まちづくりと建築デザイン

編集局 川上正倫

 東京生活ジャーナルでは、まちづくりフィールドレポートとして、2年間にわたり様々な観点で特徴的な事例を取材してきた。まちづくりの目的や手段はそれぞれ異なるが、将来へ向けた取り組みは、実に示唆に富んでいる。その中で、建築家がこの状況に何ができるのだろうかと、私は常に考えてきた。本稿はその総括という位置づけであるが、決して体系立った調査を行った訳ではないので、事例間の比較はいささか無理がある。そこで、ここでは、建築家とまちづくりの距離感を探ることで建築家の職能を再考し、まとめに代えたいと考える。

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まちの価値を維持していくこと デザインガイドラインのめざすもの

編集局 川上正倫

◇デザインガイドラインの経緯 
 幕張ベイタウン(以下、ベイタウン)が計画されたのが1989年(幕張新都心住宅地事業計画)である。多摩ニュータウンにおける少子高齢化やそれに対応して空間の質を維持するための建物更新、管轄による公共サービスの差などの社会問題が現実化してきた頃であり、バブル景気を背景に益々の都市発展を見込した「よい」住宅地を模索する計画となっている。そのベイタウンを特徴づけている空間制御のための幕張デザインガイドラインが定められている。「単に住環境を満たすだけの街づくりではなく、都市景観等デザインに配慮した質の高い環境」の必要性を訴え、そんな「都市デザインが目指す街づくりの目標」として、
1.  21世紀を展望した都市の先駆けとなる街
2.  賑わいのある都心型の街並みが展開する街
3.  国際交流が展開される居住環境を備えた街
4.  ウォーターフロントの特性を活かした街
5.  自然とのふれあいが感じられる街
の5つを謳っている。

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まちの価値を維持していくこと 金沢シーサイドタウンに見る「都市デザイン」

編集局 川上正倫

◇1970年代の都市デザインとアーバン・デザインの不幸
 金沢シーサイドタウンは、設計者(建築家)の意図がよく反映された事例である。完成したのは1981年のことであるが、計画開始はその10年前に遡る。第一期に槇文彦氏、第二期に大高正人氏、神谷宏治氏、藤本昌也氏、内井昭蔵氏、宮脇檀氏といった建築家たちがプロジェクトに参画している。背景としての設計者の意図を探るため、予備知識的に70年代の建築界を簡単に振り返ってみたいと思う。

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工事中を魅せること 「工事中景」中継

川上 正倫

○ 都市における建設現場

 自宅を出て職場までの道すがら、数えてみたら実に大小含めて12件の建設現場があった。電車移動を除いたわずか徒歩15分弱の距離に、である。数もさることながら、それだけの存在が日常的に無意識化していることに驚いた。決して工事現場がある景観をよしとしているわけではなく、未完成を前提に関知しなくてよい存在として許容している節がある。しかも周囲の建物の振る舞いとは異なる異物であり、また現場を囲う「仮囲い」どうしでの違いがあまりない故に視覚的には結構目立っているのにも関わらず意識しないようにしている。これは、きっと私だけのことではないはずである。しかも、それは街並に対する無関心へと直結する意識の抜き方であり、景観を考える上では負の構図をもたらすことは間違いない。

 建設現場の都市における位置づけを考えてみると、都市発展の象徴でありながら、粉塵、騒音、安全不安など都市生活にとってはネガティブなものに違いない。それらから機能的に都市生活を保護するモノが、建物の代わりに工事期間中その場に陣取り人々の目に触れることになる、仮囲いということになる。現場そのものは時々刻々変化しているわけであるが、仮囲いが外されて建物の外観が見えるようになるまで、仮囲いがその場の外観を担うわけである。つまり、工事の段階によって多少の差はあるものの一般の人の目に触れる建設現場の「景観」=「仮囲いの立姿」ということになる。都市景観の要素として一時的であるにせよ、いつもどこかしらに存在するという意味では、非常に重要な景観要素であるといえる。しかし、建設現場も我々の無意識を逆手にとって手を抜いているように思えてしまうような扱いが多い。

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北本駅西口駅前プロジェクトを通してまちづくりを発見する

編集局 川上正倫

■市民の利益とは何かを考える
 まちづくりにおける理想は、当たり前だが、市民の利益となる空間整備である。ところが、この「利益」の理解が非常に難しい。そこにどのような共通の目標を設定するためのアプローチこそがまちづくりの要だと考えている。今回の北本駅西口駅前広場の空間整備プロジェクトはまさしく、そのアプローチがユニークであり、それを構築するに至った経緯に非常に興味をもった。

 今回その構築を主導している貝島さんに、北本駅前広場プロジェクトを中心にまちづくりへの関わり方を聞くことができた。まずは、貝島さん自身の、大学の研究者であるという立場、教員という学生を指導する立場、建築アトリエの主宰者としての設計者の立場、という3つの立場を様々な意味で柔軟に統合する熱意が一番印象に残った。3つの立場を使い分けるというより、3つの立場を併せ持つキメラ的な状況を最大限利用し、通常では得がたい専門家のコミュニティや学生のエネルギーの投入を可能としてプロジェクトを進行させる。研究者としての分析的視点による「観察」によって独自の「発見」につなげ、その「発見」をもとに建築家として提案的「定着」を図る。また、各立場においてプロジェクトを説明し、協力を仰ぎながらそれを統括するという点でも、建築家の立場が発揮されている。

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1年間の総括として 都市の世代間意思伝達

編集局 川上正倫

都市の変化をどう考えるか

 最近中国上海を頻繁に訪れる機会があり、なにかしらのエネルギーに押されて都市がめまぐるしく変化していく様に驚嘆させられている。まさに「あっと言う間」に変化していく様子を眺めているとそこには異議を唱える隙すらなさそうである。実際、中国の建築家と話をすると、価値を問い直す間もなく、政治的な意向や商業上の思惑による大規模開発によって古い街が廃棄され、生まれ変わっているのだという。ただ、その状況には、おそらく50年前の日本にもあったであろう、飛躍・進歩への意思があり、都市問題としては必ずしも「改悪」とは限らない。そしてあまりのスピードの早さに移行に伴う新旧共存のストレスもほぼ無関係といえる。そんな中で新しく上海に入ってきた人々にとっては、おそらくそこが上海の原風景のスタートなるのだろう。そう思うと、ふとまさしく今年の万博の標語にもなっている「better city better life」に対する上海の決定をどのように昔の上海を知らない新入者に伝えるのかが気になってしまった。検討なき新しき様式の導入が「昔はよかった」という後悔を引き起こすこともなく、都市の歴史が書き換えられる非常にデジタルな状況といえる。

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良好な住宅地であり続けるために 三井所氏+編集局員座談会(1)

 前回は、住政策の専門家である三井所さんにエリアマネジメントという観点から良好な住宅地を維持するための民間事業者の取り組みについてご紹介いただきました。今回は都市計画や建築設計の専門家でもあるジャーナル編集局員を加え、郊外住宅地たまプラーザの課題や価値について議論した座談会の模様をお送りします。

郊外住宅地としてのたまプラーザの特徴

◇ 質も住民意識も高い住宅地
大澤:まず、三井所さんに、たまプラーザの住宅地としての特徴を伺うところから始めたいと思います。

三井所:たまプラーザは、他の郊外住宅地と比べて何がいいかと言うと、フットパスを自然な形で入れ、クルドサックをしているなど、その当時の計画論を踏まえてきちんと作りこんでいることです。緑も豊かで、道路と敷地の生け垣があり、その手前のところにもまた緑を入れるという二重植栽をやっていて、それを維持しようという意識も持たれています。それが協定委員会の立ち上げや、協定の見直しということに表れています。ですから、ハードの環境とそれを維持しようとするソフトの取り組みということに関しては、ある程度完成された状況になっていると思います。

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よく手入れされた「二重植栽」

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良好な住宅地であり続けるために 三井所氏+編集局員座談会(2)

敷地分割は悪か

◇ 何のための180㎡か
大澤:今、たまプラーザでは敷地分割されている事例が多く見られます。この分割というのは、当然地区協定で定められている「1つの敷地は180㎡以上とする」という制約は守っているわけですが、この敷地分割という事象を、ルールを守っているんだから別に問題ないんだと捉えればいいのか、いや180㎡というのはあくまでも最低限の基準であって、本来のたまプラーザ、美しが丘らしさみたいなものから考えると、望ましい規模は300㎡なんだという風に考えるべきなのか。つまり、敷地分割=悪と単純に捉える傾向もありますが、敷地が細分化されていくことの何が具体的によくないのかを考えてみたいと思うのですが。

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良好な住宅地であり続けるために 三井所氏+編集局員座談会(3)

良好な街であり続けるために

◇ 何をもって価値とするのか
川上:結局、考えていくと、何をもって良好な住宅地が維持されたと評価すればいいのかというところにたどり着きます。やっぱり地価なのでしょうか。

大澤:それも一つの指標かもしれないですよね。

川上:それとも生け垣のある家が立ち並ぶ街の姿なのでしょうか。要するに何をもってこの「たまプラーザプロジェクト」を成功だとするんでしょうね。本来、街というのは自然発生的に出来ているから、色々なものの新陳代謝があることで維持できていると思うんです。例えば佐原みたいに、歴史的な何かを残しましょうという街だと、それが維持できているかどうかを一つの評価軸にできるけれども、一気に建ってしまった郊外住宅地というのは、建物の一つ一つにコンセプトがあるわけでもないですよね。何となくの雰囲気で、いい住宅地でしょ?と言ってみても、結局いい住宅地とは何なんだろうと。

