きを解消して完結した広場の形状を作り出すために、湾曲したファサードが作られ、そして左側廊入口にあたる部分には建物はないが壁だけが付け加えられているのである。イタリア人にとって広場がいかに大切な場所であるのか、またその場所の空間を整えるためなら、ここまでするのかと恐れ入った次第である。

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ドゥカーレ広場と聖堂の平面図(野口昌夫著「イタリア都市の諸相」より)  

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(写真左)湾曲したファサード
(写真右)15度振れた聖堂の入口
 

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(写真左)左側廊入口と見える先はローマ通り
(写真右)湾曲ファサードで整形されたドゥカーレ広場

 翻って、わが東京ではどうだろうか。一つ一つの建物のファサードについて、それが作り出す外部空間にどれほど貢献しようと考えられているだろうか。「医者は土で、建築家は緑で失敗を覆い隠す」と言われるが、われわれの都市空間も街路樹によって適当にごまかして作られていないだろうか。ほとんど街路樹のない、それだけに建築のファサードが厳しく問われるイタリアの都市を歩いて、あらためて考えさせられた。

(大野隆造)

都市広場の使い方

メキシコの広場
 メキシコの東海岸にあるベラクルスは観光地としてはあまり知られていないが、スペインによる最初の植民都市で、それ以降貿易港として栄え今日に至っている。旧市街地に見る建物や都市の作りは、いわゆるコロニアル(植民地)様式で、さまざまなスケールの広場が点在している。そして、その広場が今日でも実にうまく使われている。市の中心部にあるアルマス広場は大聖堂や市役所などの歴史的建造物に囲まれ、またその一辺はバーやカフェが軒を連ねて、大変活気のある市民の憩いの場所となっている。特に夜になるとステージが設けられ、踊りを楽しむ市民でいっぱいになる。
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アルマス広場

 このアルマス広場から、数分歩くと、今度は規模の小さな町内の広場がある。ここは毎晩ではないが、決められた日にはバンドが入り、やはり屋外のダンス場と化す。広場に面する小さなカフェから出されたテーブルで飲みながら、近所から集まってきた老若男女のダンスと音楽が楽しめる。ここは市の中央広場のミニチュア版である。
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メキシコの都市構成と広場の役割
 ここで、メキシコの都市の作られ方について書かれた論文を思い出した。デニス・ウッドは1971年の論文で、都市の構造が小さな住宅のスケールから、近隣のスケール、そして都市全体のスケールまで同形のパターンの一貫した繰り返しであるとした。彼の調査した都市は、サン・クリストバルでベラクルスではないが、かなり共通している。
 メキシコの住宅は、パティオと呼ばれる中庭が中心にありそれを部屋が囲むコートハウスである。また近隣の単位であるバリオ(Barrio)には中央に小広場がある。さらに、都市の中心には中心に市民広場(ゾカロ)がある。同じような形状の繰り返しの(自己相似的な)空間構成となっている。
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 さらに、興味深いのは、それらの使われ方である。それを論文から引用すると以下のようになる。
「住宅のパティオは子供の主な遊び場であり、町内のバリオ広場は青少年の、街の広場ゾカロは年長の青年や大人のレクレーションの場となっている。政治や宗教、お祭りも同様に、最も下のレベルで学んだことが上位の場所での活動にスムーズに移されてゆく。」
 日本の都市にも「広場」と呼ばれる空間が作られることがある。しかし、そこが上手に使われているという話を聞いたことがない。子供のころから段階を追って公的な空間を他者とどう共有し上手く使うのかを学んだ人たちとの決定的な違いである。メキシコや南欧には伝統的に広場を使う習慣がある、と言ってしまえばそれまでだが、実は子供たちに文化を継承させる、つまり文化化(enculturation)するための空間が段階的に用意されているのである。日本の公共空間をどう作り、どう使うのか、一つのヒントとなりそうである。
(大野隆造)

都市の耐色力

東京の色
 景観法の施行以来、地方自治体が「色彩調査会社」に依頼して、自分たちの街の色分布を測り、基調色を求めようとする動きがあると聞く。かなり以前だが、名古屋が「白い街」と言われ、歌謡曲にもなった。では、東京の色は何であろう。数年前、東京上空をヘリで飛んだことがあるが、その時はグレイに見えた。
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空から見た東京の色

 しかし、街の色の判定は、それほど単純ではない。色の見え方には、「色順応」という現象があって、例えばピンク色のサングラスをかけると、かけたばかりは周りの世界がバラ色になるが、しばらくすると人の顔や木々の緑は元の色に戻ってしまう。これは普通に言う色順応だが、これとは違う「都市の色順応」現象があるように思う。
 海外から戻り、成田空港から東京を横切って自宅に帰るとき、どこに行って来たかによって東京が違って見える。ヨーロッパ帰りのときは、看板が目に付いて、なんて乱雑な色があふれた街だろうと感じるが、シンガポールから帰ったときは、なんて色気のない街だろうと感じてしまう。何時間か前に身を置いていた色環境の水準に慣れ、それに順応した目で東京を見ると、その評価がシフトしてしまうのではないかと思う。

