秋葉原

秋葉原地図
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フィールドワーク
川上 正倫
 
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●小物を積んで山となす的なまとまりの街秋葉原

秋葉原の印象といえば古いところでは「電気街」。「オタクの町」なんかも使い古された感があるだろうか。まあ呼び名は変われど、時代を経て社会が変化しつつも秋葉原は趣味的物欲を引き受ける町であることに変わりはない。それ故に秋葉原の景観というと、ごちゃごちゃしている、ごみごみしている、などおもちゃ箱をひっくり返したような光景を想像する。まあまさに彼らはおもちゃ箱をひっくり返して商売をしているような節もあるが、結局そこに消費者が求めているものは微差である。そして実は、この街の街並みの価値もまた細かなパーツの違いによるものなのだろう。この街に集う人々の、値段、種類、など興味のない人から見れば全く価値のない微差について評価がつくりだす全体性がひいては建物を形成する要素に対する関心にも影響している。色眼鏡をはずして冷静にみてみると、要素は少なく、道路もまっすぐで実は言葉にしてしまうと真逆のヨーロッパの街並みのことのようにも聞こえなくもない。今回は、そのあたりの実際の検証を前回同様の切り口を通して検討してみることにする。

秋葉原におけるまとまりのタイポロジー
今、秋葉原は景観的には過渡期にあるといえる。駅前にはすっきりとしたビルが建ち始め秋葉原にようやく訪れたモダンの夜明けを演出している真只中であるが、果たしてこれは、秋葉原のはじまりを意味するのか、終わりを意味するのか。別にピーターパンシンドロームを煩った保守的環境評価を推奨するつもりはないが、どうもそれらの再開発については批判的になってしまう。現況の汚さに対する解決策としてもあまりにも安易で不自然である。この不自然さは、この町のまとまりを無視しているからではないだろうかと予想する。前回同様以下の4つの観点で秋葉原の街中を探索してみる。
1. 配置的連続
2. 意味的連続
3. 配置的独立
4. 意味的独立

総括:まず、秋葉原の景観の骨格は、格子状の街路と特徴のない中層のビル。それらに貼付けられた色とりどりの看板。これらがかなりマッシブな塊を形成する。そのような塊の中にあって自分の目的に向かって練り歩く。それが人と建物の関係を作っている。つまり配置的にも意味的にも「連続」志向が強いように感じられる。ところが、これらの醜悪な(ときっと感じているであろう) 建物群と一線を画し、「独立」を打ち立てた再開発がまさに進行中でこのふたつが入り交じった景観を今評価する意味はなかろう。ただ、この新しい景観はどこにでもあるもので、古い景観が秋葉原特有であり、再開発者がそのことを意識しているのかが問題である。お台場や同様の東京自身による幻想の「東京」の模倣が果たして秋葉原に見合った景観形成なのかが疑問である。つくばエキスプレスでやってきたつくばの住人が自分の街の方がよっぽど都会であることに気づくことを恐れているのか。別にいいじゃないか。「ワー、高いビルがたくさんある。さすが東京だね。」なんて行ってもらう必要はない。東京なんて巨大なだけが取り柄の田舎街なのだから。しつこいがきれいなビルが悪いわけではない。単に計画そのものが安直でなんの工夫もないのに都会ぶるのがいけないと思うのだが。

 

●秋葉原

秋葉原における配置的な景観と意味的な景観は、かなり近接しているといえる。というのは、建物はかなり整然となっており、その状況に対する「連続」か「独立」かという態度は連動しているともいえる。少々わかりにくい分析となっているが、大きくは再開発と既存区域の対立構図を扱った。

 

●配置的連続

秋葉原の景観価値とは関係ないが、左右の景観を見比べると角地の態度の取り方による景観の配置的連続の方向性の違いがわかる。(B-1)(B-2)  
 
   
ここでは、看板によって配置的な連続が形成される。実際に建物だけをみるとシンプルで素っ気ないものが多い。派手なイメージは看板が作っている。これらの看板の内容が意味的な連続も作り出している。景観としては非常にまとまりの強く「電気街」「電脳都市」などと意識的なくくりができるのはそれ故ではなかろうか。(A-3)(A-4)  
 
   
本来景観を分断する要素である高架がここでは、まとまりを作りだしている。首都高景観問題のひとつの解決方法にならないか。(C-5)(C-6)  
 
   
大通り沿いの広告の塊は、夜になるとより一層、量塊性を増す。(C-7)(C-8)  

 

●意味的連続

古き東京との連続を感じるレンガの建物が残る。電脳都市にも関わらず建物がちょっと近現代的でその取り合わせが秋葉原(というか神田)周辺の街の特徴でもある。(B-9)(A-10)  
 
   
看板が決して調和をみだすわけではない。そこがどのような調和をもとめているかということが問題となる。左右の景観は建物だけの次元で考えたら意味的にも、配置的にも連続した自然な街並といえるのではないだろうか。(A-11)(A-12)  
 
   
このあたりも印象に残るのは看板だけ。建物の差は特になく、看板の色や文字のみで違いをだしているので街並としてのまとまりはあるように思う。(C-13)(C-14)  
 
   
夜になるとより看板が目立つ。建物は昼も夜も背景にすぎない。(A-15)(A-16)  