 本来は地価が安いということも一つの評価軸だったのにもかかわらず今はやたらと高くなっていますよね。もともといい住宅地を安く供給したかったという思想もあった訳ですから、安く快適に意識の高い人たちだけで住みましょう、みたいな話でもいいんだと思うんです。結局、何を生活環境の基準とするのか、ということですよね。

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銀座デザインルールに見る誇りと新陳代謝

編集局 川上正倫


■「らしさ」は次世代へのはじまりである/デザインの新陳代謝
 銀座デザインルールで述べられている「銀座らしい」街とはどういうことなのかを考えながら、銀座を歩いてみた。その中で実感したことは、「らしさ」を柔軟に捉えることの重要性である。竹沢氏がおっしゃる「ビルを建設するということは、銀座の街に入っていくきっかけ」という当たり前ながら忘れがちなことが、建築デザインにとって非常に重要なテーマであるように思われた。

 建築デザインは、既存の街に対してそのあるべき姿を示すという意味があるが、それ故に、どうしても建物の竣工時がゴールであると錯覚してしまう。しかし、その建物はその後も何十年と残っていくわけであり、その間に周囲が建て変わっていく可能性もある。変化する周囲の中では、竣工した時点からそのデザインは老化していくことになる。下手をすると長い工期の内に、完成を待たずに賞味期限が切れる可能性だってある。無秩序な状況下では建築デザインは儚いものであり、一体何を世に発信しているのか担保できない。その状況を調停するのが「らしさ」をめぐる議論ではないかと感じた。

 建築主にとっては「らしさ」を表現した建物の提案こそが、これから銀座の街に参加していくための所信表明なるものであり、建築デザインはその表現として継続的に街に貢献する重要な役割を与えられる。通常の街において「らしさ」を追求しようとすると、クライアントの趣向や経済的な事情から実現されないことも多い。そういう意味で、銀座デザインルールにおいて「らしさ」を要求されるということは、建築と街並みが結びつく非常に重要な接点となる。「らしさ」としてデザインの意味を説明する必要があるのならば、その議論の中でデザインに対する思考は活性化されるはずなのである。

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上野は公園で故郷の夢をみる

■都市と公園
 上野駅不忍口を出て右手の階段を登ると、上野をよく散歩したという愛犬連れの西郷隆盛が立っている。この西郷像で有名な上野公園であるが、寛永寺が維新の戦火で焼失した跡を公園化したものである。西郷さんを記念しての公園と思い込んでいた。実はオランダ人医師ボードワンが病院建設予定地を公園として残すべきだ、と主張したことをきっかけに「近代的な」西欧式の公園として緑地保持されたとか。ちなみに日本初の公園のひとつとして指定されている。桜の種類が豊富で、早咲きの桜が2月から楽しめ、花見シーズンともなると人で溢れる。
 西郷像が立つ崖は表面補強するように建物で覆われており、ファサードのみのいかにも「東京らしい」複合建築を形成している。実はこの崖を覆う建物群の一部であり、建替えとなった聚楽台が入っていた西郷会舘は、近代建築の大家、土浦亀城の設計による。土浦は、東銀座の道路下をつなぐトンネル型映画館シネパトスの設計者でもあり、近代における都市と建築の融合を形にしているといえる。
 その象徴的な複合崖下はアメ横商店街を軸とするアジア的ゴチャゴチャな街並が広がる。崖上は対照的に寛永寺跡に建設された国立博物館はじめとする美術館・博物館群、東京芸大などで構成される多少西欧風の整地された文教地帯が広がる。さらに動物園から不忍池にいたる緑あふれる公園とそして周辺の住宅地には戦前の雰囲気を残す。この公園を中心とする一帯こそ、東京において「都市」と呼ぶにふさわしい状況を実感できる数少ない場所であると勝手に考えている。
 上野公園には様々な目的の人々が集まる。散歩する人、休憩する人、ラジコンを走らせる人、花見をする人、美術館に向かう人、学校に向かう人、そしてその日の寝床を探す人…。ありとあらゆる人々が交錯する公園こそ東京の都市価値を示すものと感じるのである。物的な都市とは人間の諸活動を分節化した専門分化して受け入れる容器としての建物によって構成されるもの考えると、公園はその分節化の果てに相対的に現れてくる余白、つまり専門分化しにくい活動を許容する空間といえる。西欧であれば、街路とその結節点としての広場がこの役割を担うであろう。西欧式の公園をもってして、ニューヨークのセントラルパークをはじめとする他国の大都市公園にはない包容力が演出されている。それ故におそらく本来「近代的な公園」が都市からの逃避空間をめざすことが目的であったのに対し、上野公園は、都市そのものを象徴しているように思う。

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早咲きの桜を愛でる外国人観光客やカップル

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崖上に立つ西郷隆盛像

■東京のふるさと上野
 都市らしさのほかにシチュエーション的にもう一つこの公園から受ける印象がある。今回歩いたのもまさにそんな状況下であったが、成田空港経由でこの地に降り立つと、この公園の姿にふるさとに帰ってきた実感を覚える。捉えどころがない街並とそれに隣接する公園の広大なもさっとした緑による、コントラストが濃く、彩度の高い景観が原因に違いない。
 他の都市にだって大きな公園はある。しかし、都市の様々な用途の結節点にある上野駅と上野公園特有の立地がつくる特殊な景観が醸し出す情感の存在を感じる。空港からのアクセスを考えると日本の玄関に存する上野公園は、古くから様々な人の出入りを見守ってきた。東京駅から降り立つ丸の内の景観とはまったく異なるゆるさを持っている。ある時は集団就職で東京に出てきた人々を迎え、ある時は海外からの不法滞在者を含めた外国からの労働者のオアシスとなり、今では寝床を失った人々の家となっていることは、他公園の事象に鑑みると、それなりの理由をこじつけたくなる。
 さて、今回そんな理由のこじつけを狙い、空港からの帰り道に公園を訪れたのはさほど遅くない夜であった。昼間の人ごみが消えた公園は非常に静かで、道一本隔てた繁華街の喧噪とは無縁である。暗闇の中に佇む西郷像の視線の先を追うと、アメ横方向が見晴らせる。この距離感が公園の眼下に広がる明るさと非常に対照的な空間にいることを意識させる。公園の逆サイド様では巨大な不忍池で距離をとる。夏には蓮の葉で埋まるこの池も今の時期には枯れていて、水面に映る対岸のビルが印象的である。公園口の方からは東京文化会館と西洋美術館が凛とした対称性で出迎え、その足下で寝床を組み立てているホームレスさえも自分の住処として誇りを持っているように見えるくらいである。様々な次元でのこの距離感が都市を客観的に感じる遠因に思えた。日本庭園が来世や極楽浄土を描くコンセプトと通じる。しかし、前述のような包容力を蓄え、都市の中にある非都市空間では決してない。都市の一部でありながら、社会から逸脱できる場所であるからこそ、遠く離れた真の故郷に対する第二の故郷として、上野が位置づいている理由がある気がするのである。

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崖上からの上野繁華街

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不忍池に映り込む上野の街

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線路下にも展開するアメ横の夜

(川上正倫)

築地の街の賞味期限

■食のブランドとしての「築地」
 築地は中央卸売市場の存在によって日本人なら誰でも知っている地名のひとつだろう。築地市場に近い=もっとも鮮度が高く質の高い食材を用いているということで新橋、銀座の高級店は「築地直送」をひとつのウリとしている。食のブランドとして「築地」の未来は安泰と思えど、必ずしも、そうではないらしい。
 資料の数字を見ていると1980年代には約80万tあった年間取引量が不況のせいか最近60万tを割り込み、取引金額も総じて減っている。当然、不況の影響はあるだろうが、もうひとつの原因に流通経路の多様化に基づく鮮度のバロメータの変化が挙げられる。最近では「築地直送」にとって代わって「産地直送」を謳う方が消費者に響くのだろう。沿道大型量販店に客をとられる駅前商店街が如く築地にも徐々にその波がかぶりはじめているといったところか。
 それでも街には「築地○○寿司」などと「築地」を店名に掲げる店も多い。その地にあって地名を冠するのは街そのものが食のブランドとして立っていることを象徴するものといえる。
 市場を離れて歩くと、いわゆる「看板建築」に多く出くわす。道路面を銅板張りとし、それぞれその銅板に装飾を施し職人技を競っている震災後に流行った建築スタイルである。震災後につくられた市場とリンクし、戦災を免れたこのエリアには、そんなノスタルジックな外装の料理屋や食材店が数多く残っている。やはり歴史、伝統とそれを維持する信用が安心できる食のブランドとして街並にも担保されているのだという気がした。

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(写真左)看板建築
(写真右)路地に潜む古い民家を改装した料理店