シンガポールの街の色
 ヨーロッパの落ち着いた色の街を映像で見る機会は多いと思うので、ここでは、シンガポールのカラフルな街の様子を紹介しよう。まず驚くのが住宅の色である。
 いくつもの人種が混じり合って住むこの国では人々が住宅の色付けによって自らのアイデンティティを表現しているように思われる。しかし、そうだとすると集合住宅に付けられた色はどう解釈したらいいのか分からなくなる。
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プラナカン(混血コミュニティ)の家
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イースト・コーストのアパート

 店舗がカラフルなのはシンガポールだけではないが、店の色に合わせるように黄色縞に塗られた横断歩道は珍しい。こういった街をしばらく歩くと、違和感がなくなるばかりか、好ましくさえ思えてくる。夜の都心のライトアップは、期待通りの華やかさである。植民地時代のヨーロッパ様式の建物を利用した美術館も断続的に赤青黄と色を変えてライトアップされると、シンガポール好みになる。
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リトル・インディア界隈の店
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ジョー・チアット・ロードの店
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クラーク・キーあたりの夜景
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アート・ハウス(1827年築)

 東京では、原色に近い赤に塗られた建物が近隣からクレームを付けられる事件が時折ある。そこで話題になったどの建物もシンガポールに持ってゆけば、何の問題もないだろう。多様な色使いの許容幅が広いのである。この色使いの許容幅の大小を都市の「耐色力」と呼び、密かに都市の特徴を示す一つの指標にならないかと思っているのだが、どうだろう。
(大野隆造)

都市のエントランス(1):国際空港

 海外旅行で訪れる都市の第一印象は、国際空港に到着した時の体験である。極端な話、飛行機のドアが開きそこの空気が機内に流れ込んできた瞬間に感じることもある。新しくなる前の北京国際空港では、到着して機外にでると中国の独特の(おそらく料理の)匂いがして、「我再来中国」と嗅覚が教えてくれる。これほど特徴的な体験はそうはないが、どこの国でもまず体験しなくてはならないのが通関の待ち行列である。

通関の出来
 国を訪れた人をどう迎えるのか、昨年相次いで訪れたモスクワとシンガポールは鮮明なコントラストを示していた。モスクワでは、渡航者全員を疑わしいとみなしているかの如く、強制収容所のような天井の低い薄暗い部屋に導かれる。そこで待たされる旅行者は、飛行機の長旅で疲れもあってどの顔も不機嫌そうである。官僚的で横柄な態度の係員は何をチェックしているのか、たっぷり時間をかける。うっかり横を向いていたりすると「真直ぐこちらを見ろ」と注意される。これでは、近代化・自由化を標榜するロシアのイメージは台無しである。一方、シンガポールの通関はこれとは対照的に、明るく開放的な空間で、係員もフレンドリーである。飛行機を降りるとすぐに免税店があるプロムナードに出るので出発する旅行者も居て活気がある。普通、通関のある場所では、セキュリティ上、写真撮影はできないが、ここは平気である。海外からの訪問者を潜在的な犯罪者と見るのか、大切な客人と見るかの違いである。
 
 わが成田空港の通関はどうであろうか。モスクワほどひどくはないが、シンガポールのような楽しい雰囲気はない。このほど始まった外国人に対する指紋検査は良い印象を与える訳がない。確かに通関の機能としての厳格さと雰囲気の良さは折り合えない部分はあるかもしれないが、空間のデザインやしつらえで改善が可能な部分は十分ある。今や観光は非常に大きな産業である。ある統計によると、2006年の観光産業の規模は、世界の国内総生産(GDP) の約10.3%に相当する4兆9638億ドルにもなるという。都市の、そしてその国の、エントランスである国際空港の出来が客の入りに影響しないわけがない。
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チャンギ国際空港の通関(シンガポール)
(大野隆造)

地下で見る都市の顔(2)

 しかし、何と言ってもモスクワの地下鉄の自慢は、モザイク絵画、装飾、照明、ステンドグラスが醸し出す落ち着いた雰囲気のインテリアである。この都市には地中深くに市民のための居間があるようにも見え、実際にここのベンチで待ち合わせをしている人も多い。殺風景な東京の地下鉄駅で待ち合わせをする人がどれほどいるだろう。
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モスクワ地下鉄の地下深くにある居間のようなインテリア
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モスクワのステンドグラスのある地下鉄フォームと東京の明るい地下鉄フォーム

