谷中

谷中地図
フィールドワーク
添田 昌志
 

●曲がりくねった道

 この街に真っ直ぐな通りはほとんどない。どれも奇妙に曲がりくねった道ばかりである。誰かが意図的に計画した訳ではないこれらのカーブはどれも独特である。実は、このことがこの街に様々な意味を与えている。 曲がりくねった道はその先を見通すことができない。つまり、通りの全貌が一望できない。意識が近い距離に抑えられている。また、道が曲がっていることは、歩くにつれて先に新しい景色がどんどん開けていくということを意味する。そして、このことは先の空間に対する期待感を高める効果がある。何か面白いものがこの先にあるのではないだろうかという雰囲気を醸し出すのである。
よみせ通り
意図的に計画された道にはない、独特のカーブを描いている。カーブの先にはどんな店があるのだろうと期待を抱かせる。

このような店先のディスプレイ(?)が視線をより近くに引き付け、意識を小さい範囲にとどめさせる。

谷中銀座
よみせ通りに比べると、道の曲がり方は緩やか。しかし、狭い道幅に多くの人が通っているため、ここでも先を見通せることはない。

これでもかと言わんばかりに、押し寄せる商品、看板。視覚情報の洪水状態。左右をキョロキョロしながら処理していく。

このような狭い路地が街の至る所にある。どの路地もうねるように折れ曲がり、先を見通せることはない。しかし、建物の向こうに次の空間が広がっていることはよく感じ取られる。このことが閉塞感をなくし、期待感につながる。

よみせ通り
意図的に計画された道にはない、独特のカーブを描いている。カーブの先にはどんな店があるのだろうと期待を抱かせる。

同じような狭い道でも、直線で遠くまで見通せてしまうと、期待感に乏しい。歩いて行っても風景は変わらず、また、近くに視線を引き付けるような要素もないため、単調でつまらない印象になる。一般的な住宅街には、このような景色は多い。

車が通る比較的広い通りもくねくね曲がっている。一見見通しが利かないので、危なく思うが、ドライバーは危険を予測してスピードを控えるようである。


スケール感の異なる不忍通り
見通せる距離が遠く、その先に大きな建物がある。都会のよくある風景で、ここに谷中のアイデンティティはない。これが現代都市の一般的な意識のスケールなのかもしれない。

マンション論争
このようなタワーマンションが建つことの、この街における問題点は、単に、木造の街にコンクリートの建物がそぐわないというだけではない。意識される空間が身近な範囲に限定されているこの街に、数百メートル先から乱暴に侵入し、意識がそこに向けさせられることにあるのではないだろうか。全く無関係な離れた土地の人間の異なるライフスタイルを無理矢理見せつけられている、と感じるのかもしれない。


 

●迷いも楽しみ

 もちろん、このように見通しが利かず折れ曲がった街は、分かりにくく、迷いやすい。街全体の形も非常に不整形である。自分が街のどこにいて、どの方角を向いているかを逐次把握することなど、長年の住民ならいざ知らず、訪問者にはまったくもって不可能である。しかし、この街で迷うことが果たしてストレスになりうるであろうか?むしろここでは、迷うこと自体も楽しみになってしまうのではないかと思う。
 そもそもこの街に、なんらかの用を足すために、特定の目的地を目指して訪問することは少ないだろう。あったとしても、せいぜい谷中銀座を歩きたいぐらいではないだろうか(ちなみに、谷中銀座は町の中のちょっと広めの通りを、商店の多そうな方へ、人の流れている方へ行けば、なんとなく行けてしまったりする)。おそらくは、みんな街を散策しに、そぞろ歩きを楽しみにやって来ている。だから、どこそこに、最短距離で早く着きたいなんて、思わない。機能的に分かりやすくある必要性がない。ここは、じっくり、ゆっくりと街を楽しむ、そういう場所なのだ。そして、もし、迷ってしまったとしても、気軽に尋ねられる地元の人たち(お店も含めて)が目の前にいっぱいいる。だから迷いやすくても全然構わないのだ。
街にはいくつか案内板が設置されている。しかし、このような複雑な形状の街では、人によっては、地図を読み取る(地図上の位置と実際の場所とを照合する)ことすら難しい。

ガイドブックやパンフレットを持ちながら歩いている人を多く見かける。場所が分からないと、「あっちの方?」「いやこっちでしょう?」と、あれこれ相談しながら歩いている。迷いながら見つけることも、この町特有の体験になる。

 

●物見やぐら、夕焼けだんだん

 ごちゃごちゃと折れ曲がった谷中の町の中で、開けている場所がある。それが「夕焼けだんだん」である。標高差にしてわずか10mちょっとであろうこの階段を上ると、谷中の街が一望できてしまう。この街の建物の低さを実感する。見通しの利かない場所を延々と歩いて来るということが、この見晴らしにより劇的な印象を与えているのだろう。
谷中の町がいかに「低く」できていることが分かる場所。ここでの風景は、きっと今昔問わず、町の住民全員に共有されているのだろう。 しかし、今は、あのマンションさえなければなあ、と誰もが思ってしまう場所なのかもしれない。
不忍通り沿いは容積率が高く、高層のビルが立ち並ぶ。谷中から眺めるとまるで屏風のように立ち並んでいる。前面道路幅に基づく現在の基準では、このような遠景に配慮した計画は難しい。

 

●パブリックオープンスペース

 もう一つ視線の抜ける場所、それが谷中霊園と寺院である。夕焼けだんだんとは違い高低差はないものの、そこには広く視界が広がっている。
一直線に走る墓地内の道路。緑のためか、爽やかな印象はあっても、退屈な印象はない。

ここにもマンションの影が・・・
開けているとはいえ、その視線/意識は従来、墓地の中で納まっていた(つまり視界には、ただただ霊園だけが広がっていた)。このことが、この場所を特別な場所としていたと言える。このように高層マンションが見えてしまうことで、聖なる空間が、俗に侵略されたと感じるのは私だけだろうか。

寺院の上には広い空が広がっている。寺は寺の建物だけでなく、周囲の環境と一体となってこそ、聖なる空間としての威厳を保てる。ここで、空の果たす役割は大きい。

寺町は地形的には尾根沿いに位置している。そのため、周囲の建物の影響を受けず、寺院の上には空が広がる。
しかし、いくら地形的に優位な場所に建っていても、隣地に建つマンションの影響は受けてしまう。このマンションは地域住民の運動の結果、9階建ての予定が5階建てに変更されたのではあるが・・・

 

●結

 おそらく、多くの人はこの街を昔ながらの下町、ヒューマンスケール溢れる街という捉え方をしているだろう。しかし、その要因は、単に、昔ながらの商店が建ち並び、低層の木造建物が密集しているというだけではない。折れ曲がった街路が、意識する空間を近い範囲に限定していることが、この街独特の包まれるような感覚に繋がっているのではないだろうか。街の「図」としての街路構造と「地」としての建物が一体となって、身近なスケールに統一された印象となるのだろう。そして、見通しの利かない街の中に、パブリックな場所・みんなに共有される場所として、見晴らせる場所が存在することで、その意味がより強調されている。つまり、閉じた「個」と開けた「公」とがメリハリがついて共存していることが、この街の一番の特徴ではないだろうか。しかしながら、この特徴を、現在林立するマンション群から守っていくことは極めて難しいようである。