■市場移転と街のアイデンティティ

 しかしながら、食のブランドを確立した築地から中央卸売市場の移転はもはや決定的であり、あとは受け入れ先の豊洲における「食の安全」を脅かす土壌汚染問題を主軸にカウントダウンを待つ者の感情論へと移行している。
 移転ニュースの鮮度はともかく、実際に訪れてみると現実問題として「狭い、古い、形がおかしい」など現在の市場を使う限界があることは見て取れる。トラックの渋滞も半端でないらしく、現状に問題があることには誰も異論はないであろう。
 江戸時代から魚河岸があったのかと思いきや、関東大震災で消失した日本橋にあった民営の魚市場や京橋の青物市場の収容を目的に築地海軍学校跡に1935年に営業開始し、歴史は約70年である。建物は老朽化し、耐震性やアスベストの問題がある。当時は貨車での搬出入がメインであり、汐留から貨車を引き込んでいたことから楕円のカーブを描く「形がおかしい」建物形状をしている。川に沿った配置も水運への関連であろう。しかし今ではほとんどがトラックによる運送であり、道路環境から見ると築地の分は悪い。
 航空写真で見ると23haの敷地の巨大さが伺える。そんな巨大施設不在の70年前以前はどのようだったのだろうか。地下鉄築地駅を降りると有名な築地本願寺が目に入る。インドの様式を取り入れた伊東忠太の代表作である。江戸時代に浅草にあった西本願寺の別院が大火で消失したが、幕府によって与えられた新敷地はなんと海上だったという。門徒を中心として与えられた海を埋め立て、土を築いたことから「築地」となったのだという。その後築地は寺町として多くの寺社が建てられ、寺町として震災前までは屋敷町となっていた。今や遠くまで埋め立てが進み、元海上であったなどという雰囲気は微塵もない。そういう意味ではるか昔から「移転」によってそのアイデンティティを築いている浮遊の土地といえる。
 市場移転後には、跡地はオリンピックメディアセンターの敷地として計画されているとも言われていたが、実際には頓挫している。いずれにせよ、場外商店街は市場移転後も残るという。故郷を失った施設を第二の故郷として受入れて来ることによってその都度アイデンティティを変質させてきた。次フェーズにおいてどのようなアイデンティティを築くのか。
 街として賞味期限を維持する大変さは東京のどのエリアにも共通する問題である。東京の景観が安定しない理由が今までは大火、震災、戦災といったリセットであり、その中での建築様式の変化であった。しかし今後は都市インフラ的な機能性の変化に基づくアイデンティティの揺さぶりが未来の景観像を不安定にする。築地は、食のブランドの維持に努めるのか、新たなアイデンティティを求めるのか。いずれにせよ、現状ではノスタルジー以上の未来の景観像は見えてこない。

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築地市場航空写真(yahoo地図より)

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(写真左)魚市場(wikipediaより)
(写真右)築地本願寺

(川上正倫)


巣鴨の未来に世界遺産の夢は見られるか

■心のとげを抜く
 高齢化社会などと言われて久しいが、心の準備が出来ている街がどれほどあるのだろう。巣鴨に、おばあちゃんの原宿こと巣鴨地蔵通り商店街がある。本年元旦、さすがの東京各地もひっそりしている中を訪れてみると正月早々からかなりの賑わいであった。

 もともとこの商店街は旧中山道であり、江戸時代より日本橋から板橋宿に至る最初の休憩所として昔からにぎわっていたとのこと。巣鴨地蔵通りは通称とげぬき地蔵の参道となっており、商店街は巣鴨駅あたりから庚申塚まで約800mの長さを誇る。この商店街には200軒近い商店が並び、「4」のつく日に開かれる縁日には一日10万人、年間で800万人が訪れるという。正月の人出はそのほとんどがおばあちゃん…、というわけでもなく実際には老若男女バランス良くといったところか。むりやり特徴づけるとすると正月故におばあちゃんを中心とした一族総出で赤ちゃんから老人まで出かけていって心配が少ない初詣場所に出かけて来たといったところであろうか。まず、地下鉄駅から地上へのエスカレータに乗ると「?」と違和感を覚える。明らかに遅い。あとからこれは老人にやさしい速度設定になっていることを知った。到着からおばあちゃん仕様である。

 主目的地であるとげぬき地蔵は、痛みを抜いてくれる仏としてこれまたおばあちゃんにはもってこいのありがたい仏様なのである。ほか、それを巡る地蔵通り商店街のほとんどの部分で歩道に段差はなく、また歩道と店舗の間も段差がない。ポップの文字も大きいし、売っているものもおもしろい。「おばあちゃんの原宿」というからにファッション系のショップも多く、保温性の優れた機能的なものから最先端「赤パンツ」などのヒット商品が並ぶ。当然有名ブランドの入り込む余地はなく、グローバル展開しているチェーン系のものはほとんどないところも垣根の低さとコミュニケーションを生んでいる。店内トイレを開放している店舗も多い。

 さらに郵便局前や公園など要所要所に休憩広場が設けられていて、ベンチに腰掛けて和菓子屋の店先で仕入れた塩大福や団子などを頬張ったりしているグループも。縁日の日にはなんと銀行がホールを無料開放してお茶などを出してくれるそう。「体の痛みを抜くのはとげぬき地蔵、心の痛みを抜くのは地蔵通り商店街」というコピーを体現するホスピタリティである。基本的には「とげぬき」というおばあちゃん向けのご利益と周辺の商業がニーズにうまく応えている結果の自然な盛り上がりである。

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元旦から賑わう巣鴨地蔵通り商店街

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とげぬき地蔵脇の広場

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郵便局脇の広場

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おばあちゃん向けファッションの店

■おばあちゃんの原宿という景観
 巣鴨地蔵通り商店街は、歴史と文化を大事にした、ふれあいのある、人の優しい街として2006年には、中小企業庁制定にがんばる商店街77選に選ばれている。お詣りという定期的な行為と結びついた門前町としての相互的な関係を築いていると評価されてのことである。2008年4月には、本の街神保町などと並んで巣鴨地蔵通り商店街が、文化庁から「文化的景観」の主に生業に関わる商店街の景観の「重要地域」として指定された。世界遺産でもこのような人の営みに注目した「文化的景観」がトレンドとなっているからには、巣鴨も…?しかしながら、観光を味方につけて順風満帆のように見える中にもそれなりの悩みもあるようである。

 いわゆる高度成長を支えた団塊世代がこの循環の下支えとなっている「信仰」に興味が薄いということである。当たり前であるが文化的景観は、文化を失っては成立しない。駅前商店街では、廃止される例も多い中で傘をささずに買物できるということでこれまたおばあちゃん向けのアーケードを残しているだけでなく、アーケードにソーラーパネルを乗せるという改修まで行っている。徹底したバリアフリー化と平行したエコ化によって人にも地球にもやさしい商店街をめざしている。宗教という意味での「信仰」は薄れども、このような信条は文化を継続する上で信仰と同義である。やさしさ特化の文化が世界遺産となるまで成熟させ、原宿が若者の巣鴨と名乗ることでアイデンティティを表現するようになる何かを獲得できることを期待したい。

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バリアフリーと店先コミュニケーションによる門前町商店街の文化的景観

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初詣客で賑わうとげぬき地蔵

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駅前商店街アーケードとソーラーパネル

(川上 正倫)

汐留に流れは来るのか?

■汐留の歴史と現状
 汐留は江戸時代には大名屋敷が立ち並ぶ武家屋敷街であったなどと、今の街並を見て想像がつくだろうか。明治になって政府に接収され鉄道の拠点となった。それからしばらく鉄道貨物駅として機能していたが、80年代後半に廃止され、跡地が再開発されることになった。武家屋敷の遺跡発掘などでしばらくは更地だった。学生時代に工事現場に忍び込み、敷地境界までビッチリと建物が建ち並ぶ様、銀座のネオンと敷地の暗さの対比を眺めながら都市の不思議さを友人たちと議論した記憶がある。2000年代になりようやく超高層が生え始め、都市らしくなってきた。それでも2008年12月現在で未だに工事中の部分が散見される。
 さて、歩いてみて感じるのは、街としての寂しさ。大勢のサラリーマンが働くビルがこれだけ建っているのに人の気配が薄い。昼になるとランチを食べにビルから人が一斉に降りて来ると「こんなに人がいたのか!」と驚かされる。実は地表レベルは車優先となっており、地下に潜ると現実には人が大勢行き交っている。ビルの中、地下の活気が地表に表れてこないのがこの街を異様な雰囲気にしている。その感覚をより強くしているのが、交通網による視覚的、身体的な断絶感である。もともと鉄道拠点だったこともあり、新幹線は通るわ、ゆりかもめはすり抜けて行くわ、おまけに首都高までといった具合で何やら曲線をえがく高架が多い。その高架の隙間に超高層が乱立する様はまるで屏風を立てたようで、汐風をとめてヒートアイランドを引き起こしているとの批判も真偽の程はともかく視覚的に頷けてしまう。
 この超高層が立ち並ぶ様もそれぞれの建築計画的な成功はさておき、東京の無計画さを表層するものとなっている。更地からの再開発なのだからうまくやれるはずなのに、と思わずにはいられないが、逆に設計者としては超高層を成立させるのに全力を注ぎながらも、隣に建つ超高層がどんなものになるかという相互関係は考える余地がなかった事情も理解できる。アムステルダムの再開発事業を鑑みて、このような相互関係が成立する再開発には、行政の強権が必須となる。デザインに口を出さないまでも、全体の運営に口出ししてコントロールする権力が必要なのである。まあ、汐留に君臨する日本の大企業群の前では行政もなかなか言いたいことも言えないのであろうが。

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(写真左)方向性がバラバラの超高層がつくる屏風
(写真中)足下を断絶する交通網
(写真右)多少人々が行き交う地下部分