 明るく機能的といえば聞こえはいいが、あまりに効率的な移動空間は気が休まらない。そればかりか、近年、隣接する駅のプラットフォームをつないで改札口を集中する改修が進められている。そのために、電車から降り立って、地上に出るまでに一旦、下階にある改札口まで降りなくてはならない場合があるようになった。火災等の緊急時に、地下から地上に避難しようと上りの階段を探すのが自然であるが、それが見つからないのである。私たちの研究でも、緊急避難時に下方への階段を使うよう指示された場合、かなり強い心理的な抵抗感を持つことが示され、いざという時の混乱が懸念される。ロンドンのキャナリー・ワーフ駅では、それが意図されたか不明だが、避難時に光に向かって行く人間心理と矛盾しない出口となっている。ちなみに、モスクワの深い地下鉄のエスカレータの底にはブースがあって、中年女性の監視員が行き交う乗降客を見守っていた。
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この地下鉄プラットフォームの案内サインの矢印は全て下向き
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複雑に連結された駅内空間(表参道)
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キャナリー・ワーフ駅(ノーマン・フォスター設計)-写真左
深い地下駅に導く長いエスカレータ(モスクワ)-写真右

(大野隆造)

地下で見る都市の顔(1)

 この9月、35年ぶりにモスクワを訪れる。ソ連からロシアに変わり、その自由化路線や経済的な発展が街の姿にどれほど現れているのかとても楽しみであった。しかし、アエロフロート便で成田を飛び立ってすぐにそれがどうやら期待できそうにない予感をもち、実際に現地に到着してそれを思い知らされた。しかし、ここではモスクワの暗い影の面を書きたてようとは思わない。数字上の経済的大発展のわりに一向に改まらない後進性をいくら指摘しても、東京を考えることにつながらないからである。ここでは、35年前と変わらない地下鉄駅のすばらしさに触発されて、東京の地下鉄駅について再考したい。
 モスクワの地下鉄網を東京のそれと比べると、その構成の分かりやすさが歴然としている。ただし、色を分けて路線を識別するカラーコーディングは、東京では車両にも反映されているが、モスクワの車両には色がついていない。キリル文字の読めない旅行者にとっては不便であるが、構成が単純なので実際に迷うことも少ない。
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東京とモスクワの地下鉄網

(大野隆造)

オリンピックが変える都市の姿(4) 2回目の意義?

■2回目の東京オリンピックは有効な都市改変をもたらすのか
 2回目の開催を目指す東京は、露骨に開発至上の姿勢は見せず、むしろコンパクトな「成熟した都市変革」をうたい文句としている。直前に中止された世界都市博覧会の空いたままの用地を埋めるためと悪口を言われ、少子化の進む将来に負担を残すとの批判もある一方で、「発展」を否定することは、人間の本質的な部分の否定につながりかねないとの主張もある。
 しかし、今の東京に求められているものは、先進西欧都市に接近するために成熟した姿を海外に見せることなのだろうか?私の個人的な(阪神淡路大震災の)体験から、1000万人以上の人口が集積するメガ都市の安全性、さらには安心して住める都市への変革の方が急務であると思う。2016年の華やかなイベントに備えるのか、それともその前かその後かは定かでないが確実に訪れる首都直下地震に備えるべきか、答えは明らかのように思う。最悪のシナリオでは、1万人以上の犠牲者が出ると予測されている未曾有の被害を最小限にとどめる防災対策は、一見夢のない消極的な行為のように思われるかも知れない。しかし、世界中の主に発展途上の国々で1000万人以上のメガ都市がますます増えつつある今日、その安全性の手本を示すことで国際的な貢献をする積極的な意義がある。
 オリンピック競技の背景として全世界のテレビに映し出される建築やまちの美しさよりも、市民が日々実際に暮らす建築とまちの安定感と安心感がより重要ではなかろうか。
(大野隆造)

オリンピックが変える都市の姿(3) ソウルに見る再々開発

■街のマイナス変容速度
東京オリンピックの前に東京の水路を覆うように建設された首都高速道路は都市景観再生の議論の中で矢面に立たされている。しかし、それを上空から見ると(写真4)過密なこの都市の動脈として機能しているこの道路の存在を否定することは、もはや出来そうに無いように思えてくる。
韓国のソウルでは、その出来そうに無いことが実行されたのである。ソウル都心を流れるチョンゲチョン(清渓川)の再生である。この川は1950年代から70年代にかけてコンクリートの蓋で覆われ、その上に高架道路が作られた。しかしそれらの老朽化と環境悪化の対策として、清渓川復元事業を掲げた李明博氏が2002年のソウル市長戦に勝ち、2003年に着工(写真5)、2005年には都心のオアシスとして市民の憩いの場となった(写真6)。しかし、川の流れはまったくの自然ではなく、不足する水量を補うために給水をしたりポンプを使って循環させたりしている。このエネルギーを消費する都心の「自然」についての批判もあるが、ソウルでは貴重な親水空間として多くの市民に受け入れられている。いったん開発した場所を復元再生するマイナスの変容速度を示す好例である。
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写真4 上空から見た東京の首都高速道路