 

●配置的独立

新しいガラス張りのビルは、そのミテクレからくる意味的な独立もさながら、他との配置的な独立も意識的である。やはり既存の街とは景観の質を異とする設計側の気持ちが反映されているのか?いずれにしても景観の方向性は見いだしにくい。(B-17)(C-18)  
 
   
昼には大きな領域でのアイストップ。夜には看板部分の頭のみのアイストップ。光や色の作るまとまりの変化がここであらわれています。配置的独立の異なる効果。(A-19)(A-20)  
 
   
路地は本当に密集していて「電気街」秋葉原に抱くイメージとは異なるすっきりした街並。格子状の街区に支えられる秋葉原の建築景観自体はむしろ別の景観領域に包含されていると感じる。(A-21)(A-22)  
 
   
ちょっと路地にはいると格子状のすっきりした街並であることが意識される。配置形式も連続している。(A-23)(A-24)  
 
   
通りを挟んでの比較。夜でも再開発ビルの壁が領域の終わりを示す。スカイラインの凸凹も景観の連続をつくりだしていることに気づかされる。(B-25)(A-26)  
 
   
通りを隔てて全く関係ない景色が向かいあう。興味のないものには見向きもしないという趣味の空間とその恩恵に授かりながら無関心を装うオフィス。(C-27)(C-28)  
 
   
再開発によって連続性を勝ち得た大きなボリュームと連続性を失いつつある看板で埋め尽くされた看板小さな店舗。(C-29)(C-30)  

 

●意味的独立

高速道路によって分断されるオフィスビル群と商業ビル群。高速道路と平行に走る線路を中心に行われている再開発によって意味的な領域と配置的な領域の境界がずれることに。建物の配置関係と機能と意匠が強制変質させられる景観。(B-31)(B-32)  
 
   
道路幅もあり光も風もよく通るビジネス街。高速道路からこっち側は閑静な地域である。(B-33)(B-34)  
 
   
駅周辺の移りかわっていく混合景観。いわゆる木造→RCという景観とは別次元で必要性が説ける東京の典型的過程景観とは異なるタイプの過程景観。時代背景の変化に伴う建築のペースの早さ自体によって景観に目的がないことに気づかないでいたことに今更ながら気づかされる。(C-35)(A-36)  
 
   
店全体が光っているので路面が明るい。スカイラインの切れ目はあるが、GLレベルで連続している。線路が貫入していてもそれは変わらない。(C-37)(C-38)  
 
   
自らが否定するゴミゴミしたビルたちを見下ろすすっきりしたガラスの高層ビル。もはや見慣れたというよりも見飽きたこのような構図が成功した例ってあるのだろうか。(C-39)(C-40)  
 
   
どこかでみたことのある風景。デッキもガラス張りのタワーも特徴はない。他に類を見ない特徴のある街を「見たことのある」街にいかに早く作りかえるかを試した例。これらのビルが看板に覆われるのが先か秋葉原が見飽きた「東京」になるのが先か。(C-41)(C-42)  
 
   
ここも再開発された駅前。別にこれ自体が悪いという意味ではないのだが、最近よく見かけるこじゃれたビル群。品川、新宿どこでもそうであるが、今までの雑居ビルがガラスのカーテンウォールに置き換わっただけで本質が変わったわけではない。秋葉原が建物を看板で埋め尽くすことで批判したのがRCの素っ気ない雑居ビルではなかったのか。看板を否定したところで建物の本質が変わらなければ、つまらなさだけ残って新しい景観は生まれない気がするのだが。(C-43)(C-44)  
 
   
「電気街」は中央通りに平行に発展しているので、奥に行くほどその勢力は弱まる。看板のある通りから直交する通りには看板が全然ないといっていい。格子状の道路網なのでこれだけ素っ気ないと景観的には位置の区別がつきにくいものとなっている。迷子防止に小学校がどこかなど覚えておく必要が。(A-45)(A-46)  

 

●余談:「日本の景観」?

・電線の行き交う通り。
・ちょっとほっとしたりする景観だったり。(B-47)(B-48)
 

 

●電線がない!

   
電柱のない世界。なんか工事中にしかみえないのは、むしろ「日本の景観=クモの巣電線」に冒されているのか。日本の景観で常に悪に挙げられる電柱、電線だがなければいいってものでもない気がしなくもない?
(B-49)(B-50)
(B-51)(B-52)
 
 
   
ここも大きな埋め込み柱がある電柱のない通り。ちょっと違和感がある。(B-53)(B-54)  

 

●頭隠して尻隠さず

・表通りの電線を埋めた結果生じた巨大埋め込み柱。
・狭いところにかえって邪魔?
・看板にしろ、電線にしろ「煩雑」であることには変わりはないが、それが景観として「悪い!汚い!」に直結するのは、あまりにも単純な気がする。要は問題にする景観のタイプなのだから。(B-55)(B-56)
 

 

●総括

別に再開発が景観によくないとの苦情を呈するつもりはない。ただあまりにも違うものには街自体が興味を示してくれないのではないだろうか。微差であって初めて景観としての評価につながる。コレクションと一緒ではないか。景観とは何をコレクションするかを決めないとガラクタになるということを秋葉原という街の景観が教えてくれる。