■「イタリア」の意味 
 そんな都市計画のあり方について思いを馳せながらシオサイトエリアを歩いていると、線路向こうに列柱を貼付けた巨大なJRAの建物が目に入った。工事中で線路下を渡れないので、汐留の一部とは思えないくらいアクセスが悪いのだが、再開発エリアに含まれていたので大回りして行ってみた。近づくと周囲のコンクリートの白基調のビル群とは一線を画すヴィータイタリアと名付けられた一角であった。パステル調の建物群に囲まれた広場的スペースがあり、脈略のなさは東京であってもかなり上位に位置づくであろうが、JRAの警備員がちらほらいる他には、ここもまた閑散としていてなんだか不思議な街である。この一角はシオサイトと異なりある意味相互関係がとれている。「イタリア!」というキーワードの下に事業者が同じ方向を持って建築している。感想として日本でもやればできるんだという気持ち半分、なぜ「イタリア」なんだという気持ち半分。
 新橋へ戻りがてら超高層の足下の旧新橋停車場の遺構を用いた建物を眺めながら、恵比寿で感じた歴史を伝達することの難しさを感じた。都市計画のあらゆる難しさを体感できる街が汐留であるといって過言ではないだろう。いずれにせよ、新しモノ好きの日本人をしてもまだ汐留ブームを起こし得ていない。流れが訪れるかどうかは、まだ余地の残る開発途上の地で、視覚的にも歴史的にも起こっている断絶をいかに連続させていくかにかかっているように感じる。

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(写真左)オリジナリティを感じない地下イベントスペース
(写真中)超高層に囲まれて逆に脈略を失っている
(写真右)歴史建造物としての旧新橋停車場

(川上正倫)

浅草のベンチマークは何なのか?

■浅草の建築デザインコンペ
 浅草雷門の斜向いにある「浅草文化観光センター」が老朽化などを理由に建替えられることになり、建物のデザインを決定するコンペが実施されている。このコンペの要項で重要な項目のひとつとして謳われているのが、敷地ならびに浅草の「土地の記憶」に対する建物の位置づけである。当然といえば当然の要求なのであるが、果たしてここでいう「記憶」とはどのようなものなのだろうかとふと気になった。浅草の歴史や伝統を継続するというように与件を解釈すれば展示内容などのソフト面では理解できるのだが、ハードたる建物にとって土地の記憶を位置づけることによって、どのような影響を与えうるのだろうか。
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現在の浅草文化観光センター

 建物がその土地固有の資材や情報をもとにつくられていた時代においては、建築が敷地に立つということ自体が「土地の記憶」を担っていたはずで、本来だったらコンペの要項として敢えて謳う意味すらなかったのである。また、駅舎や工場といった、それまでになかった新しい機能に適合したビルディングタイプであれば、それもそれでひとつの文脈となりえただろう。しかし、「文化観光センター」とは、出来合いのビルに入居しても成り立ってしまうような機能(建物のプログラム)なのである。そして、その場から浅草を見渡した際の景観もまた、記憶継承の論拠とするにはハードルが高い。そういう意味で、浅草文化観光センターであるからには浅草を表現するような建物であるべきだ、という根拠自体のあやふやさが急にひっかかった。


■浅草のランドマーク

 コンペのことはさておき、浅草建築の流れを概観すると実にランドマークの歴史と言えることに気づいた。雷門は、平安時代からの存在がいわれているが、江戸時代に何度か消失していて、1865年に消失してから100年程はたって今の形に修復されたという経緯がある。そのほか、今はなき煉瓦の塔、凌雲閣や看板建築の代名詞で仁丹ビル、神谷バー、花やしきにスタルクのアサヒビールホールと、時代時代で浅草の代名詞となるランドマークには枚挙にいとまがない。そして数年後には、ちょっと離れるが東京スカイツリーも完成して更なるランドマークが増える。そういう意味で東京の中でランドマークのベンチマークが浅草に集中しているといってよい。ランドマークは本来孤高の存在として象徴性を高めるはずであるが、これだけ林立すると場の象徴性も高まっている。それが浅草のもうひとつの熱気になっているのだろうし、祭りや芸能といった無形のものに有形の偶像を与えるということで「記憶」を継承するのか、と思うとごちゃごちゃの浅草の景観が凛々しく思えてきた。

 三社祭の風景を見るにつけ、結局そのランドマークに集まる賑わいこそが浅草を記憶するベンチマークなのだと思う。

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黄金色に輝くアサヒビール建物群

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三社祭りで神輿を取り巻く人の渦

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明治末期、大池越しに見た浅草十二階(手彩色絵はがき)
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(川上正倫)

恵比寿は過去を未来につなげえたのか

■ヱビスガーデンプレイス
 「恵比寿」という地名は彼のヱビスビールから来ているのは有名な話だ。1901年にビール出荷専用の貨物駅としての恵比寿駅ができ、1928年に恵比寿が街の名前になったという。1970年後半から周囲が宅地化されるに連れて工場増築が課題となり、1988年に船橋に工場を移転。工場跡地は恵比寿ガーデンプレイスとして再開発され1994年にオープンした(ヱビスガーデンプレイスの歴史 http://gardenplace.jp/history/ 参照)。

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ガーデンプレイスのビール工場をイメージさせる煉瓦造の低層建物群。駅方向からは長い歩廊がタワーに向かっているのが見える。

 バブル期の計画とは言え、敷地規模が約10haに及んでおり、当時としてはかなりの大規模再開発であったといえよう。20年前の恵比寿といえば、渋谷と目黒の間に潜み、(筆者の年齢的にも)ビールというよりもラーメン屋街のイメージしかないマニアックな街であったように記憶している。そんな街が一大人気スポットに早変わりを遂げ、情報誌などで盛んに取り上げられるようになった。再開発特有の後ろめたさもなく消費者には割と好意的に受け入れられたように覚えている。
 かたや、完成時にはバブル崩壊で景気は下がる一方であったこともあり、駅周辺でサラリーマンを相手にしていた地元商店の絶望を伝える報道も盛んであった。ガーデンプレイスそのものは恵比寿駅からかなりの距離がある。それ故にスカイウォークなる歩廊でつなぎ、これも当時としては珍しかった動く歩道で駅から簡単直接に行けるようになっている。つまり地元商店街にとって、目の前をベルトコンベヤーで客が素通りするわけでどんな営業努力も無駄というわけである。今となっては、現在の賑わいを眺める限り、結局これは一時の杞憂に過ぎなかったようである。ガーデンプレイスが光り輝く「ハレ」の空間に対して、日常を引受ける影の「ケ」を地元商店街が担い、共存することで再開発された新しい街を受容するバランスを築いている。似た事例として、六本木ヒルズに客を取られると心配した麻布十番商店街がかえってヒルズの観光客の立寄りによって結果的に盛り上がったなどというケースもある。ローカルな客の取り合いよりも街自体の魅力を高めることこそが重要なのだ。

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ガーデンプレイスとは駅の逆側にある繁華街。落ち着きのないところが逆に安心できる。

■都市の選択可能性
 さて、このガーデンプレイス、高台にあるために駅からのアプローチでは周囲が眼に入らない。坂を上らせておいてサンクンガーデンに引き込むので着いた後はガーデンプレイスしか見えないディズニーランド的蛸壷構図である。煉瓦をベースとしたヨーロッパ調のファサードづくりを行っているが、これが総合設計制度の賜物なのか建物密度が低く、なにやらスカスカしており、建物が連続していくヨーロッパ市街地には見られない景観である。横浜みなとみらいエリアにも同様の構図が見られ、ある意味ジャパンオリジナルな構図といってよいかもしれない。

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人々を引き込むサンクンガーデン。

 今回、訪れたのが9月末ということもあり、暑くもなく、寒くもなく、オープンエアーのサンクンガーデンは気持ちよく、程よく人が集まっていた。東京においてはこの気持ちよさは一年でもかなり短い期間ではあるが、このサンクンガーデンは都市生活を実感できる数少ない空間である。都市生活の心地よさはその選択可能性の広さにあるのだと思う。東京は、きっと世界のどの都市よりも選択肢数は多いだろう。例えば、少し前に話題になった「ミシュラン」の掲載数を見ても、レストランの種類や数の多さは歴然であり、遊ぶ場所もたくさんある。しかし、それらは目新しさを伴う物的な場所の選択肢数であり、人間同士の関係を含んだ空間的なものではない。「ハレ」と「ケ」が紙一重で隣り合ってこそ都市の魅力は最大限に活用される。そういう観点で、実は東京では、「ハレ」と「ケ」にかなりの距離感があって、行動や活動内容の選択可能性はそんなに広くはないように思う。

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サンクンガーデンにはイベントでもあるのかと思ってしまう人の集まり。低層を徹底し、デパートやオフィスに行くのにも一旦地下に降りる。

■都市における「ハレ」と「ケ」
 そういう意味でガーデンプレイス以降の昨今の大規模再開発は、どれを見ても「ハレ」に特化した同じような指向しか見えない。当の恵比寿においてもアトレを含めた恵比寿駅周辺でもまた相変わらずのデパートの屋上興行的な有り合わせの再開発が進行中のようである。これは、「ハレ」の強引な投入である。「ケ」を担う恵比寿のもうひとつの魅力である路地的な影の部分が再開発の光に照らされて消滅するのも時間の問題であり、恵比寿の選択可能性が狭まりつつあることに不安を覚えた。どこに行くかの選択肢そのものは増えているが、そこで何をするのかの選択可能性を広げてくれないと都市は衰退しているのと変わらない。若さだけが取り柄で、より若い者が登場するとそちらに乗り換えるといった具合だ。