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写真5 撤去される高架自動車道(ソウル市住宅局Hur-Young氏提供)

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写真6 復元されたソウルのチョンゲチョン(清渓川)

(大野隆造)

オリンピックが変える都市の姿(2) 北京の変容

<街の骨格>
北京の特徴は言うまでもなく方形の城壁に囲まれたグリッド状の道路網である。中央に位置する紫禁城(故宮)から南にのびる軸線を中心として左右対称の道路網は、基本的にはここを首都とした明の時代から変わっていない。約20年前に訪れたときに買った北京市街地図(図1)を見るとその様子がわかる。しかし、今回訪れて購入した市街地図(図2)では、より広域をカバーしているが、グリッド状の道路網の上に重ねられた新たな環状の自動車道のパターンが目立つ。これは、地図の描き方だけの問題ではなく、市民が持つ北京の認知地図(心の中の地図)もこのように変わりつつあるように思われる。

図1 1986年の北京市街地図

図2 2007年の北京市街地図


<街の粒度(テクスチャー)>

写真1は、北京市都市計画展示館にある巨大な都市模型である。手前の競技施設のあるオリンピック公園から市の中心軸上にある紫禁城(故宮)を望む。その故宮まわりにある旧市街地は、細い路地(胡同)に接して低層の住宅(四合院と呼ばれるコートハウス)が並び、その高密で細かな粒のテクスチャーによって、まわりの大きな建物群とは一目で区別できる。しかし前述のように、この細かなテクスチャーのエリアは、高層建築が林立するゴツゴツしたエリアに急速に移行しつつある。

写真1 北京市都市計画展示館にある巨大な都市模型

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写真2 胡同(フートン):北京のグリッド状の街路は、大街(幅24歩)、小街(12歩)胡同(6歩)(1歩=約1.54m)の階層性をもって作られていた。この最も下位の胡同(フートン)は、公的な大通りと私的な住宅をつなぐ半公的なコミュニティ空間として住民の交流の場となっていた(縁台将棋を囲む住民)。

<ランドマーク>
北京市内はオリンピックに合わせて大規模な施設が多数建設中である。写真3は「鳥の巣」と呼ばれる異様な構造と形態を持つ国立競技場(ヘルツオーク&ド・ムーロン設計)である。また、市の中心にある天安門広場に面する人民大会堂の裏には、巨大な繭玉を半分に切って置いたような中国国家大劇場(ポール・アンドリュー設計)が作られている。ともに外国人建築家の設計だが、グリッド状の街区にぴったり納まった周りの建物に囲まれて、その曲面的な形状が際立ったコントラストを示し、非常に目立つランドマークになろうとしている。

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写真3 「鳥の巣」と呼ばれる国立競技場

(大野隆造)

オリンピックが変える都市の姿(1)

 先の東京都知事選で論点の一つとなった、2016年のオリンピック招致。無論その理由だけではないと思うが、それを推進する側を都民は支持した。たしかに、都市をドラスティックに改変しようとするとき、オリンピックという旗印は強力である。世界に向けた国民的行事という名目で推進される事業に異を唱えるのは難しい。いわば、オリンピック強権の発動である。たしかにある秩序を形成するために改造された過去の都市では、ある強権の発動が必要であった歴史がある。古くは中国の古都造営であり、近くはパリの都市計画である。「オリンピック」はかつての絶対君主が持っていた強権にかわって、「民主的」に選ばれた首長が強権を発動できる数少ないチャンスとも言える。

 この6月に北京に行く。40年あまり前の東京がそうであったように、高度成長期のひとつの到達点を示すイベントとしてのオリンピックが北京で来年夏に行われる。そのイベントは一過性のものではなく、それによって改造された都市の姿が良くも悪くもあとに長く残ることになる。東京の場合は、首都高速道路であり新幹線であるが、北京においても幾重にも環状自動車道が整備され、新幹線も敷設されつつある。圧倒的なスケールの首都高速道に覆われた日本橋の景観に象徴されるような事態は、北京でも見られる。その最も象徴的なものは、消えつつある胡同(フートン)、つまり細い路地の昔ながらの下町的雰囲気である。

 こういったオリンピックがもたらす街の変化を、昨年度の研究で抽出した街を読むキーワードを参照しつつ考えてみたい。
(大野隆造)


「都市の価値をはかる」平成18年度研究報告