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何処にでもあるような客待ちタクシーが占拠した駅前広場

 一方で、都市生活の奥行きはその街がどれだけ歳を重ね方にあると言わんばかりに、どの再開発でも文化の継続がひとつの大きなテーマとなっている。幸い恵比寿はヱビスビールから生まれた街であり、生産の場から消費の場に転換するのにさほどの断絶はなく、何も残っていない江戸時代の遺構を相手にするよりも、ストレスは少なかったのかもしれない。ヨーロッパ調の流行に迎合していると思われがちなところもビール工場の雰囲気を残そうと煉瓦を基調とした外装になっているのだという言い訳もつく。しかもこの外装が功を奏してか、15年前のものとは思えないくらい綺麗に維持されている印象を受けた。
 だから良くも悪くもオープン時点で歴史が停まっているようで、このような歳を取らない街は、それはそれで見慣れることによって周囲となじんで来ている。「ハレ」の場は、人々の気分の高揚のために歳を取らないに限る。「ケ」の空間は、歳を重ねることで深みを増す。「ケ」には「ケ」の代謝のしかたがあるはずなのに、誤って「ハレ」の代謝を行おうものなら街のバランスが崩れてしまうというものである。
 恵比寿は今、「ケ」の必要な「ハレ」を確立しているのに、「ハレ」に向かう「ケ」がじわじわと増えてきている。お互いのコントラストは深まるばかりといった様相が残念である。この小さなディズニーランドを宝の山にするのか、ビールの泡としてしまうのか。ある意味、木と紙の建造物に囲まれてきた日本人に取って過去を未来へとつなぐという観点でヨーロッパの都市は理想的である。しかしながら、ヱビスガーデンプレイスの空間的魅力がそうした幻想 を定着化させるだけに留まるには惜しいポテンシャルであると思う。新しい「ハレ」の構築なんかよりも、「ケ」を再構成する再開発する手法こそ都市を過去から未来へと継承していく為に考えていく必要があると思う。

(川上正倫)

六本木の価値をはかる(5)

■大きいことと小さいこと。古いこと新しいこと。
屋敷町であったことを思わせる古くて長い塀があちこちで見られる。そのまま学校になっていたり、宿泊施設、大使館などに敷地が転用されていてその区割りが残っている。これらは、敷地が大きくしかも建物も低いので近寄っても建物が見えないようなものも多い。このような塀に憧れて狭い敷地にも塀を廻らせてしまうのだろうか。
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かたや、町人の街を思わせる不思議な街区もあちこちに残っている。檜町の一角には、道幅が 90センチほどしかない路地が碁盤の目のように配されたエリアがある。日当りは悪そうではあったが、手入れがかなりきちんとされていて不健康な匂いは全くしなかった。このようなエリアが建築基準法の下で平均化されてしまうのはせつない。
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麻布台の一角には、アールヌーヴォー調の長屋もある。このあたりは、このような洋館がたくさん建っていたという。今では 2軒を残すのみだが、この地域の往時からの文化への関心を示すものではなかろうか。
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楽園と庭園
この界隈には立派な公園が多い。門などがそのまま残されていてかつて大きなお屋敷の庭であったことを想像させる。長らく手つかずだったこのエリアが再開発の対象になったのが、バブルを過ぎた安定した豊穣期であったおかげでか、再開発の足下も決して派手な緑化がされているわけではない。六本木を楽園化するもうひとつの要素が、これらの公園や緑地であるようにも思えた。ヒルズは毛利庭園を再生整備し、ミッドタウンはなんと高層棟そのものが日本庭園の石をイメージして配置されているという。
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■坂と崖と橋と
散策をしていて特に感じるのが坂の多さであろう。この地形の起伏の激しさも、建物がよりばらばらと乱立しているように見せる。以前考察した渋谷はひとつの谷に向かってすり鉢上になっていたが、ここでは細かい小山がいくつもあって、ぱっと向こう側が開けるような風景に行き当たる。饂飩坂、芋洗坂、寄席坂など、むかしの文化に由来する名前も往時を想像させて散策を楽しくさせている。谷が多いせいか寺と墓場もかなり多く見かける。それがまたひとつの大きな空地をつくりだし、その向こう側に都市の立面を見せてくれる。俗世とそのむこうにある楽園。
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複雑な地形をより複雑にしているのが、この高架である。これによって建物では作り出せないおおきなスケールでの水平的な連続感をつくりだしている。これは新たな地平線でもある。
建物間を結ぶ立体歩廊や橋も動線上でも立体的な地平をつくっており、自然の起伏によってそれらがさらに立体的に目につくことで、更なる起伏を生み出しているのがおもしろい。
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 六本木は思ったより「散歩」に適した街であるとも言える。夜にこそその価値があるという人もいるだろうが、生活空間としてかなり質が高いエリアであるといえる。繁華街というところで治安は多少劣るとしても、至るところに古い都市の遺産を垣間みることができ、気軽に休憩できる気持ちよい公園があちこちに点在する。坂や階段も多く、かなり起伏が激しい地形と乱立する建物群によって様々な画角で街並が切り取られ、変化に富んだ飽きない眺めを提供してくれる。その眺めに激しく入り込んでくる再開発によって生まれたタワービルの存在も、新宿や丸ノ内などのそれとは一線を画しており、かつて戦国時代の「城」よろしく支配的な視線で見下ろされている感すらある。
 そんな「城」たちも、方向音痴のくせに地図を持ち歩かない自分にとってはよい指標となり、どこにいるかわからないながらも大きく方向を逸れることなく歩くことができた。その反面、歩いた道筋や象徴的なそれらのタワービル以外の建物がまったく記憶に残らない。きっと目的地があったらたどり着くのにえらい時間を食ったことだろう。しかしながらその地形さながらに起伏の激しい都市空間であり、その都市の価値を理解するのはかなり難しい街であると感じた。体系だった軸を見出すには、もう少し議論が必要かもしれない。

(川上正倫)

六本木の価値をはかる(4)

■六本木にみる聖域と楽園のせめぎ合いによる街としての価値
六本木は自分の中では、割とつきあいが長い街だとは思うのだが、実は全く実態を把握できていない街のひとつである。昼間に歩き回っているだけでも、表装に表れてこない別の顔の存在があるに違いない空気だけは感じられる。しかし、夜に訪れたとしても表装は変われども、その真の顔に近づいている感覚は得られない。仕事場であり遊び場にしてこなかっただけということもあろうが、この街の空間的な特徴を説明しようにも言葉に詰まってしまう。

六本木に古くから住んでおり、本性を知り尽くしている方の言葉をお借りすれば、六本木は観光客や一見さんには近寄りがたい都市の「聖域」なのである。それもそんなに歴史がある聖域ではない。始まりは世間から白い目でみられた遊び人たちの欧米への憧れを実現する場に過ぎず、憧れへのあくなき探究が場に文化を呼び込み遊び人たちの「楽園」となった。世間の白い目から逃れるように楽園は表装を捨てて姿を隠した。世間の目から隠れた楽園は、いつしか経済の成長とともに育まれた“文化”という高い垣根をつくり鎖国をはじめた。闇の世界は、表装を持たないから空間よりも人の縁が水先案内人として重要になる。時代は変わって、世間の目はその文化や人の縁によって囲まれた楽園に憧れはじめる。しかしその時既に楽園は、“文化”と縁の薄い一般人の手の届かぬ聖域になったのだ、とするのは強引すぎるだろうか。

ところが、昨今の度重なる再開発は一般人の楽園を聖域に乱入させた。聖域に憧れていた人々が大量に流れ込んでいる。彼らは、人の縁でしか得られないはずの「情報」をもっており、無条件開国を要求している。ネットやタウン誌によって裸にされ、今や、かつては近づくことすら憚っていた人々から文字通り見下ろされるエリアとなっている。
しかし、本当に聖域は完全に開国されたのだろうか。エセ楽園に読み替えられ、テーマパークとしての表装を街の真の顔として公開しているだけのように見受けられる。街自体もそれに併せて化粧なおしし始めているようにも見える。果たして聖域は一般人の楽園と共存できるのか。そんな状況を改めて確かめるつもりで六本木エリアを練り歩いてみた。

■夜の街の昼の顔
ドンキホーテこそ頂部にレールを載せているが昼の顔は概して大人しい印象。チェーン店の流入により多少わかりやすくなってきている。ガイドブックを片手にヒルズやミッドタウンから流入してくる人々からすると、「六本木大したことないじゃん」の印象が強いのではなかろうか。ハワイのワイキキに行って、「なんだきれいな海ってこんなもんか」と思っているのに近いか。きれいな海には安易には近づけないのだ。外来者は目立つものの、午前中からお昼時にかけての繁華街の姿は、渋谷・銀座などとは比較にならないくらい人が少ない。南北線や大江戸線によって陸の孤島からは解放され、再開発によって門戸は開かれたが、まだ夜の限定的なアクティビティに頼った(しかもそれで充分成立つ)R指定の街のようだ。
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■振り返ると奴がいる!
かなりしつこくあちこちからヒルズ、ミッドタウン、泉ガーデンのひょっこり覘く姿を意識してみた。城下町を見守る天守閣のように、どこからでもどれかは見える。見えるということによって逆にその領域下に取り込まれているような感覚になった。ヒルズが見えていたところからミッドタウンが見えるところに移ると違う国に来たかのように。
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そんな中、東京タワーが見えると、ちょっと懐かしい仲間を見つけて「久しぶり!」と声をかけたい気持ちになった。
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(川上正倫)

北千住はどこに向かうのか

■駅前の活気
 先日、久しぶりに北千住を訪れた。駅前は見違えるほど整備され、良く言えば画期的に利便性が向上し、悪く言えば地方の中核都市の「駅前に良くある風景」となっていた。しかし、平日の午前中に訪れたにも関わらず、街には活気があり(この感想自体が現在の「東京」に毒されているようにも思うが)、人々が「住んでいる」実感を受けた。

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 北千住は、江戸時代より日光街道の起点であった千住宿から発展した街である。やっちゃ場と呼ばれた青物市場もあったことで古くから活気にあふれた街だったのだろう。また、松尾芭蕉の「奥の細道」のスタート地点としても知られる。それ故に北関東や東北各県から東京への出入口的要素が強く、北千住駅は、今ではJR常磐線、営団千代田線、営団日比谷線、東武伊勢崎線、TXつくばエキスプレスが入り乱れるターミナルとなっている。かつては、やたらと混雑する駅とのイメージが強かったが、今では乗り換え動線も整理され、多くの乗降客に適応できているように感じられた。

■新旧の混在
 駅ビルを出て、整備されたペデストリアンデッキを降りると、駅前には駅内の行き交う雰囲気を受け入れるような細かい飲食店が並ぶエリアが広がっている。地下鉄駅の入口はまるでテナントのような様相であり、整備前の雰囲気が伝わってくる。このような元々建物が密集しているエリアにこのようなターミナル駅が存在することは予期せぬ面白い関係性を生み出すことがある。新しい街と旧い街のコンフリクトの効果である。

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 さて、駅前を荒川に向かって進むと旧日光街道沿いの宿場町が商店街になっている。駅に近い本陣跡などは名残すら感じられないが、高札場跡を過ぎた頃から旧い町家がぽつぽつ増えてくる。ここでも新旧の取り合いがまだ程よく残っているといえる。おそらく観光客が集まる歴史風情の残る街並みというわけにはいかないが、散策がてらに視覚的楽しみをもたらすものとしては十分であり、住人にとってのある種の誇りや愛着形成には寄与するだけの効果は持ち合わせていると思う。こう書くと語弊があるが、「東京」としての魅力が低かったために開発の対象として放置され、その結果、自然な新陳代謝が行われている街である、との印象を受けた。

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 少し進んで日光街道(国道4号線)沿いまで足を延ばすと、そこはもうマンションが建ち並び、既視感漂う画一的な幹線道路の風景である。下町的雰囲気を客寄せのコピーにして開発される周囲に、下町本体までが飲み込まれてしまっては元も子もない気がする。駅の反対側には東京電機大が神田からの移転を決めたようであり、まだまだ変化する街となりそうである。今の活気が似非とならぬか心配である。今ならまだ間に合う街並なのだから。

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(川上正倫)

丸の内の価値をはかる(7)文化財による価値-3

東京駅
 東京駅の保存が、丸の内の超高層化のひとつの契機であることは間違いない。しかし、法律を変えてまで実現させた保存に異議を唱える人は少なかろうが、その方法に疑いがないわけではない。1914年に政府の威信をかけて作られた辰野金吾の代表作。重要文化財にも指定され、戦時中に壊された屋根を修復することも決定した、などと聞くと良いこと尽くしのような気もする。
 しかし、戦時中の爆撃で壊されたとして、ほんの30年間しかオリジナルの姿をとどめていなかったのである。その後60年もの間、我々にとっての思い出たる東京駅は、実は2階建て仮設屋根の東京駅なのである。三菱1号館同様に正解のない悩みである。保存や復原などとオブラートに包まず、美的改修と呼んできちんと責任をとってはいかがだろう。象徴的な建物とは言え、駅舎という建物特性上、幅が長い。目の前を歩いていると、象徴性よりも界隈性の方を感じてしまうのが不思議である。
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東京中央郵便局
 東京駅正面にあるこれぞモダニズムというきれいな建物が、今取り壊しの危機に瀕している。吉田鉄郎による東京中央郵便局であるが、機能的な建物が機能性を失った時の主張は、もう歴史的価値しかない。果たして、歴史をウリにする覚悟をした丸の内に、この建物が救えるのか。文化財を抱えることによる超高層とセットでの点的な計算はしていよう。今こそ、それらの連環としての面的な経済効果を評価して欲しい。
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皇居から
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 丸の内を外から眺めると非常にきれいな街並だと思う。色合いも高さもバラバラではあるが、決して不快な光景ではない。しかしながら、皇居はだだ広い。丸の内のビルを眺めて大きいな!と思っていたのがうそのように、おもちゃの積み木のようにも見える。
 この一大緑地とそこに集う人々ののどかな風景に「公」の可能性を少し感じた。
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(川上正倫)

赤坂サカスよ、赤坂を咲かせ!

東京の新名所・赤坂サカス
 地下鉄赤坂駅からゆるやかな坂を上ったところに東京の新名所、赤坂サカスがある。ここの建物群は六本木ミッドタウンなどと比べ、いい意味で肩の力が抜けた大衆寄りな作りで心地よい感じを受ける。各建物内もなんだか領域がゆるくて歩きやすい印象である。周辺の街との関係も再開発にありがちな閉じた印象が薄く、料亭街の凋落によって衰退していた周囲の街並に、再開発の新しいエネルギーが素直に行き渡っているように見受けられる。ただ、オープン時の目玉であった100本の桜を擁するさくら坂は、並木の向こうに古びた民家の居間が丸見えという不自然な境界を作り出しており、顔であるに関わらず裏的な雰囲気が漂い、調整不足感が否めない点は少々残念ではある。
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赤坂Bizタワー内部

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Sacas広場につながる仲通り
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さくら坂から見える隣地の民家

放送局の「城下町」
 ところで、最近話題の再開発は、台場-フジ、汐留-日テレ、六本木ヒルズ-テレ朝など、放送局新社屋がセットになっていることが多い。今回歩いた赤坂サカスもそんな例に漏れずTBSとセットになっている。これらの再開発は皆、放送局を極とした各局の「城下町」を形成しているというのは少々穿った見方だろうか。最新情報を常に発信する放送局の役割と新しい街づくりの利害が一致し、各街のイメージ=各局の主義主張となっているようにすら見える。2010年のデジタル放送化で多チャンネル化するとそのような地域性の傾向はなお強まっていくかもしれない。
 それにしても、これらの放送局の足下には必ずといっていいほどイベント広場が設けられている。テレビという仮想空間の中から飛び出して観客と肌が触れ合うことのできるリアルな空間として、番宣も兼ねたメディアとしての効果が期待されているからなのであろうか。それ故サカスの特徴もイベント広場たるsacas広場に集約されているように感じた。
 ただ、リゾートであるお台場ならいざ知らず、放送局の番宣イベントを仕掛けて観光客の動員を狙ったところで、持つのはせいぜい1年ではなかろうか。六本木ヒルズはその建物の複雑さと元からある六本木の街の風潮がマッチし、周辺住民を常連客として定着させつつあるように、サカスはやはり赤坂の風潮にあわせた坂と広場の使い方が利用者の定着を図る勝負点となろう。
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Sacas広場の風景。TV局の番宣イベントが行われていた。

街ぐるみのインタラクティブなイベント
 実はこの広場は、広場空間としては珍しいくらい不利な立地となっている。坂上の行き止まりに設けられているが故に、広場からの見渡しはいいが、広場を見上げる通りからはその雰囲気が分かりにくく、広場に対する求心性は築かれにくい。また、TBS本社ビルのちょっと歪んだ形や赤坂Biz Towerの極めてシンプルなファサードなどに押され、広場自体は強い象徴性や軸性を持たない空間となっている。
 ここではその不利を逆手にとって、周囲のビルからの見下ろしに期待したい。この地の起伏を利用してなんぼである。六本木ヒルズのテレ朝前広場はすり鉢状になっており、イベントが見下ろせるので楽しそうな雰囲気が伝播しやすく、相乗的に人を呼び込む効果があり成功しているように思う。この赤坂も同様に、周囲を拠点とする人にとってなくてはならない栄養剤としてのイベントを行い、そこを見下ろす周りのビルの人々を呼び込むべきである。隣のビルには大手広告代理店だって入っている。彼等がこぞって行きたくなるようなイベントを打ってこそ、エンタメ主体の街に文化や特殊性が培われ、場所性を帯びた新しい価値が生まれるだろう。
 イベントだからといって、ステージとそれを眺める観客という固定的な形に束縛される必要性は全くない。道路境界や建物の内外、また再開発地区の内外に捕らわれることなく、360度の空間・都市的な関係にまで入り込めば、イベントは街ぐるみのインタラクティブな関係性を築くこともできよう。そして、その街ならではの価値を楽しむ人々(街のプレイヤー)を作り出すことで、さらには彼等を見たい人、彼等と共に参加したい人が街に賑わいをもたらすことになる。聞く所によると周辺の寿司屋を巻き込んだ食べ歩きイベントのようなものも開催されているらしく、その蕾みは開きかかっているようである。
 サカスとは赤坂に多い坂の複数形「坂s」と花を「咲かす」をかけたネーミングだそうだ。赤坂サカスとは自分が咲くのではなく、赤坂の街全体を咲かす!という宣言なのだとすると少々応援したくなってくる。
(川上正倫)

丸の内の価値をはかる(6)文化財による価値-2

日本工業倶楽部ビル
 東京銀行協会ビルの不幸を横目に、完全復原によって保存されたのがこのビルである。わずか10年でその運命が変わるとは、都市計画制度も罪だなと思いながら眺める。東京駅側、正面側は違和感なく超高層が背景となっているが、皇居側に歩を進めて振り返ると、飛び出て来ているのか、はたまた前時代を背負って突撃したのか、かなり滑稽な取り合いになっている。また、31mに足らないビルを補完するように超高層側では律儀に31mデザインを踏襲しているが、残念ながらこのラインはある程度距離を持ってみないと意識しづらい。しかし、街区の大きさがしっかりしていると建物のデザインにあまり気がいかない。工事中の猥雑さを乗り越え、超高層によるきれいなすっきりとした街並が形成されていると言える。国や会社の威信をかけて造った近代建築のように濃密なデザインは、むしろヒューマンスケールなのかもしれないと感じる。
 31mラインの意味は、デザインの効果というよりはその街に参加するという宣言のようなものと受け取りたい。
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明治生命館
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 昭和に建造された建物として初めて重要文化財に指定された。保存方法は、工業倶楽部ビルの延長上に位置づけられる。銀座などにも見受けられる、建物と建物の間の路地を積極的に見出した、「地」と「図」の反転モデルのようである。新しい超高層と19世紀的建物によって作られる隙間空間は、写真だけ見ればヨーロッパと見紛う景色である。
 しかし、果たしてその感想が、この街にとって発展的な意味を持つのかは疑わしい。別に日本的であることを求めるわけではないのだが、このような光景は変化の早い東京では各地で散見できる。保存を決定した時点で、このギャップのようなものを街として引き受けるべきであり、現状では生きている街における死に体の建物の「保存」の価値が、人々の活動にまで落ちてきていない。単なるオフィス街から観光などのサービス街への変換は、まだまだ発展途上なのであろう。
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三菱1号館
 明治生命館の前には大きな工事中の敷地がある。三菱1号館が完全復原されるのだという。1970年代に保存要望の相次ぐ中で、時代に合わないと取り壊れた一丁倫敦を再現するのだという。しかしながら、歴史的価値は見出されなかったにしろ、人々の記憶に馴染んで来たであろう白い尖塔の丸の内八重洲ビルが、併せて取り壊されたのは残念である。
 本物を壊しておいて、歴史性を訴えてその模造品を再建する。さらにそのとばっちりで、今ある歴史的な建物を壊してしまう。なんとねじれた構図なのだろうなどと思いを馳せてしまう。復原ブームの影には、それによって増される床面積が見え隠れするわけであるが、30年たって近代の街並をウリにするのだという覚悟。本当は超高層を建てたいだけなんじゃないの?と疑いたくもなる節操のなさであるが、歴史をウリにする以上は長期的な戦略が必要である。
 自分の土地で何を壊そうが何を作ろうが勝手だろう、と言われりゃそれまでであるが、次の戦略転換で超高層を壊すっていったってそう簡単にはいかないのだから。
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仲通り
 以前の街並がどんなであったか、すっかり忘れてしまうほどきれいな街並である。それまで、オッサンの巣窟を建物のファサードでぐるっとくるんで表面的にはきれい、という構図で堅苦しいイメージだった。いまや、路面店がならぶ優雅なショッピングストリートである。
 しかし、逆にそれを眺めていると少々怖くもなる。たしかにミレナリオをはじめとした広報活動など、担当者の苦労と成功は認めたい。ただ、人々はなんだかその戦略に流されているだけにも見え、そこにデベロッパーの余裕のしたり顔をみてしまう。
 余裕故の安易な転換にどれだけ街がついて来られるのか、少々不安を感じずにはいられない。
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(川上正倫)

丸の内の価値をはかる(5)文化財による価値-1

 丸の内はその歴史的背景から東京の中でも特異な位置づけを担っているエリアといえる。その発展には常にオーナーである三菱の影響がある。観光客の会話でもそれが主たる話題になるくらい浸透しているそのブランド力には驚かされる。
 日本の歴史的建造物のイメージは木造寺社仏閣であり「京都・奈良」にその地位を譲るが、ここでは「石」である。丸の内は、木造建造物とは一線を画した近代建築群の集積地である。とはいえ、これらの建物の歴史的有用性を語れる人は稀であろう。それでも、皇居や日本橋を含めた丸の内周辺を散策すると、その石に感じる歴史の重みを否定する人は少ないであろう。昭和の建築として初めて重要文化財に指定された明治生命館をはじめ、重要文化財の東京駅駅舎や中央郵便局など優れた建造物が並ぶ。どれも、近代日本や会社の本社屋としてモニュメンタルな意味を担わせる意味もあってか力が入っている。蘊蓄をもつことでこれらの楽しみが増す事受合いである。
 ここでは技術的/法的価値は別に委ね、景観による価値評価をフィールドワークで試みる。

丸ビル・新丸ビル
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 建設中であった新丸ビルの再生も終わり、東京駅から皇居にいたる超高層ゲートが完成した。どちらも31mでデザインが切り分けられている。100尺制限で維持されていたかつての街並を意識してのものである。技術的な背景もあったにしろ、西欧の建築の流れに逆行するような中層建物による(しかも20世紀になってから19世紀前の西欧を模倣して!)中心市街地形成は、かつてのこのエリアを世界にも稀な経済性より美観を優先した景観型商業地域にしていたと思う。
 90年代、政治の中心を西新宿に奪われつつありながら、特例容積率適用区域制度、特定街区制度などの新しい都市再開発法を背景に大規模な再開発が開始された。かつて東京海上が、前川の案をもとに100m越えを目指したことに対して、三菱が「美観」を盾に反対したことがあったが、その三菱が率先して計画した「マンハッタン計画」が、同じく不評をかったのが皮肉である。
 しかし9階建てだった丸ビルが耐震改修不能と診断され、先陣をきって37階建てへ変貌すると、流れは一気に超高層化へ。丸ビル35階展望室や新丸ビル7階ルーフテラスにのぼると、かつてはオフィスワーカーに専有されていた東京駅前のこの雄大?な景色が楽しめる。地盤面から少し上がった目線、しかも前に遮るもののない近さで眺められる体験は、なかなかに気持ちがよい。
 新丸ビルのルーフテラスはちょうど31mの高さにあり、身を乗り出し他のビルを眺めると同じ高さの建物は皆無である。他のビルも2本のゲートタワーにならい、31mラインでデザインが切り分けられているようだが、通りを歩くともはや空の広さが違う。
 丸ビルと新丸ビルは高さも外観デザインも異なるが、それによって東京駅と皇居を結ぶ軸線を優しげな印象に変えているように思えた。しかし、道路からはあまり気にならないが、少々高いところにのぼると、ばらばらなスカイラインがあまりきれいではない。昔はそれこそ見下ろされることなどなかったからよかったのだろうが、ルーフデザインに余地のある街並である。
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東京銀行協会ビル
 皇居側に移動してみると、31mラインどころかレンガ壁が足元を巻いているビルがある。このビルはバブルの最中に立て替えられた。当時はまだ特定街区制度等なく、通常の総合設計制度によって増床をした。経営的にうまくいかなくて仕方なく、、、というのが本音のようだが、多くの人にとって馴染み深かかったレンガ造を取り壊すのには、それなりの抵抗があったように想像できる。そこで、なんとか界隈を維持しようと、レンガ造ファサードで瘡蓋のように表層を覆うと、今度はその軽薄さを揶揄する声が高まった。
 建築界の悲哀でもあるが、その深い意図なき保存が、現在の丸の内文化財的再生のひとつのきっかけとなっていると思うと感慨深い。
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(川上正倫)

豊洲の価値をはかる(7)再開発がもたらすもの-3

見上げてみたり見下ろしてみたりの価値
 タワーマンションが林立する姿は壮観なものであろう。新宿の高層ホテルに住んでいるような都会を感じるセッティングである。六本木ヒルズは周囲の低さから大名気分を味わうものだとすると、豊洲はもっと日常に近い都会感ではなかろうか。
 1880年代都市への密集の解決策としてシカゴに建てられたホーム・インシュランス・ビルが、近代高層ビルの祖と言われる。世界初の超高層は、1900年に建てられたニューヨークのパーク・ロー・ビルだ。日本では1962年に31mの高さ規制が撤廃され、1968年日本初の超高層ビル・霞ヶ関ビルが完成する。日本初の高層タワーマンションは1971年の19階建て三田綱町パーク・マンションであり、故丹下健三もこの建物に居を構えていた。
 豊洲では30階を超えるタワーマンションも現れてきている。1棟1000戸近く、約22000人の居住を想定している。戸数がもたらすスケールメリットとしての共有空間の充実はそれだけでも価値といえる。そして、さすがに高層階からの眺めは素晴らしい。かつての浅草陵雲閣、愛宕山の展望台、現代の森タワー展望台に至るまで人々を魅了する「高さ」を自分の住戸で得られる可能性が広がった。個の楽しみと併行して外来者は、タワーが並び立つ景観を楽しみたい。新宿エリアとは異なり住宅地というスケールは、オフィス空間とは異なる緩やかな時間の流れのようなものが感じられ、見上げると人々の日常の積層が塔となっているだろう。
 しかし、立ちつつあるタワーはどうも単調でよろしくない。今となっては時すでに遅しであるが、平らな埋立地の新たなる地平線としてのスカイラインについて、もっと統合的な協議がなされるべきである。
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150mという高さに住む
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似たような見上げ

リゾートであることの価値
 「景観・環境・防犯・防災・育児」。工業地域がもつ対局のイメージコンセプトを掲げる豊洲一帯は、お台場とつながるリゾートという顔も得ようと努力がなされている。東京ディズニーリゾートをはじめ、「リゾート」という言葉が流行のようである。
 リゾートとは、なんなのか。海が近ければいいというわけではないだろう。広辞苑で引っ張ると「保養地・行楽地」とある。リゾートたるためには、少なくとも郊外型店舗の構成は反目してしまっている。ららぽーと外部のドック周辺はたしかにリゾート的構成をとっているが、晴海通り以西にその様子はまったく伝わっていない。晴海通りの幅員の広さはもっての他だとしても、太陽のもと、楽しく散歩するような界隈ではない。せっかく十分広い歩道を確保しているのだから、そこに向かってカフェやバー、ちょっと立ち寄れて日常からの開放を促してくれる施設があってもよい。
 上空に日常、足元にはリゾートが広がり、それこそ東京都心という密集集約のスケールメリットたる都市空間が形成できるというものであるのに。
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ららぽーとの中はキッズであふれている
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イベント広場もありリゾート気分を盛り上げる

(川上正倫)

豊洲の価値をはかる(6)再開発がもたらすもの-2

埋立てであることの価値
 工業地域であった湾岸地帯を住居地域に変換する。ドーナツ化しつつある東京の住宅事情に対し、都心居住の可能性拡大は魅力的な話である。類似する再開発として、オランダ・アムステルダムの湾岸開発、中でもアイ・バーグという人工島の開発を思い出す。最初に行われたのが、アムス中心部との関係性、島の形や道路網、交通網の形状の整理だったというのだからおもしろい。
 日本だと道路は御上から与えられる。しかも、その地に適した提案が行なわれるとは限らない。また、建築基準法は道路がなければ建築してはいけないという。そういった制約の中で、しかも江戸の街を踏襲した東京の街路再構成の難しさは理解できる。しかし、豊洲は埋立地でありリセットもかけているのだ。なぜ、ディベロッパーや行政が手を組んで新たな街を再構成できなかったのだろう。道路の分断による不幸は汐留で経験済みのはずである。六本木ヒルズは逆をやって城を築いたではないか。
 豊洲はもう工業地域ではないのに、なぜ晴海通りをあそこまで拡幅したのか。市場ができたら住宅地を分断する大通りにはトラックが押し寄せるに違いない。一方、歩道の広さは歩きやすく、埋立地ならではの平らさは自転車やベビーカーにもやさしい。しかし、地形的特徴のなさが逆に道路をつまらなくしているのも事実だ。道路によって多少起伏のある地形を作り出すぐらいの新たなる価値評価がこの埋立て島にはあるべきだと思う。
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駐車場、駐車場タワーと壁のようなマンション
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同一の設計なのにめちゃくちゃな配置計画

群島の中の群島の価値
 道路のつまらなさを助長しているのが、郊外のショッピングセンター形式にならった土地の囲い込みである。設置性と一時性を決め込んで上空権を売り渡すのは結構だが、悲惨な建物によって全体のスカイラインがめちゃくちゃになってしまった。郊外の幹線道路に対する集約性はここでは無縁なはずである。
 タワーマンションが生え揃う頃には島の中に浮かぶ群島よろしく、事業者ごとの独立したエリアが浮き彫りになってくるだろう。道路の分断性の強さが豊洲内部にも群島を作り出そうとしているのだ。これが渋谷と同じく住み分けに発展するか、各島が鎖国をし始めるのかで街全体の価値は大きく変わるだろう。
 とにかく、全体計画に先んずる経済戦略が街全体を支配し、個々のディベロッパーの独立した状態が目立つ。各街区が少しでも開放に向かえば、界隈が形成できかえって全体の経済的活気につながると思うのだが。浜辺がたくさんあるのも商売にとっても利があるはずである。そういう中で、群島である豊洲の中に新たな群島を築くのではなく、豊洲、晴海、辰巳、東雲、台場といった東京湾埋立て群島のそれぞれがキャラ立ちすると面白い。
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広すぎる晴海通りと各々で閉じている敷地
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ゆりかもめ終点とその周囲の島状の塊

豊洲の価値をはかる(5)再開発がもたらすもの-1

リセットの価値、記憶の価値
 ゆりかもめの寸断されたレールを見てここが東京湾岸の終着かと実感する。
 豊洲は1930年代前半に関東大震災の瓦礫処理を目的とした埋め立てを完了し、以後、工業地域として成長した。しかし現在は、工業地域だった雰囲気は感じられない。新たなタワーマンションが建設され、都心に最も近いベッドタウンを形成しつつある。かつてから存する公団のアパートの地域には工業地にある集合住宅の匂いが感じられるが、進行中の再開発は過去からの完全なるリセットとなることは確実である。不動産広告もリセットをイメージさせることに終始し、コンセプトとして「自然」、「子育て」などの郊外的キーワードを用いている。都心エリアでありながらリゾート性を持ち、かつ安全で…。土地の価値に縛られる農耕民族・日本人にとって、埋め立て地や工業地域の記憶はマイナスでしかないのだろうか。
 さらにトドメが、負となる可能性を持つ過去を賛美することなのかもしれない。ららぽーとの舟形の形状や敷地内外部空間におけるドック跡の活用。アートという名の下に豊洲中に散りばめられる造船所にまつわるオブジェたち。痛々しくもあるそのような努力によってリセットプロセスは完了する。こうして東京の再開発地域を訪れると等しく感じる薄っぺらな新しさが作られているのだが、少々無作為に立ち上がるタワーマンションを見るにつけ、これが新しい記憶の種となるのか不安を感じる。

 日本人は、明治維新、太平洋戦争後と概念のリセットには長けている民族であるが、まさか、ファミコン世代の設計者や開発者はゲーム感覚で飽きたらリセットすればよいと思っていやしないか。開発規模が大きければ未来像への責任感のようなものを持つと思うのだが、大規模なリセットによって始まったこの街の未来像の責任の所在が不明瞭であるのが残念である。
 公団14階からの眺めは素晴らしいが、運河や工業地帯に対する負の意識が、今見ると理解に苦しむ配置構成となり、その隣の新築マンションは現在の価値観にあった方向を向いている。結局30年前から本質に変化はなく、再びリセットの憂き目にあうことは容易に想像できてしまう。
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港湾施設と新設の高層マンション
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アートとしての碇

(川上正倫)

楳図邸騒動から景観を考える(3)

 吉祥寺の閑静な住宅街に赤白縞の住宅建設がちょっとした問題を引き起こしている。報道を見る限りでは、施主側も建設反対住民側も双方ともに利己的な主張をしているにすぎない。法で規制されるとそれを守る事でその範囲での自由が保証される。しかし、逆に規制がない場合には、何をしてもよいのだという根拠にはしづらく、保証してくれる大義が得にくい。街並を形成する建物の美的な質については特にそうである。今回のケースで持ち上がっている赤白縞は、そのような「保証」からはずれてしまった事例とも言えよう。この保証外の質を問題としはじめた背景には、「景観法」などにより景観の価値が少なからず認められようとしていることがあるのかもしれない。ただ、現実に景観が問題となるのは、ほぼ既存景観の保護に偏っているのではなかろうか。景観を守る対象としか見ていないのは、大きな勘違いを孕んでいる。本来、景観は作っていくものであり、既得権益を主張するための対象とはすべきではない。

■将来像に対するコンセンサス

 今回の一件は、報道されている内容から判断する限りは、赤白縞が好きでたまらない人と許容できない人との口喧嘩にしか見えない。議論が口喧嘩レベルに急落してしまうひとつの原因に、街並の将来像に対して、あらかじめ何のコンセンサスも得られていない点が挙げられよう。自分が大切にしているものが何か、失ってはじめて気づくということもある。しかし、失われそうになってから、赤白縞をつるし上げても何の解決にも進歩にもつながらない。反対する上では少なくとも「赤白縞が街の未来像と方向を異にするものだ」というコンセンサスを形成していない限り、利己的なわがままとしか捉えようがない。(そのようなコンセンサスを得るのは、周囲の住宅を見る限りそれは困難としか思えないが)
 建築技術向上に伴い、建築はより今まで以上に長い寿命が想定されてきている。姉歯事件以降、それを支える専門家に対する技術的責任の意識が社会的に大きくなっていると言える。寿命が延びた建築は、街並や景観に関して長期にわたる責任を負うことになってきているとの意識も同時に高める必要が出てきている。何よりも大切なのは、我々建築設計に携わる専門家こそ、吉祥寺で展開されているような口喧嘩の元凶なのだということを改めて認識すべきことにある。専門家は裏でこそこそと問題を起こさぬよう隠蔽に奔走するのではなく、街並の未来像を積極的に検討・議論し、周囲のコンセンサスを得られるよう、そして新しい価値を作り出すよう先導していかねばならない。
(川上正倫)